萩原哲晶
テンプレート:Infobox Musician 萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年5月26日 - 1984年1月13日)は、日本の作曲家。北海道岩見沢市生まれ、旧制北海中学を経て東京藝術大学卒業。
経歴
1955年4月1日、ハナ肇、犬塚弘らとともに、クレージーキャッツの前身であるキューバンキャッツを結成するも、作曲に専念するため後に脱退。
「スーダラ節」などクレージーキャッツのほとんどの曲で作曲・編曲を手がけた。クレージーキャッツの映画化作品の音楽も多数担当したほか、前田武彦作詞の『エイトマン』主題歌や、『おくさまは18歳』などのコメディ色の強いテレビドラマで音楽を担当した。マーチ調の明るい曲を得意とし、特にイントロや間奏で全世界を照らすかのごとく輝きわたる金管は彼の真骨頂である。
クレージーキャッツのための作品では、青島幸男による毒の強すぎる原詩に対し、毒を抜きながらユーモアの要素を強めた詞の改変を提案してもおり、青島自身によれば「無責任一代男」の青島原詩のオチが単に「馬鹿」であったのを、ユーモラスな揶揄の「ごくろうさん!」に、「ドント節」の原詩の「クビには」を「パアには」変えたのは、いずれも萩原の提言によるという。
名前の「萩」を「荻」、「晶」を「昌」と誤表記される事が多く、「スーダラ節」のレコードではこの誤った名前でクレジットされている。その他、音楽を担当した映画のクレジットやクレージーキャッツ関連書籍のいくつかにもこの誤りが見受けられる。一方で「てっしょう」と誤読されることも多く、これも通称として認めていた[1]。仲間うちでの愛称は「デクさん」。
1984年1月13日、中咽頭腫瘍のため58歳で逝去。
没後、大瀧詠一が1986年にクレージーキャッツの「実年行進曲」を作曲・編曲した際に、萩原の編曲手法に着想を得た事から萩原を「原編曲」としてクレジットしている。ちなみに大瀧は、萩原サウンド愛好家で、クレージーキャッツファンである。
代表曲(作・編曲)
- スーダラ節(作詞:青島幸男 1961年)
- ドント節(作詞:青島幸男 1962年)
- 五万節(作詞:青島幸男 1962年)
- 無責任一代男(作詞:青島幸男 1962年)
- ハイそれまでよ(作詞:青島幸男 1962年)
- ショボクレ人生(作詞:青島幸男 1962年)
- いろいろ節(作詞:青島幸男 1963年)
- ホンダラ行進曲(作詞:青島幸男 1963年)
- 愛してタムレ(作詞:ヒライワ・タカシ 1963年)
- 馬鹿は死んでも直らない(作詞:塚田茂 1963年)
- だまって俺について来い(作詞:青島幸男 1964年)
- 無責任数え歌(作詞:青島幸男 1964年)
- ゴマスリ行進曲(作詞:青島幸男 1965年)
- 遺憾に存じます(作詞:青島幸男 1965年)
- 笑ってよいしょ(作詞:野末陳平 1968年)
- ズッコケちゃん(作詞:なかにし礼 1969年)
- いい湯だな(ビバノン・ロック)(作詞:永六輔 作曲:いずみたく 1969年)
- この際カアちゃんと別れよう(作詞:青島幸男、上野玲児 1971年)
- これで日本も安心だ〔作詞:青島幸男 編曲:(この曲のみ)宮川泰 1979年〕
- イエロー・サブマリン音頭〔訳詞:松本隆 作曲:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー 1982年〕
参加作品
映画
- スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ(1962年)
- サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ(1962年)
- クレージー作戦 先手必勝(1963年)
- クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年)
- 日本一の色男(1963年)
- 日本一のホラ吹き男(1964年)
- 大冒険(1965年)
- 日本一のゴマすり男(1965年)
- クレージーだよ奇想天外(1966年)
- クレージーの無責任清水港(1966年)
- クレージー大作戦(1966年)
- クレージー黄金作戦(1967年)
- クレージーの大爆発(1969年)
- クレージーの殴り込み清水港(1970年)
- だまされて貰います(1971年)
- 日本一のショック男(1971年)
テレビ
- エイトマン(1963年 TBS)
- かみなり坊やピッカリ・ビー(196年 毎日放送)
- ファイトだ!!ピュー太(1968年 毎日放送)
- おくさまは18歳(1970年 TBS)
- アイちゃんが行く!(1972年 フジテレビ)
- 刑事犬カール(1977年 TBS)
- コメットさん(大場久美子版)(1978年 TBS)
- 秘密のデカちゃん(1981年 TBS)