スター千一夜
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『スター千一夜』(スターせんいちや)は、フジテレビ系列で、1959年3月1日(フジテレビ開局当日) - 1981年9月25日に放送されたトーク番組。放送回数は6417回。通称は「スタ千」。
目次
概要
旬の芸能人やスポーツ選手など著名人が出ることが売りとした。番組開始時には映画会社による五社協定が締結されており、テレビに映画スターが出演できなかったのを、芸能番組への出演という形でなく、時事に絡めた社会の話題として取り上げた。なお、番組企画自体は協和広告が担当している。
第1回のゲストは、長門裕之・津川雅彦兄弟。最終回のゲストは、美空ひばり。
放送日は当初は、日曜日から水曜日で始まり、その後幾度か放送曜日の変更が行われて、月曜日から土曜日までの帯番組となった(一時期土曜放送を廃止したこともあり)。原則的にゴールデンタイムの帯番組として設定され、時間帯も、当初は21時 - 21時15分までの時間帯に放映されたが、幾度かの変更があった末にの19時45分 - 20時までの15分枠に落ち着いた。月曜日から金曜日の19時45分からの15分に落ち着いたのは1974年10月以降である。前時間帯の19時30分 - 19時45分も同じ月 - 金の帯番組で、かつ長寿番組だった『クイズグランプリ』などがあり、フジテレビの毎日の顔的存在の時間帯であった。それだけに番組にステータスがあり、「これに出れば一人前」と言われた番組でもあった。
また、1960年代後半以降、司会者には田宮二郎、石坂浩二、関口宏など、本業は俳優である芸能人を抜擢する異色の起用方法を取り入れたことも話題となった。特に関口については、本番組が俳優から司会者へのイメージを定着させており、大橋巨泉が関口に対して、司会者としての素質を評価していたという。
番組スポンサーは、旭化成(当時の社名は旭化成工業)と旭化成グループ各社の一社提供。本番組終了後もやはり一社提供で後番組『なるほど!ザ・ワールド』の番組スポンサーとなった。 長年にわたり「旭化成カシミロン」CM(60秒)を放映。番組のトーク進行中に画面下に「提供:旭化成カシミロン」のテロップが数秒間表示される。
番組の途中にて「企業最前線」という生CMコーナーがあり石坂がすぐ隣りの番組セットへ移り旭化成の新製品情報を企業の担当者から話を聞く内容だった。
番組最高視聴率は、1966年12月1日(木)放送(王貞治・恭子夫妻出演)の45.9%(関東地区・ビデオリサーチ社調べ)だった。
最多出演者は歴代司会者にも名を連ねる吉永小百合の90回。以後、王貞治(72回)、坂本九・浅丘ルリ子(ともに58回)と続く。
なお記念回は、100回や1000回といった切りのいい回ではなく、タイトルにちなんで、1001の倍数回(1001回、2002回…)に行われていた。その時は司会者などが「『千一夜』を○回過ごして参りました」と発言していた(例:3003回の時は「『千一夜』を3回」)。
本番組は、フジテレビの番組の中でも最もカラー化が早く、先ず、1967年4月3日 - 5月8日までの毎週月曜日に(おそらく試験段階として)カラー放送を行い、翌年1968年の元旦(1月1日)の放送から、一部の例外を除き、カラー放送となった。
放送時間・放送曜日
放送時間
放送期間 | 放送時間(JST) | 備考 | |
---|---|---|---|
1959.03 | 1962.09 | 21:00 - 21:15 | |
1962.10 | 1969.03 | 21:30 - 21:45 | 一時期の日曜のみ22:00 - 22:15 |
1969.4 | 1969.09 | 19:30 - 19:45 | |
1969.10 | 1981.09 | 19:45 - 20:00 | 19:45番組との枠交換で繰下げ |
プロ野球中継放送枠が20:00 - (21:26→)21:25から19:30 - 20:55(→20:54)に変更された1974年度からは、中継の雨傘番組は当番組と『クイズグランプリ』、そして20時枠番組は編成されず、代わりに映画番組を編成していた。その後開始時刻が19:00に変更(30分拡大)された1977年からは、19:30以降の雨傘番組は今まで通りだが、19:00枠は通常番組を編成していた。
