クイズダービー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:半保護 テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 テレビ番組クイズダービー』(英称:Quiz Derby)は、毎週土曜日の19:30 - 20:00(JST)にTBS系列で放送されていた、ロート製薬一社提供クイズ番組である。初回は1976年1月3日、最終回は1992年12月19日で、全862回放送された。

概要

出場者が解答者の中から正解すると思う解答者1人に自分の持ち点を賭けて、得点を増やしていく競馬形式のクイズゲーム番組である。言い換えると、誰が正解するかを予想するクイズ番組である。

元々この枠では、大橋巨泉司会で、同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』が1968年2月から1975年12月まで放送されていたが、リニューアルされる事になり、この時に巨泉の競馬好きから、かつて巨泉がカナダで見たクイズ解答者をに見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組セレブリティ・ステークス』を模倣した番組が企画された(詳細はルールの変遷を参照)。その『セレブリティ・ステークス』は巨泉の話によれば「非常に短命で、1年も続かなかった」というが、この番組はルールはもとより、司会者と解答者とのやりとり、ギャンブルのスリルを味わえる事が受けて人気番組になった。なお、巨泉が自らの趣味を番組の内容に反映させた例としては、毎日放送(MBS)の『世界まるごとHOWマッチ』(1983年1990年)でゴルフのルールが取り入れられていた事等がある。

最高視聴率1979年6月30日に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHK総合テレビクイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ高視聴率であり、民放に限れば第1位の視聴率である[1][2]。又、クイズ番組では初めて視聴率40%以上を記録した番組でもある。安定した高視聴率を獲得出来た背景には:(1)「お化け番組」と呼ばれる程の高視聴率を誇った『8時だョ!全員集合』の前座という時間帯、(2)テレビ受像機が高価で「一家に一台」の世帯が多い時代であり、しかも選局がロータリー式つまみでチャンネル変更が面倒、(3)娯楽がまだ多様ではなく、テレビ番組が娯楽に占める割合が大きかった;といった3つの背景が存在した。

CM等を除いた番組放送時間は24分であったが、収録は25分までで、「撮って出し」の手法が使われた[3]

出場にあたっては葉書ではなく、封書に二人の写真と簡単な自己紹介文を添えてTBSテレビ宛に応募する事が条件で、その旨を記したテロップが1或いは6問目(音楽問題)のシンキングタイムBGMを流している最中か、巨泉時代のエンディングCM明けにも表示されていた。

クイズ番組としては珍しく、TBSの音声多重放送開始当初である1978年11月25日放送分よりステレオ放送となった。TBSのテレビ番組、かつテレビのクイズ番組としてもおそらく世界初のステレオ放送番組とされている。また、1990年以降はクリアビジョン放送もされていた。

番組の歴史

巨泉時代

  • 1976年1月3日、放送開始。番組開始当初は、複雑なルールが災いして視聴率が低迷。2月には4.4%にまで下落し、TBS上層部から再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーであるロート製薬の意向もあって存続し、ルールを単純化したところ、秋頃には視聴率が20%を超え、TBSを代表する看板番組となった[4]。番組の最盛期は上記最高視聴率を記録した1979年から1981年にかけてで、この3年間は年間平均視聴率がおよそ30%にも達し、年間視聴率ベスト20にも記録されている[5]
  • 収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。

徳光時代

  • 1990年4月14日(第735回)からは日本テレビを退社したばかりだった徳光和夫が2代目の司会者となり、オープニングの掛け声も「徳さんの、クイズダービー!!」と変更された。なお徳光に司会が変わってからは、これまで巨泉時代に放送実績がなかった富山県チューリップテレビ)と愛媛県あいテレビ)の2県にて新たにネットを開始した。しかし冒頭で触れたとおり1992年12月19日で番組が終了した為、後者では1クールしかネット出来なかった(特に後者のネット開始は1992年10月17日放送分からで、同年11月14日は2時間特番で休止となったため、後者でのネットは9回だけに留まった)。
  • 1992年7月からは従来固定されていたレギュラー解答者を週替わりにしたが、この時期は当時TBS社長だった磯崎洋三が大改革を掲げており、それに伴う番組編成見直しが進められていた時期でもあった。こうして当番組もその見直し対象に挙がり、同年末での終了が決まった[6]
  • 1992年12月19日の最終回(第862回)では、巨泉が1990年3月に「セミリタイア宣言」で降板して以来の司会に復帰し、2代目司会者の徳光は5枠のゲスト解答者として出演した。この回の詳細については最終回を参照。

