南日本放送

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テンプレート:日本のラテ兼営局 テンプレート:Infobox 株式会社南日本放送(みなみにほんほうそう、Minaminihon Broadcasting Co., Ltd.)は、鹿児島県放送対象地域として中波放送AM放送)とテレビジョン放送をする特定地上基幹放送事業者である。 略称はMBC

ラジオはJRN系列とNRN系列のクロスネット、 テレビはJNN系列の単独ネット。

概要

1953年10月10日に鹿児島県初の民間放送局として開局。1959年4月に(アナログ)テレビ放送を開始し、2006年12月には地上デジタル放送を開始した。社屋(演奏所、MBC放送会館)は鹿児島市高麗町甲突川右岸に位置しており、1993年の8.6水害の際には水没の危機に瀕している。

主な自社制作番組としてラジオでは1953年の開局から続く『城山スズメ』、テレビでは1976年10月から続く平日18時台(日本標準時、以下同様)の報道番組(現在は『MBCニューズナウ』)や1984年10月から続く情報番組どーんと鹿児島』などがある。

鹿児島県の地方紙、南日本新聞社(こちらの社名の読み方は「みなみにっぽん」)が同率5位の大株主で、1953年の開局時からアナログテレビ放送の開始までは同紙の社屋(鹿児島市易居町、当時)を間借りするかたちで演奏所があった。ただし、南日本新聞との資本関係は鹿児島テレビ放送(KTS)ほど強くなく、毎日新聞ともテレビ開局時から関係を持つ。鹿児島放送(KKB)については『MBC50年の軌跡』において「兄弟会社」と表現しており、同局の開局時には喜田治男(『MBC6時こちら報道』初代キャスター)などの社員が出向しているほか、地上デジタル放送の親局NHK鹿児島放送局とともに使用するなどの関係がみられる。

略称が同じMBCという理由で韓国文化放送系列局、全州文化放送と姉妹交流を結んでいる。

社是・キャッチコピーは『ふるさとたっぷり MBC』。放送局全体のマスコットキャラクターは設定されていないが、過去にはラジオカー『ポニー』の擬人化キャラクター、および2008年の「ウミガメプロジェクト」におけるウミガメのキャラクターがそれぞれ設定されている。

送信所

テンプレート:Seealso

ファイル:KKB Kagoshima Transmitting Tower.JPG
デジタル放送の送信所(紫原)
ファイル:JNNID.png
JNN系列のリモコンキーID地図

親局(送信所)のチャンネル周波数)はラジオが1107kHz、テレビが40ch(デジタル、リモコンキーID:1ch)。

テレビ送信所は鹿児島市紫原(むらさきばる)のKKBの施設からNHK鹿児島放送局とともに送信しており、MBCのFPU基地局も1980年代より紫原に置かれている。アナログ放送は城山からVHF帯の1chで送信していたが、デジタル放送はUHF帯で送信されるため、既存UHF局(KTS・KKB・KYT)が送信所を設けていた紫原へ移転するかたちとなった。城山送信所からはエフエム鹿児島の電波(79.8MHz)も送信されていたが、こちらも2011年8月1日に紫原にあるKKBの施設へ移転した[1]。城山送信所の解体作業は同年9月に開始し[2]、同年12月までに完了した[3]

主なテレビ中継局

地上デジタル放送において「大規模」「重要」とされているものを記載する[4]。地上デジタル放送における開局順に並べた。

アナログ・デジタルの列はチャンネルを表記。所在地は自治体単位、離島については島名も付記している。中継局名からは中継局記事へリンクしている。

中継局名 アナログ デジタル 所在地 特記事項
鹿屋 6 43 鹿屋市 県内初のテレビ中継局
阿久根 10 25 さつま町・出水市 開局時は紫尾山中継局
枕崎 6 20 枕崎市
蒲生 50 20 姶良市
串木野 62 16 いちき串木野市
大口 11 25 湧水町 開局時は栗野中継局
南種子 59 16 南種子町(種子島)
頴娃 10 16 南九州市
名瀬 1 16 奄美市(奄美大島)
中之島 44 40 十島村
志布志 61 20 志布志市
財部 40 曽於市 デジタル新局
瀬戸内 12 21 瀬戸内町(奄美大島)
末吉 62 20 曽於市 MBC初のUHF局
徳之島 60 16 徳之島町
知名 1 21 知名町(沖永良部島)
種子島 60 25 西之表市

ラジオ

ファイル:MBC-JOCF.jpg
隼人ラジオ送信所(鹿児島本局)

現在は薩摩地方に3か所、奄美市に1か所中継局が設置されている。かつて(1962-2003年)は鹿屋中継局(1062kHz、100W)が存在した。

鹿児島本局は開局当初、鹿児島市吉野町にあったが、1986年に霧島市隼人町に移転した。

鹿児島本局

阿久根局

  • 周波数:1107kHz(1989年までは1557KHz)
  • 空中線電力:1kW

開局当初はコールサイン:JOCLを保有。現在は千葉テレビ放送がJOCL-DTVとして使用している。

川内局

  • 周波数:1107kHz(1990年代前半までは801KHz)
  • 空中線電力:100W

大口局

  • 周波数:1107kHz
  • 空中線電力:1kW

名瀬局

  • 周波数:1449kHz
  • 空中線電力:300W

昼間の受信で最長距離の記録は、ラジオ無線関係の雑誌『ラジオマニア 2008』(三才ブックス)での屋外受信の実験企画で2008年春に和歌山県すさみ町で成功している。

2011年10月3日からはradikoを通じてインターネット配信を実施している。おおすみFMネットワークあまみエフエムFMきりしま(おおすみFMネットワーク・FMきりしまは独自、あまみエフエムはSimulRadio)とは異なり、エリア判定により鹿児島県と見做される環境下でのみで聴取できる[5]。無線放送ではAMステレオ放送を実施していないが、radikoにおいては一部の番組・CMがステレオ音声で配信される。

