伊藤敦規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom 伊藤 敦規(いとう あつのり、 1963年5月29日 - )は、愛知県知多市[1]出身の元プロ野球選手投手)。右投げ右打ち。現阪神タイガーストレーニングコーチ。

来歴・人物

中京高校から福井工大に進学し、エースとして北陸大学リーグで活躍。これは家業の工務店を継ぐことも考えての選択だった。1984年、3年時には全日本大学野球選手権大会で、福井工大として初めて準決勝に進出するが、法大に敗れた[1]。これを評価され、第13回日米大学野球選手権大会日本代表に選出、さらにロサンゼルス五輪の代表選手にも選ばれる。五輪では2勝を記録し、金メダル獲得に貢献した[1]

卒業後は地縁のある熊谷組に入社。1986年1987年都市対抗に連続出場。1987年社会人野球日本選手権大会で2勝をあげ準優勝に貢献。

1987年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団(阪急では最後のドラフト1位指名選手である)[1]。なお日本ハムファイターズも伊藤を1巡目で指名したが抽選に外れ、武田一浩を外れ1位で指名している。

1988年8月28日のウエスタン・リーグの対阪神戦でノーヒットノーランを達成[1]上田利治監督の期待に応え1990年より1軍の先発ローテーションに加わる[1]。パリーグ在籍時の30勝中7勝を当時黄金時代を築いていた西武ライオンズから記録し西武キラーと呼ばれ、土井正三監督2年目1992年には7月8日藤井寺球場新井宏昌に通算2000本安打となる三塁打浴びたが監督推薦で1992年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)にも出場した。仰木彬監督1年目が終了した1994年11月に飯塚富司と共に水尾嘉孝渡部高史堀江賢治との2対3の交換トレード横浜ベイスターズに移籍するも成績は低迷[1]

1996年オフに自由契約となり、「幼い頃からファンだった阪神の入団テストを受けてダメだったら諦めもつく」と入団テストを受けたところ合格し、阪神タイガースに移籍[1]1997年から2001年まで史上7人目となる5年連続の50試合登板を果たすなど、連投もこなす中継ぎ投手として活躍。同じくサイドハンドの遠山奬志、軟投派サブマリンの葛西稔らとともに強力なリリーフ投手陣を構成し、2000年にはリーグ最多の71試合に登板、防御率1.86という記録を残す。この年伊藤は37歳で、シーズン70試合以上登板した投手の中では歴代最年長記録となる。ヒーローインタビューでは「羽根を抜いては投げている」と自らを鶴の恩返しに例えた。

翌年も52試合登板で防御率1.79と活躍したが、星野仙一監督就任した2002年はキャンプ中から腰が悲鳴をあげるほど酷い状態で、更にシーズン中にはヒジ痛を発症。防御率5点台という移籍後最低の成績に終わり同年阪急時代から私生活でも親しかった星野伸之と共に引退[1]。その後は実家の建設業「伊藤建設」の営業主任を務める傍ら、毎日放送野球解説者として活躍。2005年に三軍コーチとして阪神に復帰した。

2000年頃から吉田修司篠原貴行渡辺正和らの活躍で中継ぎ投手への注目が集まった。伊藤はその中でも安定した成績を残していたものの、球団が低迷していたこと、また球団内に話題性のある遠山、葛西の2名がおり、注目がそちらに集まっていたことから全くと言っていいほど注目されることがなく、ファンも「阪神ファンでは知らない者はいないが、他球団ファンでは知っている者がいない」など自嘲気味に話すなど、実力を評価されることが少ない地味な存在であった。

しかし、当時の野村克也監督からは「とりあえず伊藤を出しておけば大丈夫」と継投が上手くいかない場面で絶大な信頼を寄せられており、当時の推定年俸は8000万円と高額で、縁の下の力持ちであった。2005年からは三軍コーチ(他球団に於ける「育成担当」)として辻本賢人の育成を担当、メディアに出る機会が増え、中継ぎ投手である藤川球児JFKが登板数を重ねて結果を出し、伊藤の記録が再評価されることも多くなってきた。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 阪急
オリックス
20 5 0 0 0 1 4 1 -- .200 224 49.0 58 8 16 0 5 28 0 0 34 31 5.69 1.51
テンプレート:By2 24 4 1 0 0 5 1 0 -- .833 234 55.0 57 6 20 1 3 30 0 0 22 21 3.44 1.40
テンプレート:By2 31 14 4 0 0 7 7 1 -- .500 521 116.2 127 12 39 1 9 50 2 0 67 61 4.71 1.42
テンプレート:By2 29 18 8 3 1 6 12 1 -- .333 647 158.0 137 15 42 4 7 100 2 1 59 54 3.08 1.13
テンプレート:By2 26 25 10 2 0 8 8 0 -- .500 808 191.2 192 19 52 1 7 93 1 2 84 81 3.80 1.27
テンプレート:By2 9 9 1 0 0 3 4 0 -- .429 242 54.0 63 4 22 0 0 25 0 0 31 31 5.17 1.57
テンプレート:By2 9 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 75 15.1 21 4 9 1 1 10 0 0 13 13 7.63 1.96
テンプレート:By2 横浜 19 6 0 0 0 1 2 0 -- .333 214 45.2 56 3 22 1 6 31 1 2 34 33 6.50 1.71
テンプレート:By2 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 28 5.2 8 2 5 0 0 4 0 0 4 3 4.76 2.29
テンプレート:By2 阪神 60 0 0 0 0 8 5 8 -- .615 308 77.2 50 5 32 7 3 51 2 2 24 23 2.67 1.06
テンプレート:By2 50 0 0 0 0 2 3 0 -- .400 226 53.1 52 2 18 7 2 40 2 0 18 17 2.87 1.31
テンプレート:By2 59 0 0 0 0 6 1 0 -- .857 268 67.1 66 3 14 2 2 45 0 2 30 24 3.21 1.19
テンプレート:By2 71 0 0 0 0 3 1 0 -- .750 287 67.2 62 1 23 6 7 35 1 0 14 14 1.86 1.26
テンプレート:By2 52 0 0 0 0 6 2 0 -- .750 190 45.1 34 2 19 3 5 24 0 0 12 9 1.79 1.17
テンプレート:By2 20 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 97 22.2 18 5 9 3 2 13 0 0 14 13 5.16 1.19
通算:15年 483 84 24 5 1 56 51 11 -- .523 4369 1025.0 1001 91 342 37 59 579 11 9 460 428 3.76 1.31
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

表彰

記録

  • 初登板:1988年4月15日日本ハム戦(東京D)2-4 4回より登板、4回無失点
  • 初勝利:1988年6月18日南海戦(西宮)10x-7 8回より登板、2回無失点
  • 初セーブ:1988年7月10日ロッテ戦(秋田)6-4 10回より登板、1回無失点
  • 初完投:1989年8月26日ロッテ戦(札幌)3-1 被安打7 奪三振3 四死球4
  • 初完封:1991年7月2日西武戦(西武)3-0 被安打2 奪三振7 四死球1
  • オールスターゲーム出場:1回 (1992年)

背番号

  • 16 (1988年 - 1996年)
  • 47 (1997年 - 2002年)
  • 74 (2005年 - 2010年)
  • 91 (2011年 - )

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:阪神タイガース テンプレート:ロサンゼルスオリンピック野球日本代表

テンプレート:阪急ブレーブス1987年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、52ページ