橋本崇載
テンプレート:Infobox 将棋棋士 橋本 崇載(はしもと たかのり、1983年3月3日 - )[1]は、将棋棋士(八段)。棋士番号239。石川県小松市出身[1]。剱持松二九段門下。愛称は「ハッシー」。
目次
人物
将棋における姿勢・評価
渡辺明らと同世代で、有望な若手棋士の一人と評される。子供教室講師の経験者でもあり、立会解説を行うなど、将棋普及にも熱心である。
2012年現在、流行の戦形を研究することは無く、自らの指さない戦形についての知識はほとんど持っていないと言う。将棋記者に語った所によれば「僕には自分の世界があるので。」とのことである[2]。
個性的な言行・服装をきっかけとした人気の上昇
2004年度のNHK杯テレビ将棋トーナメントに出場した際、金髪のパンチパーマという髪型に、紫色のワイシャツを着用しており、その奇抜な出で立ちが話題となった。そのトーナメントを勝ち進み迎えた羽生善治戦(2005年1月放送)におけるテレビ視聴率は、通常のそれと比べて3倍になったといわれている[3]。また、2007年5月放送のNHK杯においては、度々テレビカメラに視線を送るなどしたため、再び話題となったテンプレート:要出典。2007年の放送については、ダウンタウン司会のフジテレビ系列の番組「爆笑 大日本アカン警察」でも“カメラを意識しすぎる棋士”として取り上げられた[4][5]。
これらNHK杯での活躍をきっかけとして、週刊ポストなど一般週刊誌にインタビュー記事が掲載されるようになった[6]。
2012年のNHK杯将棋トーナメントで、羽生との対局を控えた現在の心境をインタビューされたときには、「羽生さん?強いよね。序盤、中盤、終盤、隙がないと思うよ。だけどオイラ負けないよ。」「駒たっ・・・駒たちが躍動するオイラの将棋を皆さんに見せたいね。」という発言をした。これは佐藤紳哉の過去の発言をパロディしたものであり、喋る速度・噛む場所・体の横揺れなど細かい部分まで真似ている。ニコニコ動画などを初めとするネット上で非常に話題となり、一時流行した。一方、これを「羽生に対する侮辱」とした将棋ファンの非難を浴び、その結果橋本はブログとSHOGI - BARのホームページ(後述)を閉鎖した(※2013年5月現在HPはリニューアルしている[7])。
橋本が奇抜な髪型等をするようになったきっかけは、デパートでの将棋大会を見た女子高生が、「眼鏡をかけたおたく風出場者が多い」と述べたことに対して「マジやべぇ」と危機感を抱いたことにある。それ以降、上記の通り、金髪にするなど奇抜な出で立ちをするようになるが、髪型は、一時黒髪に戻すなどしており、頻繁に変えている[8]。
人柄
口癖は「マジやべぇ」(劣勢の時によく言う)。
奇抜な出で立ちは、ホストやヤンキーに喩えられることもあるが、人柄は見た目とは異なり、温和で礼儀正しく謙虚な時期もあった。
出生地と移籍
橋本は、2005年4月、所属を関東から関西に移す。関東から関西への移籍は珍しいが、橋本が移籍した理由は、大阪府にある両親の実家に転居したためであるテンプレート:要出典。しかし、2007年夏、再び関東に転居し、所属も関東に戻している。
連盟への登録上の出身地は石川県小松市だが、親が転勤族だったため、生まれてすぐ同県から引っ越しており、以後、石川県に居住したことはないテンプレート:要出典。したがって、橋本が同県同市に居住していたのは、出生後の僅かな期間のみであるが、石川県出身者としては初の棋士(女流棋士を除く)であることから、石川県で開催される棋戦では大盤解説者の常連となっている。また、出生地である小松市には、人間国宝の徳田八十吉が後援会長を務める後援会がある。
橋本は、移籍回数の多い棋士である。福岡県に住んでいた際、関西奨励会に入会したが、それ以降、関東から関西へ移籍し、再び関東へ移籍した後、再度関西へ移籍し、その後、三たび関東へ所属を変更した。
将棋にまつわるエピソード
1994年9月 奨励会試験では、2位で6級で入会。1位は渡辺明。7勝2敗だったが、その2敗は反則負[9]。 1998年の上期より三段リーグ入り。2期目には、最終日まで12勝4敗の2位で同星で順列が上位の阿久津主税との奨励会同期同年齢入段が見えていたが、2連敗を喫し6位に終わり、5期目となる1999年下期に、15勝3敗の1位で同星の佐々木慎とともに四段昇段を果たす。
