山本昌

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テンプレート:Infobox baseball player 山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)、1965年8月11日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手投手)。東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身で、同市の市民栄誉賞を受賞。

2014年現在、日本プロ野球における現役選手で最年長(48歳)、また移籍未経験で日本最長のフランチャイズ・プレイヤーである。

経歴

プロ入り前

野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時[1]。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し[2]日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する[3]。高校2年夏、高校3年夏共に、神奈川大会準々決勝敗退。2013年第95回全国高等学校野球選手権大会優勝の前橋育英監督荒井直樹は1年先輩で、当時ともに8キロのロードワークをこなすようになってから力が付いたと感謝している[4]

当時の日大藤沢高の野球部監督、香椎瑞穂は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学に進学し教師を目指すつもりでいた[5]。しかし、山本は1983年のドラフト中日ドラゴンズに5位指名を受ける。香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこと、父親が長野県出身の中日ファンだったことが最終的に大きな決め手となり「おやじが喜ぶ」と入団を決意した[6][7]

プロ入り後

入団当時、野球解説者だった星野仙一(1987年より監督)は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。

テンプレート:Byシーズン終盤の消化試合一軍初登板を果たした。翌テンプレート:Byには開幕一軍入りしたが、4月14日広島戦でのナゴヤ球場一軍初登板でヒジを痛め(のちに疲労骨折と判明)、その後登板機会がないままシーズンを終了する[3]

テンプレート:By2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[8]。しかし実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれ、山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一縷の期待を掛けられてのものだった。

ドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースには山本と西村英嗣が所属することになり、そしてそこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。

3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという[9]。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられるわけない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう[10]。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00[11]

帰国直後、当時の中日の投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、スクリューや精度の高いコントロールを駆使して一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは第3戦の先発に抜擢され工藤公康と投げ合ったが、敗戦投手となった。

テンプレート:By、なかなか勝利をあげることができず、シーズン14登板目の5月27日の対巨人戦での完封まで初勝利を持ち越す。この勝利に山本は試合終了直後から涙を流し、後年最も思い出深い1勝に挙げている[12]。しかし、9勝目以降なかなか勝ち星を得られず、星野から同シーズンオフにおいてのアメリカへの教育リーグ再留学を言い渡される。名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして9月23日の対阪神戦に登板するも、味方の失策などが重なり終盤逆転負けを喫しシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。ただ既に2桁勝利するしないに関係なく、球団側は留学させることを決定済で航空機のチケット(エコノミークラス)は用意されていたといい、山本は渡航の際に差額を払ってビジネスクラスに変更した、と語っている[13]。このオフの留学で、アイクと共にスローカーブを習得に励む[14]

テンプレート:Byは初のシーズン10勝を挙げた。

テンプレート:Byに恩師のアイク生原が永眠。精神的ショックは大きく葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた長嶋一茂らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めた[15]。最終的にチームは最下位に沈んだもののシーズン13勝を記録した。

テンプレート:Byテンプレート:Byと2年連続最多勝投手となる。以降1990年代今中慎二と共に左の二枚看板として中日投手陣を支えた。1993年には防御率1位(2.05)、1994年にはシーズン19勝(8敗)で沢村賞を受賞している。

テンプレート:Byは初の開幕投手を任され、開幕戦横浜ベイスターズ相手に8回2/3を投げ自責点2で勝利(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録)。その年18勝で3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振。しかし中日は最下位と低迷した(なお、山本昌はテンプレート:By札幌ドーム初の公式戦でも巨人相手に先発している)。同年オフ2年契約、「2年間で合計20勝出来なかった場合は2000年度の年俸はダウン」の条項を組み込んだ契約を結ぶ。

テンプレート:By 2年連続開幕投手を務めたが、42歳の相手先発大野豊との投げ合いに敗北、シーズン9勝9敗の成績で終わる。

テンプレート:By 4月には月間MVP獲得しての開幕11連勝や11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、8勝6敗。しかし防御率2.96は上原浩治・同僚野口茂樹に次ぎリーグ3位だった。

テンプレート:Byは4月末まで0勝4敗、防御率も7点近くと調子を落としていたが、7月28日の3勝目以降、5勝2敗と復調している[16]

テンプレート:By9月9日の対広島戦で、新井貴浩から通算2000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成、41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録である[注 1][注 2]。許したランナーは4回の森野将彦失策による1人のみのNPB史上2人目となる無四死球ノーヒットノーランであった。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言している。9月30日の対阪神戦で40歳代としては若林忠志村田兆治工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の対横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりでセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。