特別番組

  • 1983年に放送された『スター対抗クイズ番組大集合 熱狂!興奮!タモリの司会でクイズを100倍楽しもう!』では、タモリ司会によるクイズダービーも行われていた。なお、タモリは本放送時に常連ゲストとして出演していた。
  • 本放送時は通常は30分の放送だったが、過去に数回1時間のスペシャル『お正月だよクイズダービー』(1983年1984年1月1日、1988年1月2日ほか)が放送された[7]

本放送終了後

本放送終了後、以下のように復活特番は3回行われた。但し、詳細は復活特番を参照。

TBSチャンネルでの放送

2005年1月3日からCS放送TBSチャンネルで再放送されている。本放送と同じく音多ステレオで放送されている。また、ロート製薬の初代オープニングキャッチも併せて放送されている。

2005年1月はランダムで放送されたが、2月以降は第589回(1987年5月9日放送分)から順番に放送。2008年2月11日に巨泉勇退の回を放送した。2010年2月22日まで第831回(1992年4月25日放送分)まで放送されていたが、同年3月1日よりひかりTVでもTBSチャンネルの配信が始まった関係で第784回(1991年4月27日放送分)から再度放送される。その後同年5月31日に第842回(1992年7月11日放送分)から再びランダムで放送されている。2010年8月2日の第860回(最終回の2回前。1992年12月5日放送分)を以って再放送は終了し、翌週8月9日の第310回(1982年1月2日放送分)から事実上2巡目の再放送が行われている。2012年10月27日より「TBSチャンネル2」にて地上波の本放送と同じ時間帯である毎週土曜19時30分から放送されていたが数か月後に昼12時30分に変更。2013年7月6日に第734回(巨泉勇退)放送後、翌週より第685回を再度放送している。

なお、一部の放送回が事情により放送されない場合もある。

番組の進行

オープニング

番組の基本的なシステムやルールの考案者は、初代司会者だった大橋巨泉である。ロート製薬のオープニングキャッチで番組が開始し、2本程度のCMを経て、「巨泉の、クイズダービー!」(最初期は「大橋巨泉の……」だった)の掛け声の後、発馬機のゲートが開く音とともにオープニングファンファーレが流れ、同時に番組セットのすべての電飾が点灯して本番が始まった。

基本ルール

  • 毎回3チーム(初期は4チーム)の出場者と、5人(初期は6人)の解答者が出演した。
  • 出場者チームは各問題に対して正答しそうな解答者を一人指名し、持ち点(3000点からスタート)の範囲内から100点単位で賭けていく。解答者には問題の解答力に応じた倍率が設定されており、指名した解答者が正解した場合には賭け点と解答者の倍率を掛けた得点が加算され、不正解だと賭け点分のみ減算された。ただし、解答者が全員不正解の場合には、その問題での賭け点はすべて返された。
  • 実際の競馬でいうと、出場者は「賭け手」、解答者は「競走馬あるいは騎手」、出場者の持ち点は「馬券」、解答者の倍率は「オッズ」、解答者のシンキングタイムは「競走」、解答者の正解は「一着ゴールイン」、出場者の得点獲得は「的中」、全員不正解は「競走不成立による全返還」に見立てたものである。