2005年9月に石川県小松市で行われた飯田弘之らが開発したコンピューター将棋ソフト「TACOS」との対局で危うく負けそうになり、これが一因となって日本将棋連盟は棋士・女流棋士全員に連盟の許可なくコンピューター将棋ソフトとの公開対局を行うことを禁止する通達を出した。
2007年度第66期順位戦B級2組では、将棋世界2007年7月号で担当した順位戦昇級予想記事を担当し、自らを本命にあげるも4勝6敗と予想外の不振に終わる。橋本は、この件について、翌2008年7月号も担当した将棋世界の同記事(阿久津主税との対談形式)において、「4勝6敗はファンの方に顔を合わせられないくらい恥ずかしくて。いや私はね、相手が弱いとダメなんですよ。去年はあまりに相手が弱すぎて嫌気がさした将棋が何局もあったんです。」「もう、相手の弱さに呆れたことが何回もあって。いや、そういう脆さがあるうちはダメでしょうね。ホントは強いんだけど。」などと発言した。
2009年度前期のNHK「将棋講座」の講師を担当した。タイトルは「橋本崇載の受けのテクニック教えます」。2009年8月2日放送分では、夏をイメージして聞き手の中村桃子は浴衣姿で、橋本は浮き輪を持って出演した。
2009年12月1日、東京都豊島区池袋に酒と将棋を楽しむバー「SHOGI - BAR」を開店した。バーを開店した目的は将棋の普及のためである。その後2011年4月30日に休業していたが、11月12日よりリニューアルオープンした(営業は土日・祝祭日のみ・・・※2013年5月現在では、毎日営業に変更されている)。
公式戦における戦績
竜王戦
- 初参加は第15期(2002年)で、当期以降後述の経緯で毎期昇級を続けた。
- 2006年9月22日、第19期2組昇級者決定戦決勝に勝利して1組昇級を決め[10]、七段に昇段した。初参加からの5期連続昇級は佐藤康光、鈴木大介に次いで3人目だが、橋本はすべての組においてランキング戦で敗れ、昇級者決定戦に回って勝ち抜くという珍しい記録となった。
- 第20期(2007年)から第23期(2010年)まで、4年連続で1組に在位。しかし、いずれも本戦出場に至る成績を修められず、第23期でランキング戦(対松尾歩)及び5位決定戦(対高橋道雄)と連敗し、2組への降級を余儀なくされた。
- 翌第24期(2011年)では2組ランキング戦で優勝し[11]1組への即復帰を遂げると同時に、本戦トーナメントへ初出場。1回戦で羽生善治名人に勝利するも、2回戦で久保利明二冠に敗れた[12]。
順位戦
- 初参加は第60期(2001年度)で、当期は5勝5敗の成績であった。
- C級2組在位5期目で迎えた第64期(2005年度)では、2006年3月14日に行われた最終局に勝利し、8勝2敗・3位の成績でC級1組への昇級を決めた[13][14]。
- 続く第65期C級1組でも、2007年3月13日に行われた最終局に勝利し、9勝1敗・1位でB級2組への連続昇級を決めた[15]。
- B級2組では負け越しを2度経験するなど若干苦労したものの、第69期(2010年度・B級2組在位4期目)において、9勝1敗・1位でB級1組への昇級を決めた[16]。
- 続く第70期B級1組でも、2012年2月3日に行われた第12回戦に勝利して8勝目(3敗)を挙げ、昇級を争っていた山崎隆之と木村一基が5敗目を喫したため、1戦を残してA級への連続昇級及び順位戦規定に基づく八段昇段を遂げた[17][18]。3月16日の最終戦の深浦康市戦にも勝ち、9勝3敗・1位の成績で、B級1組一期抜けを果たした。タイトル挑戦・棋戦優勝・将棋大賞受賞歴がいずれもない棋士が順位戦A級に昇級するのは、田丸昇以来史上2人目。
- A級初在位となった第71期では強豪を相手に苦戦し、2013年3月1日に行われた最終局は、自身が負けたら無条件に降級、勝っても深浦康市・谷川浩司・高橋道雄のうち2名以上負けないと残留できないという厳しい状態で迎えた。結果的に羽生善治に敗れて2勝7敗・10位となり、1期でB級1組への降級を余儀なくされた。
王位戦
- 参加6期目の第48期(2007年度)から第51期(2010年度)まで、4期連続で挑戦者決定リーグへの出場権を獲得。第48期及び第49期は予選を勝ち抜いた上で出場したが、第50期及び第51期は前期リーグで最上位者となったことに伴いシード権を獲得した。