放送曜日
期間 | 月曜 | 火曜 | 水曜 | 木曜 | 金曜 | 土曜 | 日曜 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959.03 | 1959.12 | ○ | ○ | ○ | × | × | ○ | ○ | |
1960.01 | 1960.03 | ○ | ○ | ○ | × | ○ | ○ | ○ | 金曜放送開始 |
1960.04 | 1960.11 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | 木曜放送開始(全曜日放送) |
1960.11 | 1967.03 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × | 日曜放送中止 |
1967.04 | 1969.03 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × | ○ | 土曜放送中止 日曜放送再開 |
1969.04 | 1974.09 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × | 土曜放送再開 日曜放送廃止 |
1974.10 | 1981.09 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | 土曜放送廃止 |
主な司会者
当初は司会者は1週間を通じて固定であったが、1960年代後半以降は複数の司会者が、回により交替で担当するスタイルとなった。主にはタレント・フリーアナウンサーが司会を務めていたが、結婚記者会見などの場合には、レポーターを兼ねて露木茂(当時フジテレビアナウンサー)をはじめとするフジテレビアナウンサー陣が司会役を務めていた。
- 高橋忠雄(1959年、初代)
- 三木鮎郎(1959 - 1966年)
- 小島正雄(1960年代初頭、具体的な時期は不明)
- 杉本隆平(1960 - 1962年)
- 今井彬(1960年代前半、具体的な時期は不明)
- 栗原玲児(1966 - 1969年)
- 土居まさる(1969 - 1970年)
- 田宮二郎(1969 - 1970年)
- 高島忠夫(1970年代、具体的な時期は不明)
- 石坂浩二(1970 - 1973年、ただしその後も不定期でホスト役を担当)
- 関口宏(1971 - 1979年、ただし初めて司会を担当したのは1970年4月[1])
- 吉永小百合(1972 - 1976年)
- 藤島新(1972 - 1973年)
- 山口崇(1973年 - 1975年)
- 荻島真一(1975 - 1976年)
- 浅茅陽子(1976 - 1979年)
- 檀ふみ(1979年 - 1980年)
- 志垣太郎(1976 - 1978年)
- 坂本九(1979 - 1981年)
- 神津カンナ(1980 - 1981年)
- ビートたけし(1980 - 1981年、当初はツービートで担当)
- 横山やすし、西川きよし(最末期のみ司会)
- 水沢アキ(1981年)
- 頼近美津子(1981年)
- 山田祐嗣
- 岩佐徹
- 露木茂
- 小林大輔
- 野間脩平
- 竹下典子
- 野崎昌一
- 福井謙二
ほか多数
主なゲスト
- 島津貴子
- 三笠宮寛仁親王
- 山口百恵
- ロザンナ
- ザ・タイガース
- アトム(1965年10月16日、漫画の主人公として初出演)
- クイーン(1975年初来日時)
- デヴィッド・ボウイ(1978年来日時)
- 長嶋茂雄
- 王貞治
- 藤純子
- 金田正一
- 沖雅也
- 林家三平
- 萩本欽一(1977年4月8日『欽ちゃんのドーンと24時間』の一環として出演)
- 浅丘ルリ子
- アラン・ドロン
- アンナ・カリーナ
- イヴ・モンタン
- イングリッド・バーグマン
- ウィリアム・ホールデン
- クラウディア・カルディナーレ
- ジャンヌ・モロー