テンプレート:By4月17日の対阪神戦で完封勝利を挙げ、200勝へ残り8勝と迫る。41歳8か月での完封勝利はセ・リーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。5月27日の対日本ハム戦では史上80人目の500試合登板を達成。しかしそれ以後は結果を残せず、一軍登録と抹消を繰り返す。9月25日の対巨人戦では自身のエラーも絡み5失点でKO、二軍落ち、そのままシーズンを終える(2勝10敗・防御率5.07)こととなる。同年の日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となったものの、自身の登板機会はなかった。

テンプレート:By4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在工藤公康の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対ヤクルト戦で史上26人目となる通算3000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の日本プロ野球名球会入会(昭和生まれではない杉下は入会資格は無い)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり[17]、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。

テンプレート:Byは開幕から二軍での調整が続き、ウエスタン・リーグ公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍降格。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日の対ヤクルト戦でシーズン初勝利。大野豊が持つセ・リーグ記録を更新する22年連続勝利を記録した。

2010年代に入ってもローテーションの一角を守り続ける息の長い活躍を続けている。

テンプレート:Byは春季キャンプ中に左肩肩甲骨付近を痛めて(肉離れとの報道もあり)二軍で開幕を迎える。6月に二軍戦で実戦に復帰するが、13日の試合で左足首を痛めて1球投げただけで降板する。その後は調整を続け、8月7日の対阪神戦で同年初登板。6回1失点で勝ち投手となり、実働25年と自身の持つ記録を更新するセ・リーグ23年連続勝利を達成した。さらに9月4日の対巨人戦で完封勝利し、テンプレート:By毎日オリオンズ若林忠志が達成した史上最年長完封勝利の日本記録(42歳8か月)と、2008年に自身が記録した最年長完投勝利記録(45歳0か月)を更新した。結局、この年は5勝を挙げ、中日の逆転リーグ優勝に貢献した。

10月23日のクライマックス・シリーズファイナルステージ第4戦(対巨人)に先発。5安打無失点ながら4回1/3で降板。45歳2か月でのポストシーズン登板は自身の最年長登板記録(43歳2か月)を更新すると共に、1972年のダリル・スペンサーが持つ最年長出場記録(43歳3か月)も更新した[18]

テンプレート:By工藤公康が西武を退団し引退はしなかったものの未所属で[注 3]、山本昌が日本プロ野球現役最年長選手となる。キャンプ中に右足首を痛め、一軍、二軍ともに登板はなかった。9月23日、右足首の手術を受ける予定である事が報道された[19]。同年12月7日の契約更改で同球団の減俸記録を超える60%減の提示にサインし[20]、現役続行と9月下旬に手術が成された事、順調に回復し、既に練習を再開していることが報道された。

テンプレート:By、監督の高木守道が山本昌を復活させると明言し、自主トレ中に高木から開幕投手を告げられる。実際は吉見一起でほぼ確定していたが、山本の復活を奮起するためのものだった。この言葉で山本はハイペースで調整をするようになり、オープン戦で好投した。3月2日のオープン戦(対広島)で2回を投げ終えて降板すると高木は握手で迎え、「昌、(開幕)3戦目な」と告げられた。開幕ローテーションに入っていることがモチベーションになったという。4月1日の開幕3戦目の広島戦で先発。満員のナゴヤドームで5回を3安打に抑えた。46歳7か月の登板で、セ・リーグ最年長登板記録を達成。4月15日の対阪神戦でのシーズン初勝利は自身通算211勝目となり、この勝利で杉下の持つ中日球団の投手通算勝利記録に並び、同時に工藤の持っていたセ・リーグ最年長勝利記録・プロ野球史上最年長先発勝利記録を更新した[21]

4月22日の広島戦では、打者として一塁ゴロによる1打点を挙げ、打点のセ・リーグ最年長記録を46歳7か月で更新した(従来の記録は金本知憲の44歳0か月[22])。

4月30日の横浜DeNAベイスターズ戦では7回を2安打無失点で勝利投手となり、杉下を抜いて球団最多勝となる通算212勝目を挙げた。杉下からは「ずいぶんかかったな」と言われ、「ここまでかかってすいませんでした」と報告した[23]。 その後は調子を落とし二軍で調整を続けたが終盤に復帰し、10月3日の対阪神戦では中継ぎとして3回を投げ、勝利投手となり、セ・リーグ最年長勝利記録を更新した(47歳1か月)。山本は「高木監督の開幕投手という言葉がなければもう少しゆっくり調整していた。本当に感謝しています」と振り返った[24]

