COM (雑誌)

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テンプレート:Sidebar with collapsible listsCOM』(コム)は、1967年から1973年まで発刊された漫画雑誌

「COM」は、COMICS(まんが), COMPANION(仲間・友だち), COMMUNICATION(伝えること・報道)の略だという。発行は、1966年に旧虫プロダクションから分離した虫プロ商事。

刊行期間は、1967年1月号 - 1971年12月号。1973年に8月号として、1号だけ復刊された(1973年8月1日発行)が、その後、虫プロ商事は倒産した。創刊編集長は山崎邦保、1969年4月号から石井文男。

姉妹誌には、1969年5月に虫プロ商事より創刊された少女漫画雑誌『月刊ファニー』と幼年漫画雑誌『てづかマガジンレオ』がある。

概要

「描きたいものが書ける雑誌」および「新人を育てる雑誌」として、手塚治虫が、虫プロ友の会発行の会報『鉄腕アトムクラブ』を発展解消する形で創刊した。「まんがエリートのためのまんが専門誌」がキャッチフレーズ。1964年に先行して創刊された『月刊漫画ガロ』を強く意識して、両誌はライバル関係と目された。

手塚治虫の「火の鳥」(黎明編・未来編・ヤマト編・宇宙編・鳳凰編・復活編・羽衣編・望郷編・乱世編)を看板作品とした。これはライバル誌の『ガロ』の看板連載だった白土三平の「カムイ伝」に対抗する形だったとされる。ただし、学生運動を盛んにしていた全共闘世代は劇画世代であり、既に手塚治虫は古いとされ、『ガロ』は愛読したものの『COM』は馬鹿にされていたという[1][2][3]

「火の鳥」以外には手塚治虫の旧作の復刻、手塚治虫と関わりのある著名作家陣が執筆した作品が誌面を飾った。石森章太郎章太郎のファンタジーワールド・ジュン」「サイボーグ009 神々との闘い」、永島慎二「漫画家残酷物語」「フーテン」、出崎統悟空の大冒険」などが連載された。石森と永島の起用は手塚の指名による[4]。その他、松本零士も登場している。手塚治虫とトキワ荘に関わりのある石ノ森章太郎、赤塚不二夫鈴木伸一つのだじろう寺田ヒロオ藤子不二雄藤子・F・不二雄藤子不二雄A)、水野英子ら計12名の作家による競作漫画「トキワ荘物語」もこの雑誌で発表された。

既存の漫画家の作品に加えて、COMからデビューした新人作家による作品がCOMの両輪として人気を博した。登竜門としてのCOMから巣立った作家としては、青柳裕介あだち充、市川みさこ、居村真二岡田史子加藤広司コンタロウ竹宮惠子能條純一日野日出志諸星大二郎やまだ紫長谷川法世宮谷一彦西岸良平らがいる。

虫プロ商事の倒産後、『COM』は自然消滅の形になっていたが、2011年9月20日、38年ぶりに『COM ~40年目の終刊号~』(霜月たかなか・編)として、朝日新聞出版より最終号が発売された。ただし書籍としての発売で、厳密な意味での「終刊号」ではない。内容は『COM』連載の再録の他、漫画家・編集者などによる証言、歴史的意義の検証、資料集などとなっている。

ぐら・こん

「ぐら・こん」(グランド・コンパニオン)は、『COM』誌上で真崎守が峠あかね名義で指導した読者投稿コーナーの名称。「日本全国のまんがマニアの集まりの場」として、漫画家、漫画家志望者、読者、批評家を全国的に組織化するという野心的な構想の名前にもなった(1967年3月号)。

前史として、寺田ヒロオに師事していた中部日本児童漫画研究会未完成倶楽部(1955年1月発足)制作による肉筆同人誌『未完成』が5号まで発行後、『すくりぷる』に発展。峠あかねが参加し、漫画評論など読み物記事が増加。発展して真崎守が代表を務める全日本児童漫画連盟(グランド・コンパニオン)が発行する『ぐらんど』が生まれ、全国の同人グループをまとめ、評論、ルポタージュ、まんが研究資料作成を行った[5]。この活動を引き継ぐ意味で『COM』誌上で「ぐら・こん」が展開された。