- デヴィッド・リーン
- フランソワ・トリュフォー
- ブリジット・バルドー
- ベラ・チャスラフスカ
- マリア・カラス
- モニカ・ヴィッティ
- 貴乃花光司(幼年期)
- 花田勝(幼年期)
- YMO(1980年ワールドツアー直前)
- ゴダイゴ
他多数
歴代高視聴率ゲスト
# | 放送日 | 放送時間 | 視聴率 | ゲスト |
---|---|---|---|---|
1. | 1966年12月1日(木) | 21:30 - 21:45 | 45.9% | 王貞治・王恭子夫妻 |
2. | 1963年2月7日(木) | 21:30 - 21:45 | 38.1% | 栃光正之夫妻 |
3. | 1971年3月24日(水) | 19:45 - 20:00 | 37.9% | 石坂浩二・浅丘ルリ子夫妻 |
4. | 1967年5月30日(火) | 21:30 - 21:45 | 36.9% | 大鵬幸喜・納谷芳子夫妻 |
5. | 1965年1月26日(火) | 21:30 - 21:45 | 34.8% | 長嶋茂雄・長嶋亜希子夫妻 |
6. | 1964年3月6日(金) | 21:30 - 21:45 | 34.4% | 高倉健・江利チエミ夫妻 |
7. | 1968年3月27日(水) | 21:30 - 21:45 | 33.7% | デビ夫人とサリーちゃん |
8. | 1980年11月19日(水) | 19:45 - 20:00 | 30.3% | 三浦友和・山口百恵夫妻 |
9. | 1970年9月12日(土) | 19:45 - 20:00 | 30.0% | 加山雄三・松本めぐみ夫妻 |
出典:
- 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、95頁。ISBN 4062122227
- 芸能・バラエティ高世帯視聴率番組|ビデオリサーチ(2009/11/9閲覧)
番組終了とその後
当時フジテレビが副社長であった鹿内春雄主導の下、活性化のため柔軟で大規模な番組編成の改革を取る方針となった事と『クイズグランプリ』が1980年12月に終了してからワンセットとなる平日15分帯番組枠が時代に沿わなくなったことが、1981年秋の終了に繋がった。その最終回は「惜しまれつつ終了」という形式をとった。これは、開局日以来放送されていたからである。
1981年8月下旬より『スター千一夜』ファイナルと題し「60年代」「70年代」「80年代」「スポンサー」とテーマを決めて今まで放送してきたハイライトシーンが放送される。
1981年9月18日のスポンサー特集では「愛を育てる旭化成」企業CMなど普段見ることの出来ない貴重なCM映像も紹介した。
最終回は1981年9月25日に『さよなら!スター千一夜』というタイトルで、19:30からの拡大版で放送(当時19:30開始の『逆転クイズジャック』は前日の9月24日で終了)。放送では過去本番組に出演した芸能人が多数出演し、その席上、森繁久彌が自作の詩を朗読して番組終了を惜しんだ。
放送回数6417回、放送期間22年6ヶ月は、1982年10月開始で2014年3月まで続いた『森田一義アワー 笑っていいとも!』に塗り替えられる(2005年5月に更新)まで、フジテレビの帯番組では長寿記録であった。その後、1990年頃に期首特番で2時間番組として復活したこともある。出演はレギュラーを務めていた露木茂、ビートたけし。
2008年11月16日には、フジテレビ721において、吉永小百合傑作選として、選りすぐりの2本が再放送された。
保存されている映像は少なく、現存する映像は1970年代後半以降のものが大半である。番組開始当時はVTRが無く生放送で、納入後もVTR規格が2インチで機器・テープ共に高価だった。また、放送時間も15分と短く、加えて著作権法などの絡みで番組の資料保存が制約されていた事情もあった。