巨人とのクライマックス・シリーズファイナルステージ第3戦で先発登板するが、5回2失点で勝利投手の権利を持ったまま降板するも直後に同点に追いつかれ勝利投手にはなれなかった[注 4]

テンプレート:By、プロ入り30年目を迎えてのシーズンでは、3月にインフルエンザを発症したが[25]、調整を間に合わせ、開幕一軍入りを果たす。チーム開幕2カード目となる4月9日の対ヤクルト戦に先発し、6回を1安打に抑える好投で、同年の初勝利を挙げる。なお、この登板で実働27年となり野村克也中嶋聡を抜き歴代記録の単独2位となる(同年中嶋も9月28日にシーズン初出場を果たして2位タイ並ぶ)。その後、8月28日のヤクルト戦で5勝目を挙げ、自身のプロ野球最年長先発登板とセ・リーグ最年長登板・最年長勝利記録を48歳0か月に更新し、打者としても5年ぶりの安打を放ち、セ・リーグ最年長安打・打点記録も更新した(従来の安打記録は山崎武司の44歳8か月、打点は自身の記録を更新[26])。

選手としての特徴

投球

持ち球は最速143km/hのストレート、落差の大きいカーブスライダースクリュー。ワインドアップ時は両手でグラブを突き上げるように大きく振りかぶり、背を一杯に伸ばしてから投げる。舌を出したり、指を舐めたりしてから投げる癖がしばしば見られるが、スピットボールと見なされないようにユニフォームで拭いてから投げている。ストレートの最速平均は138-139km/h前後(30歳代前半までは132-133km/h前後)で、同い年の星野伸之小宮山悟と共に「球の遅い一流投手」という稀有な存在である。40歳を越えてなお、年齢を重ねるにつれて球速が上がってきており、2006年には140km/h、43歳になった直後の2008年8月12日の対広島戦では143km/hという球速を記録している。ただ、「球速が出過ぎる時はストレートを投げたがって狙われ、打たれやすい」と周囲から指摘されている。 直球の球速は遅いが軟投派ではなく、BS-i(現:BS-TBS)『超・人』において、「僕は速球派です」と語っている[27]。同番組によると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、松坂大輔の46%とほぼ同じであった(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)[27]

同番組で山本昌の直球の回転数を計測した結果、1秒間に52回転していた[27]。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂が41回転、藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは極めて高く、その結果、球の落差が小さく、初速と終速の差も小さい[27]

打撃

153犠打(2013年終了時)は日本プロ野球の投手史上最多[28][29]、2007年にはセントラル・リーグの公式サイトで「隠れた犠打王」として紹介されている[30]

人物

テンプレート:Byに頭角を現して以降は先発ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎてもなお円熟のピッチングで中日の先発投手陣の一角を任っており、数々の投手最年長記録ホルダーとなっている。選手としての同一球団在籍記録は日本プロ野球記録を更新中。週刊ベースボールのインタビューで、「全力で投げて速球が133km/h出なければ引退する」と語っている。

2009年1月24日に行われたトークショーの席にて、公称では186cm・87kgとしている身長・体重が、実際は188cm・98kgであることを明かしたが、験担ぎとして今後も変更しないことを語った[31]

2014年1月12日放送のプロ野球オールスタースポーツフェスティバルで、左手が左耳に直接届かないことを告白した。

登録名の事情

テンプレート:By、中日に山本保司が入団して山本姓が2人になったため、スコアボードや新聞などで略表記される場合[注 5]は、「山本昌」「山本保」と表示して区別した。テンプレート:Byオフに山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本昌」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は「昌」を取られることを拒否し、験を担いでテンプレート:Byより登録名を山本昌(姓と名の区別がない表記)としている。

東海ラジオ放送アナウンサーの北山靖は、実況などで山本昌を紹介する際、本名で紹介することが多い。

なお、後述のラジコンレースに出場する際の選手登録名は、本名の山本昌広名義で行う。レース公式サイト上では、「山本 昌広」「山本 昌[注 6]の表記が見られる。

背番号34

1984年の入団時より背番号34である。同年20番に変更した小松辰雄が着けていた背番号を与えられたが、単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである(1位藤王康晴:背番号1、2位仁村徹:背番号24、3位三浦将明:背番号26)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が着けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活の全てを知っているから変えたくない」と拒否した[32]。ユニフォームに袖を通す時は、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着る。