支社・支局

ファイル:MBC Satsumasendai.jpg
MBCの薩摩川内支社の画像

資本構成

  • 主要株主:鹿児島県・エムビーシー畠中文化基金・岩崎産業・鹿児島市・鹿児島信用金庫・南日本銀行 他
  • 主要取引銀行:鹿児島銀行・南日本銀行 他
  • 関連事業:MBC学園MBC開発MBC不動産 他

海外提携放送局

沿革

開局まで

第二次世界大戦後日本でも民間放送局が相次いで開局したが、開局の形態としては「地元新聞社のラジオ事業進出」または「地元自治体の共同出資」が多かった。鹿児島県の場合は当時の南日本新聞社社長畠中季隆が「3kWで鹿児島県全域と宮崎・熊本県の南部、南西諸島全域をカバーするラジオ局」の設立構想を打ち出した。当初は鹿児島県知事は「ラジオ局はNHKで十分」とし、鹿児島銀行の頭取も「鹿児島では商業放送は成り立たない」と否定的であったが、1952年12月12日に南日本新聞紙面上で設立構想を掲載してからは、鹿児島県全体で協力体制が出来上がり、最終的には(当時日本復帰前の大島郡を除く)県内全市町村が出資した。

1952年12月10日に南日本新聞本社3階に創立事務所を設置。1953年1月31日に発起人総会が開かれ、送信所が鹿児島市吉野町に、演奏所は南日本新聞本社3階に第3スタジオまで設置することが報告された。2月11日に郵政省にラジオ局の開設申請を提出し、6月13日にラジオ南日本の創立総会が開催された。このときまでに略称がMBCと決定され、英称は現在と同じ"Minaminihon Broadcasting Co.,Ltd."であった。

送信所の出力は当時500Wまたは1kWが主流であり、3kWでの開局構想は異例のものであった。郵政省は異例の高出力と金沢の放送局(現在の北陸放送)との混信問題を懸念し、「アンテナ2基による指向性アンテナ」を条件に3kWでの送信を認められた。指向性アンテナは当時日本唯一のもので、指向性は南西諸島に向けられた。MBCは宮崎にも中継局を設置する予定であったが、こちらはラジオ宮崎(現在の宮崎放送)の設立をもって阻止された(詳細は宮崎放送#沿革を参照)。

創立総会の時点では開局日は1953年11月1日の予定であったが、番組改編期に合わせる営業上の都合から、同年10月10日に前倒しされた。このため電波監理局の検査合格(本免許交付)と同時に開局しなければならなかった(実際は本放送開始2日前に免許交付)。なお、実際に本免許交付と同日に開局した事例はかのやコミュニティ放送きもつきコミュニティ放送(2006年8月4日)がある。

1953年10月10日に開局。同日には現在も続く番組『城山スズメ』『希望のリボン』『歌のない歌謡曲』が開始されている。ニュースは共同通信社と南日本新聞社からの提供であった。10月20日にMBCタレントの源流となるMBC放送劇団(南日本放送劇団)を創立。11月3日にはMBC開局祭が鹿児島市中央公民館で開催され、社歌となる「ラジオ南日本の歌」(現在は南日本放送の歌に改称)が発表された。「ラジオ南日本の歌」は2012年末まで一日のテレビ放送開始・終了時にインストゥルメンタルとして流されていた。

アナログテレビ放送開始

ファイル:JOCF-TV Analog TV Transmitting Tower 2009.jpg
アナログ放送の城山送信所。1959年-2011年まで使用。

開局した1953年は東京でテレビ放送が開始された年でもあった。MBCがテレビ開局準備局を設けたのは1956年1月のことであり、1957年10月22日に仮免許が交付された。テレビの送信所は1958年6月から1959年1月にかけて城山に、演奏所は1958年11月から翌年1月にかけて鹿児島市高麗町に建設された。演奏所は4期に分けて建設され(MBCニューズナウなどで使用される第1スタジオは第1期、ラジオ兼用の第2スタジオは第2期)、最終的には1960年に完成した。1階は甲突川の氾濫対策で高床設計であり、これが1993年の8.6水害で水没の危機に瀕した社屋を救うこととなる。

1959年4月1日の午前8時45分にテストパターンを流して(アナログ)テレビ放送を開始。同年8月[6]にはJNNに加盟した(TBS東京放送とは1967年10月13日に編成・報道・営業の3協定を締結している)が、MBCは「ニュースはJNN、番組はフリーネット」の姿勢であった。番組編成はKTS・KKB・KYTが開局する(1969年4月・1982年10月・1994年4月)毎に大幅に変更され[7]、現在では番組もおおむねTBS系列のネットとなっている。

1961年10月に「ラ・テ兼営となった実態に即すため」として、社名をラジオ南日本から南日本放送へ変更した。

報道体制の強化・中継局の整備・KKBとの関係

1961年7月3日にローカルニュース番組の制作を開始。ラジオでも1967年10月からニュースの自主編集が開始された。1976年10月には夕方の30分ワイド番組『MBC6時こちら報道』が開始された(現在はMBCニューズナウとして放送)。取材拠点は1968年の鹿屋を始めに、1970年代にかけて県本土の各所と奄美大島に設置された。

テレビ中継局の整備は1960年の鹿屋中継局に始まる。ただし、鹿屋中継局は「宮崎放送の鰐塚山送信所からのスピルオーバーによる視聴者流出」への対策の意が強く、他の主要中継局は1963年から順次設置されていった。離島の中継局は1970年代に整備された。奄美大島へは1977年に放送を開始し、与論島にも1980年3月に中継局が設置された。同時に難視聴地域を対象とした微小局・ミニサテライト局の設置も進められた。

