銭湯
銭湯(せんとう)は、客が入浴できるようにした日本の公衆浴場の一種。風呂屋(ふろや)とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる(詳細は後述)。
目次
概要
高い煙突がシンボルの一つとなっている。また、銭湯によっては温泉を利用している場合もある。大規模な銭湯などではスーパー銭湯を名乗る場合もある。
定義
現在の日本の法律では公衆浴場について、次の定義がなされている。
- 「公衆浴場法」第1条の規定
- この法律で「公衆浴場」とは、温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設をいう。
- 「公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律」第2条の規定
- 公衆浴場法の適用を受ける公衆浴場は各都道府県の条例で、「普通公衆浴場」と「その他の公衆浴場」に分類される。
分類
もともと公衆浴場の業者には分類として風呂屋と湯屋があり、水蒸気に満ちた部屋に入って蒸気を浴びて汗を流す、蒸し風呂タイプの入浴法で営業している業者を風呂屋と呼び、沸かした湯を浴槽に入れ、湯を身体に掛けたり、浸かったりするタイプの入浴法で営業している業者を湯屋と呼んで区別していた[1]。しかし、江戸時代中頃に入浴法の発達や、兼業して営業する業者が出るようになって、喜田川守貞が書いた『守貞謾稿』(巻之二十五)の「京大坂にては風呂屋と俗に云ひ、江戸では湯屋と云ひ訛る」[2]との記述があるように、地域によって呼び方は異なることはあるが風呂屋と湯屋は混同されて使用されるようになった[3]。
歴史
古代
日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった。
中世
鎌倉時代になると一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった、これが銭湯の始まりと言われている[4]。日蓮が書き記した『日蓮御書録』によれば、1266年(文永3年)、四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」と"湯銭" という文字があることから、詳しいことは不明であるが、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在していたと考えられている[5]。なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺に1239年(延応元年)再建、1408年(応永15年)に修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている[6][7][8]。
室町時代における京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。このころ、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった[9]。また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた[10]。なお、室町時代末期に成立した洛中洛外図屏風(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている。
近世
江戸における最初の銭湯は、1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した蒸気浴によるものであった。
その後江戸では、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)[11]。さらにその後、湯船の手前に石榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が登場した。細工を施した石榴口によって中は湯気がもうもうと立ちこめ、暗く、湯の清濁さえ分からないようにして入浴するというものであった。後に、客が一度使った湯を再び浴槽に入れるという構造になり、『湯屋漫歳暦』には「文政(年間)の末に流し板の間より汲溢(くみこぼ)れを取ることはじまる」との記述がある。こうしてだんだんと薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂から、次第に湯に浸かる湯浴みスタイルへと変化していった。
男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した。1791年(寛政3年)に「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた。