- 例として、1996年8月8日放送の『フジテレビの日888まつり〜祭りだワッショイ〜』において、本番組が紹介された際、露木が明石家さんまについて、「さんまさんが『スター千一夜』に出演していた時のVTRが保存されておりません。取りあえず辛うじて写真だけが残っていました」と紹介し、さんまも「保存せぇーよ!」とぼやいていた。なお、さんまが出演したのは、漫才ブームの渦中にあった1981年9月。ツービート・B&B・ザ・ぼんちらが日替わりで出演した『スタ千』最終週の前週のこと。さんまは「『スタ千』には滑り込みで間に合った」という感激を、2009年2月28日放送の『バラエティルーツの旅 あなたがいたから僕がいる 半世紀大感謝祭』や、そのほかの番組でも幾度となく語っている。
特別版
これまで番組終了から数年後の1990年と1991年と2010年の3度に渡り復刻版が放送された。
1990年・1991年版
1990年10月2日、1991年4月2日に通常は『なるほど!ザ・ワールド』が放送されていた火曜夜9時台の時間帯にて『特別企画 スター千一夜スペシャル』と題し(2回目2を冠していた)は9年ぶりに復活し、1度目の司会は石坂浩二が、2度目は番組末期に司会を担当経験していたビートたけしが務めた。こちらでは従来のゲストを迎えるトークに加え、現存しているVTRを紹介する形を取った。通常の『なるほど-』同様にこちらも旭化成が一社提供をしていた。
2010年版
2010年4月5日から4月8日までは、開局50周年記念ドラマ『わが家の歴史』(4月9日〜4月11日放送)の宣伝も兼ねて、本番組が28年半ぶりに『スター千一夜2010 わが家の歴史』として深夜枠で復活。企画・構成・司会は『わが家の歴史』の脚本を担当した三谷幸喜(本番組の司会の一人である往年の石坂浩二風に似せた姿にて)が務め、出演者は『わが家の歴史』の出演者が登場。ただしいわゆるトーク番組ではなく、三谷の不可解なムチャ振りの質問に出演者が無理矢理答えなければいけない、という内容のものであった。この時も旭化成が30秒ではあるがスポンサーに付いていた。
放送日(翌日未明) | ゲスト |
---|---|
2010年4月5日 | 長澤まさみ、榮倉奈々、堀北真希 |
2010年4月6日 | 加藤清史郎 |
2010年4月7日 | 佐藤浩市、松本潤(嵐)、佐藤隆太 |
2010年4月8日 | 柴咲コウ |
なおこちらの特別番組に行う際にメディアが報じた情報では、「29年ぶりの復活」と紹介され、1990年・1991年版が触れられることは無かった。
2013年版
2013年11月4日から11月7日までは、三谷幸喜が原作・脚本・監督を務める『清須会議』(11月9日公開)の宣伝も兼ねて、3年半ぶりに『スター千一夜2013 三谷会議』として深夜枠で復活。企画・構成・司会は2010年版と同じく三谷幸喜が務め、出演者は『清須会議』の出演者が登場。
歴代スタッフ
歴代ネット局
※なお、歴代ネット局のうち、未放送だった曜日や内容もあったり、途中打ち切りになった所もあったりした。系列は現在の系列。○は現在他系列局だが、放送当時フジテレビ系列局や他系列とのクロスネットだった局。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | フジテレビ | フジテレビ系列 | 制作局 |
北海道 | 北海道放送 | TBS系列 | |
札幌テレビ | 日本テレビ系列 | ○日曜・金曜放送 移行時期不明、1972年3月まで | |
北海道文化放送 | フジテレビ系列 | 1972年4月開局から、帯放送 | |
青森県 | 青森放送 | 日本テレビ系列 | 途中打ち切り |
岩手県 | IBC岩手放送 | TBS系列 | |
宮城県 | 東北放送 | 1962年9月まで | |
仙台放送 | フジテレビ系列 | 1962年10月開局から、帯放送 | |
秋田県 | 秋田放送 | 日本テレビ系列 | 1969年11月まで |
秋田テレビ | フジテレビ系列 | 1969年12月開局から、帯放送 | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 | 1970年3月まで |
山形テレビ | テレビ朝日系列 | ○1970年4月開局から、帯放送 | |
福島県 | 福島テレビ | フジテレビ系列 | 1970年3月まで、水曜放送[2] |
福島中央テレビ | 日本テレビ系列 | ○1970年4月開局から、1971年9月打ち切り | |