1982年のKKB開局の際には社員出向や中継局の共同使用などの協力を実施。MBCとKKBの関係はさながら「兄弟会社」のようなものであった。現在もMBCはKKBに出資しており、関係は現在でも続いている。

8.6水害・日本の放送局初の気象予報業務許可

1993年8月6日の「8.6水害」では鹿児島市が甚大な被害を受けた。MBCの社屋も水没の危機に瀕し、社内に残ったスタッフ・社員関係者一丸となって土嚢を積みバケツモップによる必死の排水作業を続けかろうじてテレビマスター室の防衛に成功したが、所有するラジオカー「ポニー号」3台が水没その他社用車の大多数を水没させた。テレビ中継車及び衛星中継車 ステージカーは、伊集院町(現在の日置市)でのゴルフ大会収録に出動していたため水没を免れた。

この日は細川内閣成立に関する報道特番がJNNでは編成されていたが、MBCではMBCニューズナウの終了後引き続いて8.6水害に関する報道を随時挿入し、21時台のドラマイエローカード』を途中打ち切り後は翌朝まで報道を続けた。この報道姿勢は高く評価され『20世紀放送史』(日本放送協会・編、2001年)にも掲載されるほどであったが、MBCとしては「自ら気象情報を提供することはできたのか?」という課題が残された。これに対する答えが1995年の気象予報業務許可であった。各番組でMBC独自の予報を提供し、1998年からはフィラーとして天気予報を放送している。

2001年以降

2002年からは現在のキャッチフレーズ「ふるさとたっぷりMBC」を使用(テレビのみ2004・2005年は「かごしまlife」)。同時期に開局50周年を迎えたことから、過去のドキュメンタリー番組を『アーカイブス50』として放送した。

2006年12月に地上デジタル放送とワンセグの本放送を開始。2008年の開局55周年記念事業「MBCウミガメプロジェクト」においてはウミガメ(男の子と女の子)のマスコットキャラクター「ユウ(遊海)」「ミウ(美海)」が設定された。名前は一般公募により選定された。2011年7月24日にはアナログテレビ放送が終了し、同年11月までに城山送信所が解体された。

2013年に開局60周年を迎えたことから、MBCではテーマ曲『見つめあうだけで』および「60」をあしらったムービングロゴを同年1月1日に制定した。『見つめあうだけで』は韓国のデュオ「HUE」が歌唱し、テレビで一日の放送開始・終了時などに放送されている[8]

