和田誠
テンプレート:ActorActress 和田 誠(わだ まこと、1936年(昭和11年)4月10日 - )は、日本のイラストレーター、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。
家族
4人構成で妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱。次男はサラリーマン。実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。
人物
精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市で生まれる[1]。1945年(昭和20年)、精の失職に伴い3月に一家で東京都世田谷区代田に転居。しかし誠は家族と一人離れて疎開した千葉県で敗戦を迎える。
東京へ戻り世田谷区立代沢小学校3年次に転入し、東京都立千歳高等学校(現・東京都立芦花高等学校)、多摩美術大学図案(現・デザイン)科卒業。
1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシテイにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し採用される。ちなみに、同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている。他にも自社のライトパブリシテイ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。
退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙、星新一著作の挿絵などを手掛けたり、他にも、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜、阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。
映画にも造詣が深く、1984年(昭和59年)に初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛けた後は、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは、後にも先にも誠一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。 1992年、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。和田が脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された[2]。
アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二・柳原良平・真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則や手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年)NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメ映像作品『誰も知らない』を始め、他9曲の映像を製作した。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている。
受賞歴
- 1958年(昭和33年) - 『夜のマルグリット』のポスターにより日本宣伝美術会賞受賞。
- 1960年(昭和35年) - たばこの「ハイライト」のデザイン・コンペに入賞。
- 1964年(昭和39年) - 短編アニメ映画『殺人 MURDER』により毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞。
- 1969年(昭和44年) - 似顔絵その他で文藝春秋漫画賞受賞。
- 1974年(昭和49年) - 似顔絵集『PEOPLE』で講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)受賞。
- 1981年(昭和56年) - 講談社出版文化賞(さしえ部門)受賞。
- 1982年(昭和57年) - 『ビギン・ザ・ビギン』で角川書店日本ノンフィクション賞受賞。
- 1984年(昭和59年) - 映画『麻雀放浪記』で報知映画賞新人賞受賞。
- 1989年(平成元年) - 映画『快盗ルビイ』でブルーリボン賞受賞。
- 1993年(平成5年) - 『銀座界隈ドキドキの日々』で講談社エッセイ賞受賞。
- 1994年(平成6年) - 幅広い活躍により菊池寛賞受賞。
- 1998年(平成10年) - 『ねこのシジミ』で日本絵本賞受賞。
- 2006年(平成18年) - 『どんなかんじかなあ』で日本絵本賞受賞。
挿絵・著作一覧
- きまぐれロボット
- ポスターランド
- 倫敦巴里
- いつか聴いた歌
- 金田一耕助の冒険
- 真説 金田一耕助
- 冷蔵庫より愛をこめて
- ナポレオン狂
- 深夜の散歩-ミステリの愉しみ-
- 探偵たちよ、スパイたちよ
- 和田誠百貨店
- ことばのこばこ
- デザイン街路図
- 装丁物語
- お楽しみはこれからだ Part 1-7
- シネマッド・カクテルパーティ
- 新人監督日記
- 銀座界隈ドキドキの日々
- たかが映画じゃないか
- それはまた別の話
- これもまた別の話
- 時間旅行
- 今日も映画日和
- マイナス・ゼロ、他(『広瀬正・小説全集』全6冊、集英社、1982年)
- 指からウロコ
- 物語の旅
- パイがいっぱい
- 気まずい二人
- ぼくは王さま、ノコ星ノコくん(王さまシリーズの挿絵は1冊目のみ。その後は和歌山静子に交代している。誠は寺村輝夫の同級生の教え子にあたる)
- 丸谷才一著のエッセイ本の装丁
- 三谷幸喜著のエッセイ本の装丁
- 東海林さだお著のエッセイ本の装丁・挿絵多数
- 連句遊戯 笹公人共著(白水社)ISBN 4560080798
- サワコの朝(毎日放送・TBS共同制作のトーク番組。同番組のタイトルロゴを製作)
- Black and White Wadaland和田誠モノクローム作品集
- Coloring in Wadaland和田誠カラー作品集
- 和田誠 私家版絵本ボックス
翻訳
- オフ・オフ・マザー・グース
- スチュアート・カミンスキー・「トビー・ピータース」シリーズ(挿絵も担当)[3]
- ロビン・フッドに鉛の玉を
- 虹の彼方の殺人
- 劇団四季ミュージカル『クレイジー・フォー・ユー』訳詞
フィルモグラフィー
- 殺人 MURDER(1964年(昭和39年)) 制作・監督・作画
- パンパの活躍(1970年(昭和45年)) 美術・アニメーション
- 恋の大冒険(1970年(昭和45年)) 美術
- 麻雀放浪記(1984年(昭和59年)) 監督
- 快盗ルビイ(1988年(昭和63年)) 監督・脚本 主題歌「快盗ルビイ」の作詞もした
- 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年(昭和63年)) 製作・監督・作曲
- 怖がる人々(1994年(平成6年)) 監督・脚本
- しずかなあやしい午後に(第1話 ガクの絵本)(1997年(平成9年)) 監督・脚本
- 真夜中まで(1999年(平成11年)) 監督・脚本
- みんなのいえ(2001年(平成13年)) 出演
みんなのうた
無印は映像が存在する曲。▲マークは存在しない曲。
- 誰も知らない(楠トシエ) - 『みんなのうた』初のアニメ。2種類有り。
- ビビディ・バビディ・ブー(スリーグレイセス)▲
- ママごめんなさい(中尾ミエ)
- つむじ風(立川澄人、東京放送児童合唱団)▲
- 小さなカレンダー(東京放送児童合唱団)▲
- お化けなんてないさ(弘田三枝子)▲
- ねこふんじゃった(天地総子、東京放送児童合唱団)
- 四人目の王さま(坂本九) - 初のカラー作品。
- パパのバイオリン(友竹正則、杉並児童合唱団)▲
- みんみんぜみの歌(荒木一郎、みすず児童合唱団)▲
- バケツの穴(熊倉一雄、東京放送児童合唱団)
初のアニメ作品を手掛けたものの、その映像はわずかしか現存せず、2011年開始の「みんなのうた発掘プロジェクト」でも、音声曲は提供されたが、映像曲は提供されなかった。
関連文献
- 12人のグラフィックデザイナー(第2集)・美術出版社編集部編・美術出版社・1977年(昭和52年)([1])
脚注
テンプレート:ブルーリボン賞監督賞- ↑ 「プロフィルには大阪生まれと書きますので、雑誌の大阪人特集などで取材の依頼を受けることがありますが、たまたま父親の都合で大阪で生まれただけで、親戚もいないし、大阪人という意識はないんです。と言って東京人でもないし、郷土意識が何もありません」と当人は発言している。(『似顔絵物語』p.14)
- ↑ 『怖がる人々を作った人々』(文藝春秋)のプロローグに記載あり。
- ↑ 12年振りの翻訳出版となった3作目の『我輩はカモじゃない』では訳者が田口俊樹に代わり、解説と挿絵を担当。この経緯について解説の中で「カミンスキーは次々書いていたのだが、翻訳を約束していた私がサボっていたのである。(中略)わたしは絵と解説という形で辛うじてシリーズに踏みとどまらせてもらった。」とある。