問題

  • 通常は8問(初期は11問⇒10問:6人制・9問:5人制)出題され、1・3・5・8問目が一般問題、2・4・7問目が三択問題、6問目は音楽問題(巨泉は「作詞の問題」と呼んでいた。まれに歌詞当てではなく、流れた音楽に因んだ問題が出題されたこともある)というのが基本である(まれに1問目で音楽問題や三択、2問目で一般問題が出題された)。
  • 最終問題の直前になるとチャイムが鳴った。この際、巨泉は「最後の問題です。よーく聞いて下さいね」と大抵言っていた。
  • 問題表示は、出題者が読み上げの最中にテレビ画面の下半分に水色のボードに手書きの黒い文字で表示されていたが、末期の解答者変動制になってからはテロップ表示となった(2回の復刻盤では水色ボードの黒い文字の手書き)。
  • 問題を解く鍵として問題中にヒントが隠されており、そこから答えを連想することができた。音楽問題で歌詞当ての場合、巨泉の裁量で意味が合っていれば大抵正解にしていたが(まれに予め巨泉から「歌詞通りで無ければ正解とは致しません」と発言することもあった)、一般問題と同様に問題のフレーズの周りの歌詞にヒントがあり、そこから予想していた。
  • 出題は一般常識や時事関連、著名人のエピソード・名言、時代を反映したエピソード、事件簿、アメリカンジョーク、駄洒落などの珍問・奇問の問題が中心で、知識より勘やユーモアを問う問題が比較的多かった。基本的には出場者のテーマに沿った問題が出題されることが多い(第602回「武道ギャル大会」で1問目、6問目に関連問題が出題された)。
  • 初期の頃は「アダムとイブの住んでいる所は何の園?」(答え:エデンの園)や「山口百恵森昌子桜田淳子の中で、一番お姉さんなのは?」(答え:桜田淳子)や道路標識の問題等、知識系の問題が殆どだった。但し、中期以降も有名人の顔のホクロの位置の問題や、「メダカブスとはどんなブス?」(答え:救いようがないブス)や、「五円玉に描かれている稲穂以外の物は?」(答え:歯車)や、「『髭』は顔のどの部分?」(答え:顎の下)等、希に知識系が出る場合もあった。中には出場者のタレントに関するエピソード問題や、普通の辞書には載っていないユニークな漢字の出題もあった。出場者に関係する問題については、解答に入る前に司会者から出場者に対して「○○さん(みなさん)は黙っていてくださいね!」と注意があった。

倍率・オッズ

  • 基本的な倍率の付け方は、通常問題は1倍から10倍まで。三択問題は1倍から7倍まで(初期は1倍から5倍までだった。難易度によっては4倍が最高になる場合や、全員に3倍が付けられる場合もあった)。最後の問題(合図として出題前に約2秒のチャイムが鳴る)では、設定された倍率がさらに2倍になった。
  • 番組の初期は、司会の巨泉と、レギュラーオッズマンの藤村俊二と、ゲストオッズマン(ゲスト解答者と親しい人 例・ゲスト解答者が植木等の時、ゲストオッズマンはハナ肇だった)の3人で解答者の倍率を決めていた。これは、解答者の正解不正解を、競馬の予想マーク(◎○△×)で予想するもので、3人全員がマークを付けない状態では「10倍」であり、マークの種類と個数に応じて倍率が下がっていった。ただし、どのマークでどれだけ下がるかの規則性は、番組内では明らかにされなかった。なお、競馬の予想マークは倍率の下に表示していた。その後、解答者が6人から5人に減らされた際に、予想マークや倍率を下げるルールが廃止され、巨泉が単独で倍率を決める方法に改められたが、「最高倍率は10倍(最終問題は20倍)」というルールはそのまま継続された。巨泉はこのリニューアルについてのちに「複雑すぎて視聴者に受け入れられず、視聴率が取れなかった。それなら思いっきり単純にしようと思って、オッズマン制をやめた」と語っている。要するに、競馬を全く知らない視聴者にも解りやすくするためでもあった。
  • 倍率は、概ね1枠・2枠・5枠には5〜10倍(三択問題では最大7倍だが、徳光時代ではゲスト解答者(ダニエル・カール藤田朋子松田聖子加藤博一久本雅美赤井英和)に8倍が、更に瀬川瑛子に9倍が付いたことがある。)、3枠と4枠には2・3・4倍(いずれも最終問題はさらに2倍)が表示されていたが、まれに「1倍」がついたこともある。「1倍」の設定は正解率の高いはらたいらが多かったが[9] 、その他の解答者でも専門・得意分野にちなんだ問題では「1倍」が設定されたことがあった。また番組初期から中期にかけてはごくまれに、はらに「5倍」、竹下にも5〜10倍(例:竹下が誕生する以前の時代での問題が出題された場合など)という高倍率が設定され、最終問題で彼らに「10倍」が出たこともある。
  • 最終問題では倍率が2倍になるため、確実に2〜20の偶数がオッズになるのだが、初期は単純に1〜20倍の間で倍率が決められたため、最終問題の倍率が2桁の奇数になる場合もあった。
  • 徳光への司会交代後の中期からは倍率が毎週ほぼ固定制になり、問題内容に応じた個々の倍率判断が全くなされなくなった(例えば、第809回、1991年10月26日放送分の1問目の主婦向けの問題に普段通りはらに2倍、竹下に3倍が付いたり、第791回、1991年6月15日放送分の山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド編)」の歌詞問題に、世代的にかなり有利と思われる井森に9倍が付く等。因みにその問題に井森は正解した)。また時々つけられていた「1倍」という倍率もつけられることが少なくなっていった。
  • 倍率発表の際の司会者の決まり文句としては、以下のものがあった。
    • 「倍率ドン!!」(倍率発表の際に発する)
    • 「倍率ドン! さらに倍!!」(最終問題で倍率が2倍になるときに発する。主に巨泉)
    • 「倍率ドン! さらに倍してドン!!」(同上。主に徳光)