年表

  • 1953年(昭和28年)
    • 6月13日 - ラジオ南日本の創立総会を開催。
    • 6月23日 - 「株式会社ラジオ南日本」会社設立。当時の局舎は南日本新聞の社屋を間借りする形でおかれた。
    • 8月1日 - ラジオ予備免許交付。
    • 8月20日 - 鹿児島市吉野のラジオ送信所が着工。
    • 10月1日 - ラジオの試験放送開始。この時点では鹿児島市易居町(南日本新聞社社屋内)の演奏所が完成しておらず、吉野送信所から放送を行っていた。
    • 10月8日 - ラジオ本免許交付 (760kc,3kW)
    • 10月10日 - 午前5時30分に全国26番目にラジオ放送開始。現在も続く番組『城山スズメ』も開始。
    • 10月20日 - MBCタレントの源流となる『南日本放送劇団』を創立。
    • 11月1日 - 本来の開局予定日。鹿児島市易居町からの放送を開始。
    • 11月3日 - 鹿児島市中央公民館で「ラジオ南日本の歌」を発表。
  • 1956年(昭和31年)10月1日 - 鹿児島市吉野のラジオ送信所の出力を5kWに増力。
  • 1957年(昭和32年)
    • 7月4日 - アナログテレビ放送の送信所を鹿児島市の城山に設置することを決定。
    • 10月22日 - アナログテレビ放送の予備免許を取得。
    • 12月29日 - 現社屋のある鹿児島市高麗町にテレビ放送の演奏所をおくことを決定。
  • 1958年(昭和33年)
    • 4月10日 - MBC初のラジオ中継局である阿久根送信所 (JOCL) が開局。
    • 6月16日 - アナログテレビ放送の城山送信所の起工式。
    • 11月1日 - テレビ演奏所の起工式。
  • 1959年(昭和34年)
    • 2月23日 - テレビ放送の送信所・演奏所の火入れ式。
    • 3月1日 - アナログテレビ放送の試験放送開始。
    • 4月1日 - アナログテレビ放送開始。午前8時45分にテストパターンを流す。
    • 8月17日 - TBSをキーステーションとするテレビネットワーク、Japan News Network(JNN)に加盟。
  • 1960年(昭和35年)
  • 1961年(昭和36年)
    • 3月26日 - MBC放送会館の落成。
    • 10月1日 - 社名を「株式会社南日本放送」に変更。
  • 1962年(昭和37年)
    • 3月25日 - 労働組合が賃上げで無期限ストライキを実施。3月28日に解決。
    • 10月1日 - 吉野ラジオ送信所の周波数を760kcから1110kcに変更。
    • 11月1日 - アナログテレビ放送において午前の放送を開始。
  • 1963年(昭和38年)12月1日 - テレビ放送の紫尾山中継局[10]が開局。
  • 1964年(昭和39年)10月1日 - テレビ放送の枕崎中継局が開局。
  • 1965年(昭和40年) 5月2日(社史では4月20日) - TBSラジオをキーステーションとしたラジオネットワーク、Japan Radio Network(JRN)が発足、加盟。
  • 1966年(昭和41年) 7月7日 - アナログテレビ放送においてカラー放送を開始(九州内の民放では福岡RKBに次いで2番目。)当初は1週間で2時間程度のみであり、年数をかけてカラー化を進めた。
  • 1968年(昭和43年)10月 - ニッポン放送文化放送をキーステーションとしたラジオネットワーク、全国ラジオネットワーク(NRN)に加盟。
  • 1969年(昭和44年) 9月 - 北別館ならびに本館増築工事が完工。カラー放送対応の第1スタジオが完成。(当初はカラーカメラ未導入)
  • 1971年(昭和46年) 9月 - 大型カラー中継車を導入。同年9月のロケット発射中継や翌年の太陽国体など幅広く活躍する。
  • 1972年(昭和47年)
    • 4月 - お天気カメラを導入(JNN系における先発導入組)当初は北別館7階会議室に設置。75年3月より本社鉄塔上に移設。
    • 10月 - 当時の準キー局の朝日放送制作のテレビドラマ『日本の嫁シリーズ』の第1作『嫁ふたり』(主演:和泉雅子京マチ子)に制作協力として参加。
  • 1976年(昭和51年)10月4日 - 鹿児島県の民放局として初めてのニュースワイド番組『MBC6時こちら報道』を開始。
  • 1977年(昭和52年)1月28日 - 奄美大島でのアナログテレビ放送開始(放送技術の向上と奄美群島振興開発事業の非公共事業として国が整備を支援したことにより名瀬中継局完成)。
  • 1978年(昭和53年)11月23日 - 吉野送信所の周波数を1110kHzから1107kHzに変更(9kHzステップの移行に伴うもの)。
  • 1981年(昭和56年) 4月1日 - 吉野送信所の送信出力を5kWから20kW[11]に増力。
  • 1982年(昭和57年)
    • 4月1日 - アナログテレビ放送において音声多重放送を開始(南九州地区のテレビ局では初。当初は奄美群島地区は除く)。
    • 7月7日 - ラジオ放送の音質向上を目的にプリエンファシス方式を導入。午前9時の生ワイド番組内より放送開始(当初は吉野送信所エリアのみ)
  • 1983年(昭和58年)10月15日 - コーポレートアイデンティティ (CI) を実施。ロゴが現行のものに更新。
  • 1986年(昭和61年)10月1日 - ラジオ放送の送信所を鹿児島市吉野から隼人町(現・霧島市)に移転。
  • 1987年(昭和62年) 4月 - 南別館(報道センター棟)が完成。
    • 10月 - ラジオ放送で『MBC50ニュース』を開始。
  • 1988年 (昭和63年)ラジオ終夜放送開始。いすゞ歌うヘッドライト(TBSラジオ制作)、オールナイトニッポン第二部(ニッポン放送制作)を、ネット開始した。
  • 1989年(平成元年)
    • 3月4日 - ラジオ放送の阿久根中継局の周波数を1557kHzから1107kHzに、送信出力を100Wから1kWに変更。
    • 10月27日 - アナログテレビ放送においてクリアビジョンを開始。
  • 1990年(平成 2年)2月18日 - 衆院選で鹿児島テレビ・鹿児島放送とともに誤当確[12]。『MBC6時こちら報道』が同年4月に『MBCニューズナウ』へ衣替えした一因となる。
  • 1993年(平成 5年)8月6日 - 平成5年8月豪雨(8.6水害)により甲突川が氾濫、MBC放送会館が水没の危機に瀕した。テレビ・ラジオ双方で終夜放送を実施。
  • 1995年(平成 7年)5月18日 - 放送局としては初めての気象予報業務許可を得る。
  • 1998年(平成10年)4月 - フィラーとしてお天気情報を流すことによりテレビの終夜放送を開始(日曜日も実施)。ラジオも同様に日曜深夜を含めた終夜放送を開始(現在は日曜深夜=月曜未明は2時45分‐4時に休止枠がある)。
  • 2003年(平成15年)3月31日 - ラジオ放送の鹿屋中継局を廃止。
  • 2006年(平成18年)
  • 2007年(平成19年)10月1日 - MBC初の地上デジタル放送の中継局となる鹿屋・枕崎・阿久根・蒲生中継局が開局。
  • 2008年(平成20年)8月1日 - 地上デジタル放送の名瀬中継局(奄美大島)が開局。
  • 2010年(平成22年)5月21日 - Ustreamを使いラジオ生放送中のスタジオの模様をライブ動画で配信するサービスが一部の番組でスタートする[13]
  • 2011年(平成23年)
    • 7月24日 - アナログテレビ放送終了。
    • 10月3日 - MBCラジオがradikoを用いたインターネット配信(実用化試験配信)を開始[5]

テレビネットワークの移り変わり

社史・記念誌

  • 南日本放送十年史(南日本放送・編) 1963年10月10日発行、301ページ。
  • MBC十五年の歩み(南日本放送・編) 1968年6月23日発行、52ページ。
  • MBC二十年の歩み(南日本放送・編) 1973年9月30日発行、64ページ。
  • 生き生き25年 南日本放送のあゆみ(南日本放送25周年記念出版委員会・企画) 1978年10月10日発行、143ページ。
  • 未来を拓く MBC35年のあゆみ(南日本放送35周年記念出版委員会・企画) 1988年10月発行、177ページ。
  • MBC50年の軌跡(南日本放送・編) 2004年発行、277ページ。