山梨県 | 山梨放送 | 途中打ち切り | |
新潟県 | 新潟放送 | TBS系列 | 1968年11月28日まで、木曜放送 |
新潟総合テレビ | フジテレビ系列 | 1968年11月29日サービス放送開始から、帯放送[3] | |
長野県 | 信越放送 | TBS系列 | 1969年3月まで、金曜放送 |
長野放送 | フジテレビ系列 | 1969年4月1日の開局から、帯放送 | |
静岡県 | 静岡放送 | TBS系列 | 1968年11月まで |
テレビ静岡 | フジテレビ系列 | 1968年12月開局から、帯放送 | |
富山県 | 北日本放送 | 日本テレビ系列 | 1969年3月まで、金曜放送 |
富山テレビ | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 | |
石川県 | 北陸放送 | TBS系列 | 1969年3月まで |
石川テレビ | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 | |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1969年9月まで、木曜放送 |
福井テレビ | フジテレビ系列 | 1969年10月開局から、帯放送 | |
中京広域圏 | 東海テレビ | 月・水・金放送→帯放送 | |
近畿広域圏 | 関西テレビ | 帯放送 | |
鳥取県 | 日本海テレビ | 日本テレビ系列 | 当時の放送エリアは鳥取県のみ 月・水曜放送→水曜放送→山陰中央テレビ開局前に打ち切り |
島根県→ 島根県・鳥取県 |
山陰中央テレビ | フジテレビ系列 | 1970年4月開局から、帯放送 1972年9月21日までの放送エリアは島根県のみ 1972年9月22日の電波相互乗り入れで鳥取県にもエリア拡大 |
岡山県 | 山陽放送 | TBS系列 | 1969年3月まで、当時の放送エリアは岡山県のみ |
岡山県→ 岡山県・香川県 |
岡山放送 | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 1979年3月30日までの放送エリアは岡山県のみ 1979年4月2日からは電波相互乗り入れに伴い香川県にもエリア拡大 |
広島県 | 中国放送 | TBS系列 | 1962年8月まで |
広島テレビ | 日本テレビ系列 | ○1962年9月開局から1975年9月まで、帯放送 | |
テレビ新広島 | フジテレビ系列 | 1975年10月開局から、帯放送 | |
山口県 | 山口放送 | 日本テレビ系列 | 途中打ち切り |
徳島県 | 四国放送 | ||
香川県 | 西日本放送 | 当時の放送エリアは香川県のみ | |
愛媛県 | 南海放送 | 1969年11月まで | |
テレビ愛媛 | フジテレビ系列 | 1969年12月開局から、帯放送 | |
高知県 | 高知放送 | 日本テレビ系列 | 途中打ち切り |
福岡県 | 九州朝日放送 | テレビ朝日系列 | ○1964年9月まで、日曜・月曜・水曜放送 |
テレビ西日本 | フジテレビ系列 | 1964年10月のネットチェンジから、帯放送 | |
佐賀県 | サガテレビ | 帯放送 | |
長崎県 | 長崎放送 | TBS系列 | 1969年3月まで |
テレビ長崎 | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 | |
熊本県 | 熊本放送 | TBS系列 | 1969年3月まで |
テレビくまもと | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 | |
大分県 | 大分放送 | TBS系列 | 1970年3月まで |
テレビ大分 | フジテレビ系列[4] 日本テレビ系列 |
1970年4月開局から、未放送だった曜日が多くあったが、 途中打ち切り | |
宮崎県 | 宮崎放送 | TBS系列 | 1970年3月まで |