点数賭け

  • この番組での的中時の配当は、配当が先に決まっているブックメーカー方式で行われており(掛け金をプールして配当を定めるのがパリミュチュエル方式で、中央競馬競輪など日本における公営競技で採用されている)、持ち点を賭けた時点では持ち点が減らないルールになっている。例えば3,000点を持っているチームが、3倍の解答者に500点を賭けて正解した場合の持ち点は「3,000+500×3=3,000+1,500=4,500」点となる。不正解の場合は「3,000-500=2,500」点(倍率は関係ない)となる。前述した「1倍」という倍率が存在したのはこのためである(1倍でも正解すれば点数が入る)。
  • 「全員不正解」という事態は、番組当初においては想定されておらず、初めて生じたときには、通常通り「不正解者に賭けた」こととして減点されたが、その翌週より「そもそも誰が正解しているかを当てるゲームであり、全員不正解というのは根本的にゲームが成立していない状態である」という見解(実際の競馬でいうところの「競走不成立」となった状態と同じ)に統一され、「全員不正解の場合、賭け点はすべて返す」というルールが追加された。そのため、誰にも賭けられていない解答者が単独で正解した際(全チーム掛け金没収となる)に、巨泉がその解答者に「余計なことをしないで下さい!」などとこぼすのがお約束となっていた。(特に高倍率傾向にあった1・2・5枠解答者に対して)

シンキングタイム

  • クイズの解答は、テーブルに設置されているロールペーパー式の解答用紙にマジックペンで書き、それを天井のカメラで撮ってモニターに映しており、文字は白抜きで表示された。また新しい紙は、解答者から見て左側にあるボタンを押すと出て来る。その為、モニターが開いている時(答えを開ける前の「クイズダービー」表示でない時)、解答用紙の所に手を置いたり顔が入ったりするとモニターに手や後頭部が映る、書いた解答が横にスクロールする所が見られる事もあった。
  • 「草競馬」のBGMが流れる時に巨泉が再び出題内容を発言するが、それから数秒後は解答の修正も認められていた。最初の解答を抹消し答えを変更したり、複数の解答を羅列した後最終的な答えを○で囲んだりする事が可能であった。特にかつての2枠レギュラー・山崎浩子は時間ギリギリまで最終回答を悩む事が多く、巨泉に「浩子!早く一つだけにしなさい!」と注意される事が度々あった。