スタジオ・関連設備等

本社

本社は3つの建物に分かれており、此処では説明上「本館」「北別館」「南別館」とする。                                                              

第1スタジオ
テレビ制作用のスタジオ。本館内にある。放送会館の増築工事により、1969年にカラー放送対応のスタジオとして完成。以後、半世紀近くに渡ってMBCの歴史を見守ってきた。現在は「MBCニューズナウ」・「ズバッと!鹿児島」・「TEGE2」等、定時ニュース以外の殆どの番組が此処で制作されている。また、選挙や記念特番も基本的に此処から(生)放送される。
ニューススタジオ
南別館(1987年春に竣工)にあるスタジオで、報道センター内に設置されている。「MBCニューズナウ」も2006年11月30日まではこのスタジオから生放送されていた。現在も「かごしま24」や「MBCニュース」、気象情報は此処から放送されている。
第2スタジオ
ラジオ制作用のスタジオで、「スマイリー園田のLive Alive」等の公開生放送の他、大人数での音声収録などに使用されている。本館にあり、こちらも1961年から使用されている。
展望スタジオ
城山スズメ」、「えっちゃんのたんぽぽ倶楽部」、「田辺令吉のおはよう!発車オーライ」、「ズバッ@RADIO〜青だよ!たくちゃん!〜」等の生番組の放送を行うラジオスタジオ。本館2Fにあり、近年設備が改装された。2010年からはUSTREAMを使用したネット上の生放送も一部番組で行われている。
  • この他にもラジオスタジオが存在し、テレビのナレーション録音・ラジオ番組収録に使われている。     
MBCホール
北別館7F(最上階)に設置された、中規模なホール。主にMBCユースオーケストラや、年末の県民第九の練習会場等として使用されている。
社員食堂「すずめ」
多くの社員が利用している。MBCの番組やHPでは何故か存在に触れられる事はあまりないが、元UMK首藤真吾が休暇で同期生の古山かおりを尋ねた際、同社のHP上で公開された(UMK首藤真吾アナウンサー日記より)。
玄関ロビー
地上デジタル放送開始に合わせ、2006年頃に改装された。一時期はスタジオ改装等の事情で、各番組の生放送・収録にも使われていた。なお、平成5年8月豪雨では甲突川の氾濫で冠水し、その様子がMBCのカメラを通して全国へ伝えられた。

本社以外

  • 鹿屋支社・奄美支局には中継用の簡易スタジオがある。また、南日本新聞編集局にも中継用のデスクが置かれている。
    • 奄美地方にはラジオ名瀬中継局が存在し、同局にコールサインは割り当てられていないものの災害発生時など独自放送を行うことがある[14]。この場合は基本的に鹿児島本社のスタジオから放送が行われている模様。
  • MBCメディアホール - 本社近くの「MBC開発ビル」4Fにあるホール。各種イベントに使用されているが、近年は此処でラジオ特番の生放送・収録を行う事も多い。

主なテレビ番組

自社製作番組

過去の番組

JNN系列局制作番組のネット

※全国ネットの番組は除く。

系列外の番組

放送時間がないものは、かつての番組(※は継続中のもの)。

テレビ東京(TX)系列

民教協加盟局共同制作番組

その他

過去に放送されていた番組

日本テレビ系

ほか

フジテレビ系

ほか

テレビ朝日系

ほか KKB開局まで放送されていたテレビ朝日系の番組

KYT開局まで放送されていた日本テレビ系の番組

  • サスペンス劇場(1992年4月2日〜1992年9月24日は『木曜サスペンス劇場』、1992年10月2日〜1994年3月25日は『MBCサスペンス劇場』のタイトルで深夜番組として時差ネット)
  • 全日本プロレス中継(放送日が土曜日に移った際にKTSに移動。その後、1992年4月5日〜1994年3月27日は、再びMBCで日曜深夜(月曜未明)に放送)

KYT開局まで放送されていたフジテレビ系の番組

  • サザエさん(1992年9月のフジテレビ系番販放送枠廃止後も、この番組のみ、一社提供(複数者提供移行後は筆頭)スポンサーだった東芝からの要請により、1992年10月4日〜1994年3月27日は引き続き放送。鹿児島讀賣テレビの開局に伴い、1994年4月3日からKTSに移行。それまでは『FNSの日』内包時のみKTSで放送)

TBS系の遅れネット

主なラジオ番組

  • かつては午前5時開始〜翌朝3時(日曜深夜=月曜未明だけ2時)終了の22時間(同21時間)放送だったり、日曜深夜を含めた完全24時間放送だった時代もあったが、現在は毎週日曜の深夜=月曜2時45分〜4時のみに休止する時間があるが、他は終日放送(月曜日のみ4時開始、他は5時基点)である。

自主制作番組

ネット番組

TBSラジオ制作
文化放送制作
ニッポン放送制作
その他

そのほかの自主制作番組やネット番組は番組表を参照。

鹿児島県内他民放ラジオ局と同時編成

2007年2月12日の15時から55分間、MBCラジオ・県域FM局のエフエム鹿児島 (μFM) ・コミュニティFM局の鹿児島シティエフエム(フレンズFM)と「鹿児島の民放ラジオ3局」として初めて合同で番組を編成した。2008年、2009年も同時期に実施。

タイトルは「3WAVEパワーステーション ラジオだぜ! 男3人トークバトル」。MBCラジオからは野口たくおが、μFMからはDJ POCKYが、フレンズFMからは柳田弘志が出演[16]。スタジオはμFMを使用し、メールアドレスのドメイン名もμFMのものだったが、公式サイトはMBCのサーバーに置かれてあった。12日の放送時には各パーソナリティが自己の担当する番組の企画を持ち込み(野口は「城山スズメ」、DJ POCKYは"MUSIC POWER STATION feel the μzic DA!!"、柳田は「いいよね本舗」)、各放送局のジングル(フレンズFMのみ「いいよね本舗」のジングル)もそれぞれ放送された。また、これに先駆けて2月5日から9日までの12:12 - 12:17に情報番組を3局同時に放送した。

なお、MBCラジオとフレンズFMは2003年8月6日にNHKラジオ第1放送(鹿児島局)と同時編成を行ったことがある。また、NHKは公共放送であり、鹿児島県に残り3つある(当時)コミュニティFM局(FMかのや、FMきもつき、FM志布志)はNPO団体(非営利団体)であるため、民放ではない。