営業時間としては朝から宵のうち(現在でいう夜の8時くらい)まで開店していた。浴場、銭湯が庶民の娯楽、社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた。式亭三馬の『浮世風呂』などが当時の様子をよく伝えている。当時の銭湯の入り口には矢をつがえた弓、もしくはそれを模した看板が掲げられることがあった。これは「弓射る」と「湯入る」をかけた洒落の一種である。
なお、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていた。江戸時代末期には大店の商家でも内風呂を持つようになった。
近代
1877年(明治10年)頃、東京神田区連雀町の鶴沢紋左衛門が考案した「改良風呂」と呼ばれる、石榴(ざくろ)口を取り払って、天井が高く、湯気抜きの窓を設けた、広く開放的な風呂が評判になって、現代的な銭湯の構造が確立した[12]。
政府は1879年(明治12年)に石榴風呂式浴場を禁止して旧来型の銭湯は姿を消していき、外国への配慮から混浴は禁止となったが、銭湯そのものは都市化の進展や近代の衛生観念の向上とともに隆盛を極めた[注 1]。
大正時代になると、銭湯はさらに近代化していき、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、陶器のタイル敷きの浴室が好まれていった。昭和時代になると、水道式の蛇口が取り付けられるようになった。
現代
戦後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築された。1965年(昭和40年)頃には全国で約2万2000軒[12]を数えるようになった。
以前、東京都では銭湯の利用世帯を調査していたことがある。それによると1964年(昭和39年)の調査で銭湯を利用している世帯は全世帯の39.6%だったが、1967年(昭和42年)には30.3%にまで減少している。大阪府では1969年(昭和44年)に2,531軒あったものが、2008年(平成20年)3月末には1,103軒まで激減している。高度経済成長期以降、風呂付住宅が一般的になったことや、平成期に入って「スーパー銭湯」と呼ばれる入浴施設が増えており、利用客と軒数が減っており、2005年(平成17年)3月末日における全国浴場組合(全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会)加盟の銭湯の数は5,267軒となっている。
構造
現代のごく一般的な銭湯の構造の例は次のようになっている(なお、この見取り図は関東地方の銭湯に多いパターンである)。
基本的に履物は松竹錠(風呂屋錠)で施錠される下駄箱に収める。そこから、番台があるかないかによっても異なるが脱衣所またはフロント(受付・休憩等の部屋)に入る。
男湯と女湯
脱衣所の手前で男湯と女湯に分かれている。図では左(M)が男湯、右(F)が女湯だが、左右の配置に特に決まりはなく、逆の場合もある。外からのぞき見しにくい側に男湯を配置する場合もある。
全体の構造
- A:燃料室:従業員以外は立ち入り禁止。釜場は屋外と連絡している。
- B:浴室:浴槽と洗い場に大きく分かれる。他にシャワーやサウナ室が設けられる場合もある。
- (3) 浴槽:水風呂、電気風呂、打たせ湯、座風呂、ジェット風呂、薬湯、露天風呂などを備えている施設もある。特に日本式の風呂になじみの無い者のために、浴槽の中で体を洗わないなど入浴のルールや作法を脱衣場などに掲示しているところもある。また、上がり湯専用のカランを備えているところもある。東日本では浴室奥に設計されることが多く、西日本では浴室中央に設計されることが多い。
- (4) 蛇口:温水と冷水が出る。ボタンを押す間のみ湯水が出る「湯屋カラン」が多く使われる。また、多くは混合水栓のシャワーを備える。壁際ではなく、壁から離れた所に島状に設置されている洗い場のカラン列は「島カラン」とも呼称される。
- C:脱衣場と入り口:脱衣所の手前に休憩所が設けられるところもある。板張り床ではなく高級な籐であることもある。
- (5) ベビー寝台:主に女湯の脱衣所に備え付けられている。
- (6) 脱衣箱:脱いだ衣服を入れる棚箱、今でいうロッカー。月極めの貸しロッカーもまれにある。かつてはトウ(籐)製の脱衣かごも用いられていた。
- (7) 番台:番台は銭湯によって有無が異なる。その歴史について、少なくとも江戸時代の銭湯には番台が存在した。番台は図のように男湯と女湯を共に見渡す位置にある。一方、比較的新しい銭湯では番台がない代わりに、脱衣所とは別でフロントのように設計されることが多い(よって、銭湯の形態としては番台形式とフロント形式に分類できる)。