テレビ宮崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1970年4月開局から、帯放送 | |
鹿児島県 | 南日本放送 | TBS系列 | 1969年3月まで |
鹿児島テレビ | フジテレビ系列 | 1969年4月開局から、帯放送 | |
沖縄県 | 沖縄テレビ | 1959年11月の開局からは月・金曜放送だったが、途中打ち切り 1973年4月に帯番組でネット再開 |
テーマ曲
複数の番組テーマ曲が作成されていた。確認されているものでは初期のものは「夜が来ればスター千一夜」と言う歌詞で始まるもの(唄・フォーコインズ)と、1970年代前後には歌詞の途中に「旭化成のスター千一夜」と歌われていたものとがある。同じ頃にはイントロ→タイトルコールのあと短いテーマ曲(内容紹介のナレーション入り)が流れたバージョンもあった。また番組終期には、旭化成のCMソングと思われる曲がアニメーションとともに流れていた(最終バージョンOPの1つ前)。前者は野坂昭如作詞・いずみたく作曲、後者は三木鶏郎(進行役を経験した三木鮎郎の実兄)が作曲しているのが確認されているが作詞者は不明である。更に20年突入し、シンボルマーク(後述)を採用した1978年度用テーマと、マークをマイナーチェンジした1979年度以降の短いテーマが存在、後者は最終回特番でも使用された。
備考
- 放送開始初期は、フジテレビ・仙台放送・関西テレビ・広島テレビ・テレビ西日本以外の系列局は、曜日によってネットしていたが、編成上無理が多く短期間しかネットしなかった。
- したがって、全国的によく知られた番組となった(本来の時間帯で連日放送された)のは、各地にフジテレビ系列のUHF局が開局した1970年前後といえる。関東地区だけを見た場合、夜早い時間帯の帯番組のため、極端な高視聴率を普段は取ることがなくなった時期に相当するが、地方ではこの頃から人気番組になったということになる。なお、クロスネット局でも、優先的に本来の時間帯に放送されることが多かったほか、他系列の番組をどうしても同時ネットしなければならない場合には、先行ネットする場合もあった。
- 関東地区では、1964年4月から1965年9月まで月〜土の11:30 - 11:45に再放送を行っていたが、旭化成は提供したかは不明。
- 長きに渡って本番組のシンボルマークは無かったが、20周年突入となった1978年からは、女性の横顔に筆記体で「20」と描いたシンボルマークを採用。翌1979年からは、「20」の部分を「The」(目の部分)と「Star」(耳の部分、以上筆記体)に変えて、最終回まで使用した。
- 1967年4月2日 - 1969年3月30日までの間は、毎週日曜日にも夜10時15分 - 10時30分で放送されていた(日曜版第2期)。この枠の前番組は海外ドラマ『全艦発進せよ』(22:15 - 23:15。15分繰り下げて継続)。後番組は『唄子・啓助のおもろい夫婦』(22:15 - 23:00)だった。なおこの日曜版第2期は、土曜放送休止と同時に開始し、終了と同時に土曜放送が再開(19時枠後半)したことを考えると、土曜版が枠移動したものと思われる。
- 北海道文化放送開局以前、さっぽろ雪まつりの開催時に『雪まつりスペシャル』と題して、当時ネットしていた札幌テレビの協力を得て、その会場から放送したこともあった。
脚注
- ↑ 関口が初めて司会を務めた際、前田武彦がゲストとして招かれたが、放送直前になってよど号ハイジャック事件の人質帰国のニュースが入ったため、その模様を報じることになったものの当時関口にはこのような報道を扱ったことがなかったため、前田が関口に代わって番組を仕切ることとなった(2012年6月29日放送分のテレビ朝日系列『徹子の部屋』関口談)。
- ↑ 放送当時は日本テレビ系列局。1971年10月の福島中央テレビとのネット交換ではTBSメインの編成となったため、福島中央テレビからの再移行は行われなかった。
- ↑ 開局から1981年3月まで同時ネット。1981年4月から番組終了までの半年は、1週間遅れの午後2時45分から放送。
- ↑ FNS非加盟
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