MBCパーソナリティ

独自にポイント気象予報を出す認可を受けており、MBCのアナウンサー・ニュースキャスター・気象予報士・タレント・ポニーメイツは「MBCパーソナリティ」と総称されている。

アナウンサー

元アナウンサー

○はフリー。

異動

移籍

退社(MBCタレント移行者は除く)

男性

  • 岩橋健正(1953.10.8-1956.11.13、元NHK→フリー、初代アナウンサー主任。「名作集朗読」、奄美復帰時の生中継などを担当)
  • 桐原久(1953.9-1987.1.1。青年団座談会、郷土あれこれ、私の好きな言葉、南国太平記などを担当。1976.6.23より取締役、80.6.17より常務、84.6.28より専務、1986.6.27-1987.1.1の死去まで代表取締役社長)
  • 田口晶(1953.9-1982.9。スポーツ実況、城山スズメ「花言葉の唄」選曲・第1回、薩摩琵琶などを担当)
  • 平山武光(1953.9-1987)
  • 時末芳一(1954.6.15-1979.5.14、1958.3より新設の報道部兼務を数年)
  • 三浦雅夫(1956.1.10-1982.4、「奥様ワイドMBCですこんにちは」などを担当)
  • 安田勝英(1964-、1996.6.28より取締役、2001.6.27より常務)
  • 中松禎夫(1965-2002):定年後も数年間はMBCニュースを担当。
  • 浜平賢二(1973-1976、その後は記者、1991.9.15に42歳で死去)
  • 桐山隆(1986-1997.6)
  • 山田修作(2002-2005、気象予報士)○

女性

ニュースキャスター

アナウンス部所属ながら、アナウンサーとは別に振り分けられている。

元ニュースキャスター

他局へ移籍・出向

異動

  • 城光寺剛(1983.4-、東京支社記者→報道部。1989に「鹿児島がオレに惚れてるぜ」(山崎兼敏作詞、坂元政則作曲)でジョー・フラメンコとして歌手デビュー。1960.7.24生)
  • 福山喬子(2001.4-2008.2、東京支社記者)

退社

  • 横山欣司(1959.2.12-1996.3、後年は放送制作部長。MBC学園アナウンス教室講師)
  • 陶山賢治(1996.10-?、元読売新聞記者。MBC開発代表取締役社長)

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気象予報士

ウェザーキャスターとして活躍

ウェザーキャスター以外の分野で活躍

MBCタレント

社員ではないパーソナリティ(元同局関係者も多数いる。)のことを放送局としては珍しく愛称があり、MBCタレントと呼んでいる(一部は県内他局の番組に出演している場合もある)。当該項目では出演している番組、CMを紹介。

男性
女性

元MBCアナウンサー

ポニーメイツ

それ以外

元MBCタレント

ゲストタレント

過去には女性もいた。

ポニーメイツ

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リポーター

台湾特派員

放送開始・終了および終夜放送実施

局名告知(オープニング・クロージング)のこと。

ラジオ

2009年ごろまでは放送開始・終了時(完全終夜放送時は不定期に生じるメンテナンス時に限る)ともに同一曲を使用しているが、それぞれ独自の編曲が施されている(なお、終了時のバージョンは、1980年代後半にはテレビのクロージングでも使用されていた)。これは1981年に開局30周年記念として作られたもの(この曲は歌入りで、下成佐登子が歌っていた。)であり、ラジオでは30年近く、テレビでも15年近く使用された。 現在は簡素なものに変更され、かつ放送休止中はフィラー音楽を流している。

  • アナウンス例
  • (オープニング時・現行)
    • おはようございます。JOCF MBCラジオです。ただいまから本日の放送を開始します。今日も一日MBCラジオとご一緒にお過ごしください。
  • (一世代前オープニング・メンテナンス明け)
    • JOCF 南日本放送です。ただいまからMBCラジオの放送を開始します。鹿児島・阿久根・大口・川内からは1107kHz、鹿屋からは1062kHz、名瀬からは1449kHzでお送りします。どうぞきょうも一日MBCラジオでお楽しみください。間もなく5時(4時)になります。JOCF
  • (クロージング時・現行)
    • JOCF MBCラジオです。今日も一日MBCラジオをお聞きいただきありがとうございました。これで本日の放送を終了します。火の元、戸締りをお確かめの上ごゆっくりお休みください。
  • (一世代前クロージング・メンテナンス直前)
    • JOCF 南日本放送です。お楽しみのところ誠に申し訳ございませんが、放送機器の保守・整備のためこれをもちまして本日の放送を終わらせていただきます。鹿児島・阿久根・大口・川内からは1107kHz、鹿屋からは1062kHz、名瀬からは1449kHzでお送りしました。明日もMBCラジオでお楽しみください。JOCF

デジタルテレビ放送

放送開始・終了時共通(アナウンスは各々違う)。

現行

鹿児島市内の空撮、おはら祭武者行列および奄美の環境映像を使用。BGMはスイート・キャロライン(同局開局以来かつ在鹿局では初めて洋楽を使用)。天気予報は内包しておらず、本編終了後直ちにお天気フィラーとなる。

  • 1枚目共通…JOCF-DTV①MBC(JOCF-DTV、MBCテレビです。)
  • 2枚目オープニング…おはようございます。(改行)今日もMBCの放送でお楽しみ下さい。
  • 2枚目クロージング…これで今日の放送を終わります。(改行)おやすみなさい。
    • 2枚目のアナウンスはテロップのとおりに読まれる。
2013年1月1日~12月31日