当時、勃興途上にあった漫画同人誌にとって、『COM』という発表の場を与えられ、商業デビューの道が開かれたこと、そして全国の同人作家の交流が実現した意義は大きかった。「ぐら・こん」構想は不十分なまま挫折したが、やがて日本漫画大会を経て、漫画同人誌を売買するための催し、すなわちコミックマーケットの開催に繋がって行く。「ぐら・こん」が輩出した漫画家は吾妻ひでお、飯田耕一郎、市川ジュン勝川克志河あきら樹村みのり

「ぐら・こん」は地域別による支部制をとり、1967年3月号で「北海道支部、東北支部、東京支部、関東支部、中部支部、近畿支部、中国支部、四国支部、九州支部」の募集が行われたが、実際に設立され活動したのは東京支部(1967年6月号)、関東支部(1967年6月号)、北海道支部(1967年7月号)、中部支部(1967年11月号)、関西支部(1968年4月号)、宮城支部(1968年11月号)、山形支部。

北海道支部は会誌『ミロ』を発行。1967年9月下旬、北海道札幌市中央区北3条の喫茶店「雪印パーラー」にて「まんがマニアの集い!」を開催。『北海タイムズ』で写真入で活動が紹介されたこともある。

東京支部は1967年10月22日に東京新宿喫茶店「コボタン」で幹部会開催。グループ新聞『ぐら・こん東京』発行。初代支部長は日野日出志。

関東支部は毎月一回、第一日曜日にコボタンで会合を開催。会誌は『速報』(回覧誌)、『VIVA』、告知用の新聞『ふぁんだむ』。途中から会合は新宿の名曲喫茶「ウイーン」に変更。

中部支部は1968年1月1日に正式に発足。支部を愛知グループ、静岡グループ、新潟グループ、長野グループなど各々の県別にわけ、各グループにリーダーをおいた。各々の支部で会誌を編集。肉筆回覧誌『一番電車』の形で発表。1968年1月5日、『一番電車』創刊号を持って『COM』編集部を訪問。1968年6月に『一番電車』2号発行。

関西支部は1968年3月31日に第一回総会を開催。会誌『ぐるーぷ』創刊号を1968年8月に出版。貸本出版社・曙出版を通じて流通したので貸本屋に並んだ。1969年7月に『ぐるーぷ』2号を出版。1971年8月28日に大阪府教育会館にて「まんがフェスティバル」開催。

山形支部は1971年8月に討論会を開催。

「ぐら・こん」は1971年末の『COM』休刊と共に本誌から切り離され、事実上の終了となったが、一方で、「ぐら・こん」を継承しようとする動きもあり、「ぐら・こん」関西支部長だった中島隆によれば、「ぐら・こん」を引き継ぐ内容の同人誌を企画し、『マンガジュマン』ついで『あっぷる・こあ』を発行した。しかし1975年にこれも行き詰まり、中島は引き継いでくれる人材を募り、8月か9月に集会を開いたが、応じる者はなかった(この時接触した霜月たかなか、米澤嘉博らは、既にコミックマーケット開催に向けて動いていた)。結局、九州支部長だった人物が引き継ぐことになったが、この『新生ぐらこん』も2号で消え、完全に途絶えた[6]

最初のコミックマーケットが開催されたのは、1975年12月21日のことであった。

備考

脚注

  1. 呉智英、藤田尚、米沢嘉博村上知彦喰始「座談会『手塚治虫』検証 戦後民主主義とヒューマニズムの人だったか」『COMIC BOX』1989年5月号、p.80
  2. 長山靖生『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』河出書房新社、2012年、p.118
  3. 夏目房之介『マンガの力 成熟する戦後マンガ』晶文社、1999年、p.177
  4. テンプレート:Cite book
  5. 『COM』1968年4月号p173-174
  6. 中島隆 「ぐら・こん」がなくなった日夏目房之介「夏目房之介の「で?」」所収)

関連項目

外部リンク