- 第49期挑戦者決定リーグでは、タイトルホルダーの渡辺明竜王、A級在籍棋士の丸山忠久他を破り最上位者となり、挑戦者決定戦に出場したが羽生善治に敗れ初のタイトル挑戦には至らなかった[19]。
- 第50期挑戦者決定リーグでも、タイトルホルダーの久保利明棋王、A級在籍棋士の佐藤康光、三浦弘行、井上慶太を破り最上位者となり、2年連続挑戦者決定戦に進出したが木村一基に敗れまたも初のタイトル挑戦には至らなかった[20]。
棋王戦
- 第34期(2008年)で予選を勝ち抜き本戦に出場。そこでも当時王位のタイトルを保持していた深浦康市に勝利するなど快進撃を続け、準決勝に進出(敗者復活戦出場及び次期シードの権利を獲得)。準決勝で久保利明[21]に、敗者復活戦1回戦で阿部隆にそれぞれ敗れ、タイトル挑戦には至らなかった。
- シード権を獲得して臨んだ翌第35期(2009年)でも再び深浦に勝利し、2年連続で準決勝に進出。しかし準決勝で杉本昌隆に、敗者復活戦1回戦で山崎隆之にそれぞれ敗れ、またしてもタイトル挑戦には至らなかった。
王座戦
- 第60期(2011年-2012年)を終了した時点で、最高成績は第56期(2007年-2008年)及び第60期の二次予選決勝進出であり、本戦出場には至っていない。
王将戦
- 第62期(2012年)を終了した時点で、最高成績は第58期(2008年)の二次予選2回戦であり、挑戦者決定リーグ出場には至っていない。
棋聖戦
昇段履歴
- 1994年 6級 = 奨励会入会
- 1996年 初段
- 2001年4月1日 四段 = プロ入り
- 2005年2月24日 五段(勝数規定 四段昇段後100勝)
- 2006年4月1日 六段(竜王戦2組昇級 …竜王戦の昇段規定変更により、後付けでの昇段)
- 2006年9月22日 七段(竜王戦1組昇級)
- 2012年2月3日 八段(順位戦A級昇級)
主な成績
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
記録
著書
- 橋本崇載の勝利をつかむ受け(NHK将棋シリーズ)(2010年2月、日本放送出版協会、ISBN 978-4140161784)
- マイナビ将棋BOOKS 橋本流 中終盤急所の一手(2011年11月、マイナビ、ISBN 978-4839940812)
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:日本将棋連盟所属棋士 テンプレート:将棋竜王戦
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タグです。 「renmeiProf
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ テンプレート:Cite news を参照、および引用。大川の問いに答えて。
- ↑ お気楽カフェVol.2 橋本崇載五段(2005年、段位は当時。リンク切れのためWeb Archiveも参照)で本人がコメントしている
- ↑ 棋士らしくないブログ:タイホテンプレート:リンク切れ
- ↑ アカン警察捜査日誌#2:橋本崇載棋士がタイホされた影響からか
- ↑ 『週刊ポスト』2005年2月4日号「僕は「ヤンキー」じゃありません-<将棋界の異端児>橋本崇載四段」
- ↑ SHOGI-BAR OFFICIAL HOMEPAGE/外部リンク参照
- ↑ 将棋 橋本氏がネットで大人気 | web R25
- ↑ 将棋のチカラ 阿久津主税著
- ↑ 第19期竜王戦 2組ランキング戦(日本将棋連盟)
- ↑ 第24期竜王戦 2組ランキング戦(日本将棋連盟)
- ↑ 第24期竜王戦 決勝トーナメント・七番勝負(日本将棋連盟)
- ↑ 第64期名人戦・順位戦 C級2組(日本将棋連盟)
- ↑ 1敗で最終局を迎えた村山慈明が敗れたことによる逆転昇級であった。
- ↑ 第65期名人戦・順位戦 C級1組(日本将棋連盟)
- ↑ 第69期名人戦・順位戦 B級2組(日本将棋連盟)
- ↑ 第70期名人戦・順位戦 B級1組(日本将棋連盟)
- ↑ 橋本崇載七段が八段に昇段!(日本将棋連盟)
- ↑ 第49期王位戦七番勝負・挑戦者決定リーグ(日本将棋連盟)
- ↑ 第50期王位戦挑戦者決定リーグ(日本将棋連盟)
- ↑ 久保は当期の番勝負に出場し、佐藤康光から棋王位を奪取した。