開局60周年テーマ曲「見つめあうだけで」を使用している(公式サイトで公開されている映像(開局当時の鹿児島市内、学生運動、おはら祭、鹿児島中央駅集団就職列車(当時の西鹿児島駅)、九州新幹線出発セレモニー(2004年3月13日)、800系新幹線)のようす、ロケット基地縄文杉皆既日食ナベヅルほか)の最後に本社社屋空撮をバックに、コールサインとアナウンサーによる読み上げ(JOCF-DTV、MBCテレビジョンです。)が追加されたもの)。尚、クロージングで『おやすみなさい』という表現を行ったのは開局以来初めてである。天気予報は内包していないが本編終了後直ちにお天気フィラーとなる。日によってはオープニング・クロージング共にカットされ、直接お天気フィラーに入る場合もあった。なお、この映像の放映は2013年12月30日の深夜(クロージング)および12月31日早朝(オープニング)に終了した。

  • 1枚目共通…JOCF-DTV①MBC
  • 2枚目オープニング…おはようございます(改行)きょうもMBCの番組でお楽しみ下さい。
  • 2枚目クロージング…これで本日の放送を終了します。(改行)おやすみなさい。
    • 2枚目のアナウンスはテロップのとおりに読まれる。
デジタル放送開始当初より2012年末

県内各地の春夏秋冬を収め、最後に2枚の静止画で挨拶する映像を使用していた。(アナウンスなし)

  • 1枚目開始・終了共通:コールサイン「JOCF-DTV ① MBC」表示
  • 2枚目開始「おはようございます(改行)きょうもMBCの番組でお楽しみください。」
  • 2枚目終了「これでMBCの放送を終わります。」

社名は基本表示しない(アナログの場合、「JOCF-TV 南日本放送」と表示)。BGMは社歌のインストゥルメンタル(器楽曲)となっている。

アナログのものから新たに作り直されており、アナウンサーによるコールサイン読み上げがないことなどの細部に及ぶ変更点がある。ちなみに2006年11月5日のサービス放送開始時は、2枚の静止画で挨拶するのみであった。

クロージングは九州南部地方(熊本県南部(天草市牛深地区および水俣市周辺に限る)を含む)の天気予報を内包しており、一番組として扱われ、電子番組表(EPG)では「天気予報放送終了前」と表記されていた。

  • 2011年(アナログも同様)、クロージング直前にドリーミュージック所属アーティストのPV(ミュージック・ビデオ)がフルで放送されていた時期が複数存在する。EPG上は「天気予報放送終了前」として扱われているが、1990〜2000年代のものとは異なり天気予報・クロージングは別に放送されていた。
  • また、終了から開始までの休止時間が短い場合はクロージング(および天気予報)がカットされ、最終番組からオープニングまで番宣CMやフィラーで埋められることとなる。

アナログテレビ放送

ともに2011年の停波までの数年間に変化はみられなかった。県内他局とは異なり、親局の周波数・出力の案内が特に行われていなかったのが特徴。

放送開始(オープニング)
1996年頃からは「錦江湾の朝日をバックに県内各地の著名な風景が流れ、やがて桜島の航空写真に切り替わっていく」映像に、BGMとして社歌を編曲したものが使用されていた(デジタルとは異なる)。コールサインの音声は上野知子アナウンサー。
1990年代前半までは地球が出てきて、日本→鹿児島にズームインし、鶴が出てくる。その後桜島が出てきて、一旦終了、最後にアナウンサーがコールサイン告知で終了。BGMは社歌。鶴のアニメはフィルム。桜島の映像は当初は鶴同様フィルムであったが、CIが導入されて以後はVTR収録となり、「MBCテレビ」→いったん消えた後MBCのCIロゴ→「南日本放送」→「JOCF-TV」の順番で縦方向にロールテロップ形式で表示し、それが終ってからブルーバックで改めて「JOCF-TV(改行)南日本放送」と表示していた。
「きょうも一日、MBCテレビとともにお過ごしください」という独特なフレーズが代々使われていた(デジタルでは「今日もMBCの番組でお楽しみください」の表示のみ)。昭和末期には日替わりでの挨拶がなされていた時期も存在する。
放送終了(クロージング)
鹿児島県内の季節の風景をハイビジョン撮影したものを映像とし、全中継所表示(周波数別に)も行っていた。最終版は2006年8月から約5年間使用された。デジタルと同様、1980年代後半ごろより長らく天気予報が内包されていたが、翌日の放送開始までの間隔が短い場合は天気予報がカットされることがあった。
オープニング同様、「あすもまたMBCテレビとともにどうぞ」という文言が一時期存在していたものの、こちらは1990年代の時点で(より一般的に使われる)「あすもまたMBCテレビをごらんください」といったものに変更されている。
  • 1980年代前半は、南洲神社縁日の様子(夜店ミニライブ、線香花火など)を映し、3枚の静止画(うち1枚はコールサイン表示)で挨拶していた。
  • 1990年代前半までは鹿児島市交通局路面電車を映していた(映像は数か月毎に差し替え)。また、同年代半ばは桜島の1日を、同年代後半まではミュージック・ビデオにテロップを載せたものであった。2004年3月のみこの形式に戻されたことがある。
  • コールサイン表示においてデジタル放送とは違い、社名を表示していた。(JOCF-TV(改行)南日本放送)
    • 1990年代前半まではブルーバック上に表示され、同年代後半は鹿児島市の夜景をバックに表示されていた。ミュージックビデオに変わってからは歌い終わりに表示されていた。2000年代前半は福山酢の製造工場(霧島市)を、同年代後半は県内某所の薄(すすき)をバックに表示されていた。
地上アナログ放送完全終了(2011年7月24日午後11時58分)
ブルーバックに「JOCF-TV MBC TELEVISION」と書かれた静止画が1枚表示され、簡素なナレーション(アナログ視聴への感謝、移行の呼びかけ、コールサイン読み上げ)が流れて終了した。

お天気フィラー(終夜放送)