- (8) 暖簾:正面の入り口には大判ののれんがかけられている。
- (9) 下駄箱:個別に松竹錠(風呂屋錠)などの簡易な錠前がつくことが多い。傘立ても同様。
- (10)坪庭:片隅に小さな日本風の植栽などが設けられている所もある。
意匠の特徴
ペンキ絵
銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われる。大正元年(1912年)に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至った。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無い。図柄は浴場の主人による注文が基本であるが、富士山を主体とした図柄は男湯の浴室正面の壁面に描かれることが多く、女湯の浴室のペンキ絵は、富士山でなく幼児や子供が喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多い。2012年(平成24年)10月の時点でペンキ絵の絵師は関東で丸山清人と中島盛夫の2名を残すのみ(早川利光は2009年(平成21年)4月13日逝去)となり、後継者の存続が危ぶまれている。
ちなみに2006年(平成18年)5月に閉館した交通博物館のパノラマ模型運転コーナーの背景壁絵のリニューアルの際(平成14年(2002年))にも、銭湯のペンキ絵の絵師によって、富士山などを主体とした山々が連なるペンキ絵が描かれた[13]。
タイル絵
大型タイルに美しく豪華な上絵を描き、焼成したものをタイル絵という。全国的にみられるタイル絵は、伝統の九谷焼で戦前より石川県金沢の「鈴栄堂」という窯元が全国に広めたもの。壁面などの広い面積を装飾するため複数枚の大型タイルに柄続きの総柄に仕上げる。白地の平滑な地に描かれる図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などおめでたく華美なものがほとんどを占め、美術工芸品並みの技巧を凝らし創られたタイルもある。高級品でもあったため、設備資金にゆとりがあり集客の多い市街地の銭湯に多くみられた。
建築様式
宮大工によって造られる寺社建築のような外観の共同浴場を全国的に見ることができる(主として温泉が湧出する観光温泉地)が、これが関東大震災後に東京で成立する宮型造り銭湯の様式としても採用された。主に関東近郊にこの建築様式が集中しており、地方の銭湯では見られずきわめて数が少ない。この宮型造り銭湯の都心での発祥は東京墨田区東向島の「カブキ湯」に始まる。一般的に建物入口に「唐破風」もしくは「破風」が正面につく建築様式を「宮型」という。
神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りに合掌組を反曲させた曲線(写真建物の上端部)は、宗教性や権威を誇るディテールであり、また、極楽浄土へいざなう入り口を示すシンボリックな側面を合わせ持っている。そこには一般在来建築とは様式が違うというだけでなく、非日常性という側面も垣間見える。当時の主な銭湯の利用客である市井の人々には「お伊勢参り」や「金毘羅山参り」、「日光東照宮参り」 など日本各地の神社仏閣への「お参り」旅行は参詣本来の目的に加えてイベントであり娯楽であったことも鑑み、人々の平凡な日常にとって宮型造りの銭湯に足を運ぶことはいつかの「お参り」にいざなう魅力的な装置としても機能した。
こうした宮型造りの銭湯は昭和40年代頃まで関東近郊で盛んに建てられたが、各家庭において内風呂(自宅内の風呂)が普及し、またビルに建て替えられる銭湯も多くなったため、現在では減少傾向にある。一方、近年の懐古趣味であるちょっとしたレトロブームに乗って、中には新築で宮型造りの銭湯が建てられる物件も出てきている。
各地の銭湯の建築様式は様々であるが、コミュニケーションの場として日常生活に彩りを与える工夫がなされている所に共通点がみられる。
営業・サービス面
営業時間・営業日
現代の日本では、午後あるいは夕方から深夜12時前後までの営業が一般的。「朝風呂」と称して早朝より営業している店もある。また、昨今の利用客の減少から、最近では近隣の銭湯で定休日が重ならないように調整し合うこともある。
料金
入浴料金は物価統制令(現憲法発布前に出された勅令。法律としての効力を持つ)の規定により、各都道府県知事の決定で上限が定められている(前述の#定義も参照)。そのため都道府県ごとで料金は異なる。いずれの都道府県においても「大人(中学生以上)」「中人(小学生)」「小人(未就学乳幼児)」の料金分けを採用。また、洗髪する場合は追加の洗髪料金を徴収する地域もある。共通回数券を発行している地域や、特定施設でのみ利用可能な回数券を発行している施設もある。