なお、同一背番号を着用した選手としては、プロ野球史上最長(30年間)である。コーチ・監督時代を含む同一背番号の着用に関しては王貞治が巨人時代に背番号1を30年間(1959-1988)つけていたが、2013年に王の記録に並び、さらに2014年シーズンをもって、コーチ・監督時代を問わず単独で最長記録を更新した。

趣味

プライベートの山本は多趣味なことで知られ、中でも特に有名なのがラジコンである。ラジコンを始めたきっかけは、1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、暇つぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。ラジコンショップにはシーズン中でも1週間に1度はかならず顔を出し、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。その腕前は玄人にも一目置かれる確かなもので、2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した[33]フジテレビとんねるずのみなさんのおかげでした』内「ムダ・ベストテン」ではC・W・ニコルムツゴロウらと共に登場しない有名人の一人として長らくランクインされていたが、2009年1月22日放送分で遂に登場し、その腕前を披露した。その腕前と実績からファンの間では冗談話として「野球は副業、ラジコンが本業」と言われることがある。

ラジコン好きが高じて、親交のあるラジコンメーカー「ミワホビー」とシャーシモデル「YM34」を共同開発し、一般向けに販売した[34]ほか、同僚の山崎武司とともに「山山杯」と銘打った競技大会を開催した。毎年盛況を博した山山杯であったが、2006年のオフシーズンに「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と休止した。末期の山山杯は、開催4日前から主に日本の参加メーカーと専属レーサーのセッティング等準備が入る、世界チャンピオンがタイから参戦する等、最早ラジコン界におけるトッププロによる世界大会に近い大会になっていた[35]。2009年の「200勝記念レース」にもラジコン世界チャンピオン経験者の広坂正美らが参加している。

なお、ラジコンを操作する時の構えは投球前の構えとほとんど同じであり、一部ではラジコンのプロポを持つ姿、ピッチングフォーム、バッティングフォームは全て同じとも言われている。また、ラジコンだけでなく、山崎と同じく国内外問わず多数の高級車を所有している。2012年現在、外車だけでもランボルギーニ・ミウラP400SVフェラーリ・F512MベンツBMWの4台を保有し、[36]中でもランボルギーニ・ミウラは1971年生産の車体で41年が経過した時点でも走行可能と、極めて良好なコンディションである。これは「車に見合う、恥ずかしくない選手になれるように」との本人の思いもある。

甲虫集めも趣味で、世界の甲虫を集めて息子と一緒に飼育していた。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシクワガタを獲ったりしているとされる。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。また飼育する甲虫類が増えすぎた為にその一部を知人・友人に無償でプレゼントしたことも。しかし2007年シーズンが不本意な成績に終わったことなどから、飼っていた甲虫類を全て友人等に譲り、飼育をきっぱりやめたという[37]

その他の趣味として漫画ゲーム競馬が挙げられる。ブックオフなどで絶版の漫画を探す、新作で面白いゲームが出れば、それをクリアする予定を基にシーズンオフのスケジュールを組むなど、多くの情熱を注ぐ。また学生時代は「教科書に漫画がついていたから」という理由で日本史中国史を好み、秋田遠征時には記者と久保田城についての話で盛り上がったという。高校時代は社会科の教員を目指していたこともあった[38]

小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることがある。当人同士の交流もあり、2009年1月2日に東海テレビで放送された山本昌の200勝記念番組では、小田がナレーションを務めた。

SKE48須田亜香里は、山本昌のファンであることを公言しており[39]、イベント等では山本昌のレプリカユニフォームやTシャツを着ていることもある。2013年には、須田と雑誌で対談も行っている[39][40]

山本昌広杯

山本昌が2008年に通算200勝を達成し、同年に茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞したことを記念し、その翌年の2009年より茅ヶ崎市や茅ヶ崎市野球協会などの主催で『山本昌広杯少年野球大会』が創設され、茅ヶ崎公園野球場にて毎年8月の夏休みの時期に開催されている[41]。山本はシーズン中であるために会場に直接来場出来ない代わりに自身のメッセージを大会宛に寄せている。