前述のとおり、1998年ごろよりフィラーとして鹿児島県内(熊本県南部(天草市牛深地区水俣市周辺)および宮崎県南・西部(えびの市・都城市など)を含む)のお天気情報やお天気カメラを流しており、行楽や運動会シーズンに重宝されている。また、KTS・KKBも現在、天気フィラーを流しており、KYTは日テレニュース24サイマル放送している。設備点検による休止(同局では大規模工事でない限り滅多に行われない)を除いて在鹿全民放局で終夜放送が実施されている。以前は、2段式カラーバー(無音もしくは1kHz信号音付き)か砂嵐だったが、台風が来そうなときや豪雨発生時には予報図やレーダー観測図を出して情報を提供していた(かつてはオリジナルのフォーマットを使用していたが、現在はTBS系列共通のものを使用)。 開始当時は放送終了後および放送開始前5~10分程度はカラーバーを流していたが、2000年ごろからは放送終了後直ちにお天気フィラーを放映し、放送開始前ぎりぎりまで放映するようになった。

その他

  • MBCラジオのラジオカーの愛称は「ポニー
  • 上述のとおり現在FNN系列のKTSがクロスネット局(FNN、NNNとANN)であった時代(いわば2局体制)、同局でネットしきれないフジテレビなどの番組を購入して放送していた。
  • ラジオでは1992年10月のエフエム鹿児島(μFM)開局まで、TOKYO FMの一部番組を放送していた。
  • 南日本放送開局50周年(2003年)記念として吉俣良 作曲、熊木杏里作詞・唄で愛唱歌「きみ!」(CDは非売品)がつくられた。2008年度のウミガメキャンペーンのラジオCMなどや終夜放送のBGMなどでもよく使われる。なお吉俣の実弟は同局と契約している放送タレントである。
  • 1960年代の一時期、丸屋(のちの三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)にあった電車通り側のショーウインド内にラジオのサテライトスタジオが設けられたことがあった。これは当時九州初の試みだったとのことである[19]。この流れがあって2007年秋まで、丸屋⇒鹿児島三越⇒三越一社提供の冠番組が放送されていた。また1980年代から1990年代にかけて午前10時前に一時期「鹿児島三越の開店時間です」との時報CMを流すこともあった。
  • 鹿児島県で販売される新聞のうち、産経新聞九州・山口特別版のラジオは九州・山口県8県共通内容の「広域版」となっているため、スペースの都合上載せていない。
  • ラジオ南日本時代から放送以外の事業にも積極的で、嘗ては家電販売店を営む「MBCサービス」やシンクタンク事業を行う「MBC総研」なども関連会社として存在した[20]
  • 番組表(タイムテーブル)は、2009年度までラジオとテレビで別々に作成されていたが、2010年度以降は、ラジオとテレビの番組表を一緒にした『ふるぷり』として発行している。

脚注

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参考文献

  • 『MBC50年の軌跡』 南日本放送、2004年。

外部リンク

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テンプレート:Radiko
  1. 鹿児島本局の移転について エフエム鹿児島、2011年7月1日。
  2. 『南日本新聞』2011年9月2日、25面。
  3. 『南日本新聞』2011年12月27日、17面。記事中に「テレビのアンテナ塔が設置されていた場所」とあり、解体が完了したことがわかる。
  4. 地上デジタルテレビ放送中継局ロードマップ(最終更新2011.1.21) - 総務省。
  5. 5.0 5.1 テンプレート:PDFlink radiko公式ウェブサイト、2011年9月15日。翌16日の南日本新聞紙面にも掲載。
  6. 『MBC50年の軌跡』では1959年8月17日とされている。
  7. 1982年10月期は36%が新番組(『南日本新聞』1982年9月28日朝刊14頁)で、1994年4月は全日で16.9%、ゴールデンタイムで40%の改編率(『南日本新聞』1994年4月3日朝刊12頁)であった。この他にも1975年には大阪の朝日放送 (ABC)と毎日放送 (MBS) のネットチェンジ(腸捻転)でいくらかの番組をKTSと交換している。
  8. MBCは2013年10月10日で、開局60周年(公式ウェブサイト)。2012年12月23日付の南日本新聞にも「MBC60年・KTS45年 記念番組や催し続々」として掲載。
  9. 同年10月に宮崎放送(当時はラジオ宮崎テレビ)がテレビ放送を開始したことに対する開局(宮崎放送は当時大隅半島全域をカバーエリアとしていた)。
  10. 他局及び現在の呼称は「阿久根中継局」。
  11. MBC側は100kWの増力を求めていたが20kWに落ち着く。100kWの場合、民放局においては関東広域圏の3局のみで、NHKを含めても九州では2番目の大出力であった。20kWの場合も政令指定都市を抱えない県の民放局では唯一である。
  12. 『テレビ宮崎の20年』(テレビ宮崎、1991年5月)の年表による。
  13. 2010年5月時点では「precious music 金曜日」の生放送のみ実施、ちなみに5月21日はライブ動画のみで無音での配信だったが、翌週の5月28日より音楽やCM部分を除く音声とライブ動画の同時配信となった。
  14. 例としては平成23年台風第2号発生時、夜間を中心に定時的に臨時ニュースを挿入している
  15. その一方で、1994年3月までNNSに参加していたKTSは当大会に参加していない。
  16. この3人は2006年12月から3局合同の飲酒運転撲滅キャンペーンCMに出演していた。
  17. 3月入社。
  18. カルチャーコネクションの自己紹介ページ
  19. 『生き生き25年 南日本放送のあゆみ 昭和53年版』より。
  20. [ http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2209 踊る大捜査線よりある意味凄い 鹿児島・南日本放送の関連ビジネス]WEDGE Infinity 「故郷のメディアはいま」2012年9月19日付記事より。