寺沢武一
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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 寺沢 武一(てらさわ ぶいち、男性、1955年3月30日 - )は、日本の漫画家。北海道旭川市出身[1] 。北海道旭川東高等学校卒業。
略歴
浪人時代、他に仕事が無かったことから、漫画家を志す。本来は医学部志望だった。
- 1976年、週刊少年チャンピオン誌上「ブラック・ジャック」内広告で公募されたアシスタント募集の採用要件として手塚プロダクションに投稿したマンガが手塚治虫の目に止まり、手塚治虫に師事。手塚プロダクション・漫画部スタッフとして働く。
- 1977年、「大地よ、蒼くなれ」が第13回手塚賞佳作に入選。同年、『週刊少年ジャンプ増刊号』にて一話読み切りの『コブラ』でデビューし、『週刊少年ジャンプ』本誌にて連載開始。
- 1985年、『黒騎士バット』の執筆(彩色)にPC-9801を導入。パソコンを取り入れた漫画家の先駆けとなる。
- 1987年、寺沢プロダクションを設立し、代表取締役に就任。
- 1990年、ジャニーズ事務所所属のアイドルグループ「忍者」のデビューシングル用のコスチュームをデザインする。
- 1995年、ベルギー・デュルブイ市名誉市民章を受ける。
- 1998年、人間ドックにより悪性脳腫瘍を発見。以後、治療・リハビリを繰り返した。
- 2008年、同年1月に、26年ぶりとなるTV版およびOVA版『コブラ』のアニメ製作が決定。OVA版では脚本・絵コンテ・監督を自ら担当。
特徴・逸話
- 作風にはアメコミの影響が強く見られる。また『コブラ』や『カブト』等における東洋・日本文化描写もむしろ欧米作品風である。ただし日本人から見ての話であり、欧米人から見れば日本的な作風との事。
- 作画技法に凝ることで知られ、エアブラシやコンピュータグラフィックス効果を用いる。2次元コンピュータグラフィックスを初めて連載漫画の原稿作成に導入したパイオニア的存在としても知られている。カラー原稿は、背景の隅々にまで手が入れられており、漫画原稿にかかわらず単品のポップアートとしても通用する領域に達しており、海外における評価も高い。
- デビューした当時の1970年代においては、女性キャラクターの露出度が非常に高いという作風の特徴から、少年漫画誌への掲載には物議を醸された。しかし絵のクオリティの高さに女性ファンも増加することで次第に沈静化した。また主人公がクールな性格にもかかわらずルックスは三枚目、というキャラクター像も異色であった。
- 手塚治虫を師と仰いでいる。アシスタント募集の当初は一度落とされたものの、手塚自身が寺沢の絵を気に入り採用を決めたと言う[2]。
- ジャンプコミックス版『コブラ』第1巻の後書きは師である手塚治虫。曰く「彼の絵は緻密で丹念である」との事。
- 荒木飛呂彦の漫画『魔少年ビーティー』の「ビー・ティー」は寺沢のイニシャルが元となっているという[3]。
- 作中では「そうか」という台詞を「そお〜か」と発音する独特の台詞回しを使う場面が多い。
作品リスト
- コブラ - アニメ化(劇場版・TV版・OVA )・ゲーム化
- 黒騎士バット
- 鴉天狗カブト - アニメ化(TV版)
- ゴクウ - アニメ化(OVA)
- 武 TAKERU
- 新撰組GUNDRAGONシリーズ
- GUNDRAGON Σ
- GUNDRAGON II
師匠
アシスタント経験者
関連項目
脚注
- 元の位置に戻る ↑ BUICHI T. - 公式サイト「buichi.com」寺沢武一プロフィール 参照
- 元の位置に戻る ↑ 『週刊少年チャンピオン』2009年49号、「ブラック・ジャック創作秘話」参照
- 元の位置に戻る ↑ 「ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド共同プロジェクト」記者発表会。なお上記の発表以前に、『ファンロード』の『バオー来訪者』特集で作者が「特定の人とか名前から取ったというわけではありません。T(ティー)で終わるイニシャルが格好いいなと、以前から思っていたんです。で、そこにアルファベットを順番に付けていくと、エーティー…ではいまいち。ビーティー…なんか良い感じだな。で決めました。」とも語っている。
外部リンク
- buichi.com - 寺沢武一公式サイト
- 寺沢武一 公式ブログ