家族

家族では実父が1966年度NHKのど自慢全国チャンピオンという経歴の持ち主[注 7]。また5歳下の実弟は母校である日大藤沢高校野球部監督の山本秀明で、同校を2007年春のセンバツ甲子園大会に導いている[注 8]。家庭は前夫人との間に一男一女を儲けていた。2011年に前夫人と離婚し、2013年12月に新妻との結婚式を挙げた。2014年春に婚姻届を提出する予定とのこと[42][43]

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 中日 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 0.2 2 1 1 0 0 2 0 0 2 2 27.00 4.50
テンプレート:By2 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 1.2 2 0 4 0 0 1 1 0 3 3 16.20 3.60
テンプレート:By2 8 6 2 2 0 5 0 0 -- 1.000 184 48.2 28 1 13 1 1 35 0 0 4 3 0.55 0.84
テンプレート:By2 35 26 5 2 1 9 9 1 -- .500 757 181.0 172 14 56 8 2 108 3 0 66 59 2.93 1.26
テンプレート:By2 26 24 6 1 0 10 7 0 -- .588 646 152.0 154 23 45 3 4 77 5 0 67 60 3.55 1.31
テンプレート:By2 33 22 2 0 0 6 8 1 -- .429 618 144.0 158 14 43 3 3 96 1 0 73 58 3.63 1.40
テンプレート:By2 30 25 5 2 0 13 10 0 -- .565 709 170.2 158 22 49 4 2 135 3 0 73 65 3.43 1.21
テンプレート:By2 27 24 10 5 1 17 5 0 -- .773 710 188.1 140 16 30 2 3 132 1 0 46 43 2.05 0.90
テンプレート:By2 29 29 14 2 2 19 8 0 -- .704 868 214.0 203 19 46 3 0 148 1 0 86 83 3.49 1.16
テンプレート:By2 12 10 3 1 0 2 5 0 -- .286 302 74.2 70 15 17 2 1 61 1 0 43 40 4.82 1.17
テンプレート:By2 26 23 6 2 0 7 9 1 -- .438 647 154.2 159 17 38 2 3 119 4 1 72 63 3.67 1.27
テンプレート:By2 29 28 4 1 1 18 7 1 -- .720 838 206.2 174 26 57 4 3 159 1 0 74 67 2.92 1.12
テンプレート:By2 28 28 5 3 0 9 9 0 -- .500 769 182.0 185 14 60 3 2 131 1 0 74 74 3.66 1.35
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テンプレート:By2 28 21 5 2 1 11 9 0 -- .550 608 151.2 129 16 36 4 2 104 3 0 50 44 2.61 1.09
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通算:27年 576 509 79 30 10 218 164 5 0 .571 13795 3333.1 3209 341 861 72 68 2299 44 1 1385 1277 3.45 1.22
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1994年7月17日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場) ※史上255人目
  • 1000奪三振:1997年7月15日、対広島東洋カープ15回戦(ナゴヤドーム)、3回表に黒田博樹から ※史上99人目
  • 100勝:1997年7月21日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で7回1失点 114人目
  • 1500投球回:1997年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場) ※史上143人目
  • 2000投球回:2000年9月5日、対横浜ベイスターズ21回戦(ナゴヤドーム)、1回表2死目に金城龍彦を遊撃ゴロで達成 ※史上79人目
  • 1500奪三振:2001年8月17日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤドーム)、5回表に宮本慎也から ※史上44人目
  • 150勝:2002年9月3日、対横浜ベイスターズ21回戦(草薙球場)、先発登板で8回1失点 ※史上45人目
  • 2500投球回:2004年6月18日、対横浜ベイスターズ12回戦(ナゴヤドーム)、3回表2死目に相川亮二を右飛で達成 ※史上43人目
  • 2000奪三振:2006年9月9日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回裏に新井貴浩から ※史上18人目
  • 500試合登板:2007年5月27日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、8回5失点(自責点4)で敗戦投手 ※史上80人目
  • 3000投球回:2008年5月14日、対東京ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、6回裏2死目に田中浩康を一塁ゴロで達成 ※史上26人目
  • 200勝:2008年8月4日 対読売ジャイアンツ16回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で9回1失点完投勝利 ※史上24人目
最年長記録
  • セ・リーグ最年長勝利:48歳0か月-2013年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場)、先発登板で5回5失点
  • プロ野球最年長先発勝利:48歳0か月-同上
  • プロ野球最年長完投勝利・完封勝利:45歳24日-2010年9月4日、対読売ジャイアンツ23回戦(ナゴヤドーム)
  • セ・リーグ最年長セーブ:41歳2か月-2006年10月15日、対横浜ベイスターズ22回戦(ナゴヤドーム)、7回表に3番手で救援登板・完了、3回無失点
  • プロ野球最年長ノーヒットノーラン:41歳1か月5日-2006年9月16日、対阪神タイガース18回戦(ナゴヤドーム) ※史上73人目
  • セ・リーグ最年長安打:48歳0か月-2013年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場)、2回表に八木亮祐から中前適時打
  • セ・リーグ最年長打点:48歳0か月-同上
その他の記録
  • 開幕投手:4回 (1997年、1998年、2001年、2002年)
  • オールスターゲーム出場:6回 (1989年、1992年、1993年、1994年、1997年、2004年)
  • 23年連続勝利(歴代1位)

