漫画少年
漫画少年(まんがしょうねん)は昭和22年12月から昭和30年10月にかけて学童社から発行されていた日本の漫画雑誌。昭和23年1月号から昭和30年10月号まで増刊号を含め、計101号が刊行された。
概要
学童社は、戦前『少年倶楽部』の名編集長と謳われながらも、戦後の公職追放で講談社を退社した加藤謙一が独力で起こした出版社である。『漫画少年』は創刊時は加藤自らが編集長を務めていた。その後、1952年に加藤が講談社に顧問として復帰したため、編集長は『少年倶楽部』で加藤の後任だった須藤憲三や加藤の次男である加藤宏泰ら数人が歴任した。ただし、会社設立や創刊の経緯から、休刊に至るまで加藤の作った方針が大きく変わることはなかった。
漫画のみならず小説・読み物が充実していたのが特徴で、手塚治虫、田河水泡、長谷川町子、福井英一、石ノ森章太郎、うしおそうじなどの連載漫画の他、佐藤紅緑、吉川英治、菊池寛、下村湖人、西條八十などの文章も多く掲載していた。
創刊3号目から漫画の投稿コーナーを設けて入選した作品を掲載。後に手塚治虫が投稿作品を講評するようになり、一種の漫画界への登竜門的存在となり、プロの漫画家を夢見るアマチュアが多く集まった。その一方、戦前の貸本漫画家も変名で投稿していたのが確認されており[1]、手塚の講評は魅力的だったものと思われる。なお、同コーナーは選外佳作でも投稿者の名前が掲載されるシステムを取っていたことから、アマチュア同士で横のつながりも出来たのが特徴でもあり、この一種の同人路線は後に『COM』に受け継がれ大成した。
晩年の手塚治虫はトキワ荘に流れるバックボーンがあるとすれば加藤謙一イズムであり、『漫画少年』には戦前の漫画が持っていた良質なアカデミックさが受け継がれていた[2]と発言。実際に、トキワ荘グループの代表的な漫画家であった寺田ヒロオは、『漫画少年』掲載の代表作品および投稿作品の一部復刻、漫画家など関係者らの寄稿文、全号の総目次を載せた書籍『『漫画少年』史』を昭和56年に出版している。
主な掲載作
- ジャングル大帝(手塚治虫)
- ドンマイ君(福井英一)
- 火の鳥 黎明編(漫画少年版)(手塚治虫)※未完。現在普通に刊行されている「黎明編」は、後の時代に虫プロ商事の『COM』で連載された作品であり、ストーリー展開が異なる。
- 二級天使(石ノ森章太郎)※ 当時のペンネームは「石森章太郎」
主な投稿者
投稿者の多くは漫画家になったが、貸本漫画家になりくすぶったまま消えていった漫画家も数多く存在する[3]。なお、藤子不二雄Ⓐや永田竹丸[4]はつのだじろうを『漫画少年』投稿組の一人に挙げているが、つのだ自身によると島田啓三の添え状によりいきなり3ページの漫画でデビューした[5]そうである。またさいとう・たかをは友人に誘われて一度だけ投稿したものの、悪い見本として取り上げられ、手塚治虫に酷評されたという[6]。
- 赤塚不二夫[4]
- 有川旭一
- 石川球太
- 石川フミヤス
- 石ノ森章太郎[4]
- 板井れんたろう
- 伊東章夫[4]
- 内山安二[4]
- 楳図かずお
- オオトモヨシヤス
- 大倉舜二
- 黒田征太郎
- 桑田次郎
- 小松左京
- 桜井昌一
- 佐藤まさあき
- 篠山紀信
- 清水哲男
- 鈴木伸一[4]
- タイガー立石
- 高井研一郎
- 田島征三
- 多田ヒロシ[4]
- 辰巳ヨシヒロ
- 田名網敬一
- 棚下照生
- 筒井康隆
- 寺田ヒロオ
- 徳南晴一郎
- トチボリ茂
- 永田竹丸
- 長谷邦夫
- 西岡たか史[4]
- ヒモトタロウ(ただし、変名で投稿)
- 平井和正
- 藤子不二雄
- 松本零士[4]
- 眉村卓
- 森田拳次
- 山内ジョージ
- 山口太一
- 山根赤鬼
- 山根青鬼
- 吉富康夫
- 横尾忠則
- 横田徳男
- 和田誠
関連文献
- 『『漫画少年』史』 寺田ヒロオ編著 湘南出版社 1981.4