サービス
それぞれの施設で異なるが一般的に、番台やフロントなどで入浴に必要な道具や石鹸、入浴後に飲まれることの多い飲料である牛乳やサイダー、ジュース、缶ビール(一部の施設)などを販売。脱衣所ではテレビや体重計があり、扇風機・ドライヤーやマッサージチェアも一部有料で利用できる。喫煙についてはできる場所もあるが、時代の変化にともない一部、もしくは全面禁煙化した施設も多い。頻繁に利用する入浴客には、割安な回数券も販売されている。
日本古来のならわしから柚子湯、菖蒲湯(しょうぶゆ)などの伝統行事を暦に合わせて行ったり、子供や年配客向けの割引・無料サービスを行うところもある。最近では保育園・幼稚園・小学校に通う子供達を「裸のつきあいの意義を知る」としてクラス単位などで全員一緒に入浴させる「体験入浴」を学校行事とともに地域のふれあい行事として、一部の施設で行っている例もある。
施設によっては、浴場以外にサウナ風呂を有する場合もあり、東日本の一部の銭湯では200〜300円程度の追加料金でサウナへ入浴が可能なことが多いが、西日本では追加料金のない施設も多い。料金を支払った客を区分しやすくするために、サウナ専用のカラータオルを貸しだすこともある。雑誌・新聞などの持ち込みなどはほとんどの場合、入浴客の安全を考慮して制限される。プールや温泉施設、ジムなどと同様に刺青を入れた人は、入場を断られる場合がある。
その他
登録有形文化財
大阪市生野区にある源ヶ橋温泉は外観・内装とも昭和モダニズムの面影を残す貴重な建物のため、風呂屋(銭湯)の建造物では数少ない国の登録有形文化財に登録されている。一方、同じく登録有形文化財となっていた同市阿倍野区の美章園温泉は、燃料費の高騰や耐震補強工事が困難であることなどを理由に廃業、2008年(平成20年)2月より開始された解体作業にともない[14][15][16]、同年12月に文化財としての登録を抹消された[17]。この他にも、京都市北区にある船岡温泉、東京都台東区上野にある燕湯、三重県伊賀市にある一乃湯、鳥取県倉吉市新町にある大社湯が登録有形文化財に登録されている。
現在は銭湯として使われていないが、かつては銭湯だった登録有形文化財の建造物として、京都市北区の旧藤ノ森湯[18](現在は飲食店等に転用)、愛知県半田市にあった半田東湯[19](解体後に愛知県犬山市の明治村に復元、足湯あり)[20]がある。
歴史のある銭湯・古銭湯
江戸時代より現在まで続く歴史のある銭湯が全国に複数存在している。1773年(安永2年)に創業した東京都江戸川区のあけぼの湯は都内でも最も創業が古い銭湯(廃業した銭湯を除く)である[21][22]。この他、江戸時代より続く銭湯として都内には江戸川区の鶴の湯や台東区の蛇骨湯、中央区の金春湯があり、全国では長野県のアルプス温泉(創業当時:忠兵衛のお湯)[23]、新潟県の千代乃湯[24]、熊本県のくすり湯[25]などがある。また、秋田県鹿角市の花の湯は1836年(天保7年)に南部藩より下された「風呂免許」を現在も所持する銭湯である[26]。
一方、建物自体が古い銭湯としては、都内では1927年(昭和2年)頃に宮大工により建築された月の湯[27]が最も古いが、全国では明治10年代(1882年(明治15年)以前)に建築された北海道小樽市の小野湯[28][29]、1915年(大正4年)に建築された愛媛県八幡浜市の大正湯[30]、明治末期から大正初期頃に建築された千葉県勝浦市の松の湯[31]、1923年(大正12年)に脱衣場の建物が建築され登録有形文化財でもある京都市の船岡温泉など、明治から大正にかけて建築された銭湯が現存している。
参考文献
- 奥野高広 『戦国時代の宮廷生活』 続群書類従完成会、 2004年2月、ISBN 4797107413
- 河合敦 『目からウロコの日本史―ここまでわかった!通説のウソと新事実』 PHP研究所 (PHP文庫)、 2003年6月、ISBN 9784569579641
- 藤浪剛一 『東西沐浴史話』 人文書院、1931年
- 町田忍 『銭湯遺産』 戎光祥出版 、2007年12月、ISBN 4900901830
- 小木新造 『東亰時代 - 江戸と東京の間で』〈NHKブックス371〉日本放送出版協会、1980年8月
脚注
注釈
- ↑ 1879年(明治12年)10月3日の東京府令湯屋取締規則により、混浴禁止とともに石榴口は1885年(明治18年)11月末日までに改装すべきとされた(小木新造 『東亰時代 - 江戸と東京の間で』、p.96)。