背番号

  • 34 (1984年 - )

登録名

  • 山本 昌広 (やまもと まさひろ、1984年 - 1995年)
  • 山本昌 (やまもとまさ、1996年 - )

登場曲

関連情報

CM出演

著書

注釈

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出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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テンプレート:中日ドラゴンズ1983年ドラフト指名選手
  1. 山本昌、48頁。
  2. 山本昌、51頁。
  3. 3.0 3.1 山本昌、52頁。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "yamamoto-52"が異なる内容で複数回定義されています
  4. テンプレート:Cite web
  5. 山本昌、57-58頁。
  6. 山本昌、66頁。
  7. 中日スポーツ 2012年4月21日 5版 2面
  8. 山本昌、74-75頁。
  9. 山本昌、127-128頁、生原喜美子
  10. 山本昌、16-19頁。
  11. BASEBALL-REFERENCE.COM
  12. 山本昌、97-99頁
  13. 山本昌、86-87頁
  14. 山本昌、87-88頁
  15. 山本昌、129頁
  16. 週刊ベースボール2002年12/16号 62頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括」より。
  17. 茅ヶ崎市民栄誉賞 - 茅ヶ崎市ホームページ 2010年12月11日閲覧
  18. 日刊スポーツ・大阪版 2010年10月24日 6版 3面
  19. 日刊スポーツ:46歳昌、現役続行前提に右足首手術へ 2011年9月24日付、2011年9月24日閲覧
  20. 中日:山本昌投手が契約更改 年俸6割減プラス出来高払い毎日新聞2011年12月7日
  21. テンプレート:Cite news
  22. テンプレート:Cite news
  23. テンプレート:Cite news
  24. 週刊ベースボール』2012年6月4日号
  25. 日刊スポーツ:中日山本昌 インフルで開幕ローテ微妙 2013年3月13日付、2013年4月9日閲覧
  26. テンプレート:Cite news
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 『超・人』過去の放送
  28. 日本プロ野球犠打記録
  29. 歴代最高記録 犠打 【通算記録(現役選手)】
  30. 隠れた「犠打王」 CENTRAL LEAGUE:やきゅう数語録
  31. 中日スポーツ:マサ、杉下さん超え 合言葉は「NO CHANGE」:ドラニュース(CHUNICHI Web) 2009年1月25日付、2010年10月12日閲覧
  32. 参考:ベースボールマガジン 1998年夏季号「背番号&ユニフォーム大特集」P66(上記の登録名を「山本昌」にした経緯も書かれている)。
  33. 2002 平成14年度全日本選手権1/10EPツーリングカースポーツクラス決勝結果
  34. YM-34シリーズ - ミワホビー
  35. TBエボリューションIII が「山山杯」で表彰台を独占 - tamiya.com
  36. 復活!山本昌あくなき「物欲」
  37. 2008年5月9日付東京スポーツ記事による
  38. Q&A - 山本昌広公式サイト Way to win
  39. 39.0 39.1 SKE48須田亜香里×中日・山本昌 生涯現役を目指す!クロストーク- ブブカ ウェブ(BUBKA Web)(2013年8月31日)
  40. 「須田亜香里*BUBKAさん(・⌒+)☆ミ」 - SKE48オフィシャルブログ(2013年9月7日)
  41. 熱戦の火蓋を切る 山本昌広杯が開幕 タウンニュース茅ヶ崎版 2013年8月30日
  42. マサ、再婚:ドラニュース(CHUNICHI Web) 中日スポーツ2013年12月19日
  43. 48歳山本昌、16歳年下夫人とハワイ婚 - プロ野球ニュース : nikkansports.com 日刊スポーツ2013年12月20日


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