解答発表

  • 司会者の「せーの、ドン!」(番組開始当初は「ハイ!」だった。その後「○○さん、ドン!」等もあった)の掛け声とともに、解答者の頭上にあるモニターに解答が表示される。正解の場合は、正解した解答者のモニターの背景色が青から赤に変わり、倍率表周りのランプが点灯回転した。さらに賭けられた解答者に対しては、ファンファーレ(番組開始当初は馬の鳴き声だった)が鳴らされ、的中した出場者の得点表周りのランプも点灯回転した。3組のいずれからも賭けられなかった解答者が正解の場合、ファンファーレはなく、観客の拍手のみ。不正解の場合は、モニターの背景色は青のまま。
  • 解答の開け方には、順番に開ける場合と一斉に開ける場合とがあり、順番も以下に示すように、場合によってまちまちだった。
第1問目
最初の問題では解答者の紹介を兼ねて1枠から順に解答を開けていった。その際、レギュラー解答者については先週の成績が「N問正解」ではなく、「N勝N敗」という表現で司会者より発表され(年初めの放送では、前年一年間の成績と勝率〈○割△分□厘〉を発表)、過去に出場経験があるゲスト解答者については通算成績が発表された。ただし、末期の週替わりレギュラー制となってからは、テロップで前回の成績が表示された。
三択問題
三択問題では答えが3つしか存在しないため、基本的に一斉に答えを開いていた。答えを開ける際で、答えの分布が○:△:□=2:2:1の場合「3つに分かれました。○は2人、△は2人、□は1人」、○:△:□=3:1:1の場合は「○という答えが圧倒的に人気で3人、△は1人、□は1人」、○:△:□=3:2:0の場合「□と書いた人はいない、○が3人、△は2人」、4:1の場合「一人を除いてみんなおんなじ答え!」といった決め台詞が存在し、その後一斉に全員の解答を開く「いっぺんに開けます。せーの、ドン!」(徳光が時々「せーの、ドン!」の所を「よーい、ドン!」ということがあった。他にも回答を開ける前に「○○さんと○○さんが答えが同じです。(若しくは違う答えを書いております。)と言う時がたまにあった。)という形式だった。また「なんと全員同じ答えです!」と言ったり、いきなり「一遍に開けましょう」との号令で、5人全員正解と言ったこともある(逆に全員不正解の場合もあり)。
一般問題でも「一人を除いて皆同じ答え」で一斉に答えを開けたことが時折あり、その後大抵は「○○さん(篠沢教授や井森が多い)以外は全部正解」となるパターンだったが、たまに「○○さん一人だけ正解」「全員不正解」となったケースもあった。なお一人だけ正解の場合は、予め司会者がとある解答者に対して「○○さん、(『一人を除いて』のひとりは)あなたでは有りません!」と安心させていたが、そう言われた解答者は不正解であった。極稀にゲスト解答者が「一人を除いて皆同じ答え」の台詞を聞いた後に自分ではないかと思い込んで書き直し、不正解となってしまうこともあった。なお最終回を除く巨泉時代のすべての回(復活特番も含む)と徳光時代の回の途中までの回は問題表示の際、出題内容と選択肢を一括表示していたが、後者の途中から最終回までの回は出題内容と選択肢が別々に表示される形式へ変更され(出題者が選択肢を読み上げる際に、表示を切り替え)、同時に問題表示の書体もナール体へ一新された(一般問題も同じ)。
その他の問題(一般問題)
一般問題(1問目以外)においては司会者の裁量で、大抵は誰からも指名がなくかつ誤っているだろうと思われる解答者の答えから順に開けていった(大体が1・2・5枠のいずれかから最初に開けるのが殆どだが、はら・竹下が不正解時はまれに彼らを初めに開ける事もある。また奇を衒って、いきなり正解の解答者の解答を開けるといった演出もあった)。指名された解答者が全員不正解の場合、別の解答者を最後に残し、「○○さん(はら・竹下が多い)ができなければ、お返しします」の台詞で答えを開けており、この場合、大抵その解答者は正解であるが、たまに不正解で「お返し」となる場合もある。ただし同一解答が複数いる場合は一斉に答えを開けたこともあるが、はらと答えが同じで尚且つ正解の場合は、まずはらと答えが同じという事は告げずに解答を開けて正解、その後はらの答えも開けて正解という演出があった。番組開始当初は出場者の順番を追ってそれぞれ賭けた解答者から枠番で「ハイ、N番!」と解答を開けていた。
  • CMは解答発表の後に挿入されており、CMに入る際には「その前にこちらを」というCM予告が入れられた。

得点・賞金

  • 最終的に獲得した点数がそのまま1点=1円で賞金となった。最終問題に関係なく持ち点が10万点に達したか超過した場合、または0点になって失格となった場合、そのチームのみその時点でゲーム終了となり、次の問題以降は参加できなくなる。『クイズダービーベスト500』では10万点という点数をクイズダービーの合格点と定義している。
  • 持ち点が10万点に達するか、10万点を超えた場合、賞金は10万円となり、10万円を超えた分は「TBSカンガルー募金」(現・TBS未来への生命募金[10]に寄贈された。これは製薬会社団体の紳士協定により、懸賞賞金が10万円までと定められていたためである。1チームでも10万点獲得チームが現れると、エンディング曲のコーダ部がファンファーレとして鳴るとともに、出場者席の背後にある電飾および得点表周りの電飾が点灯し、天井に吊るされたくす玉が割られ、大量の紙吹雪と極細の紙テープの固まり2束が降り注ぐ中、男性には白、女性には赤のダービーハットがアシスタントによってかぶせられた。くす玉割りは毎日放送アップダウンクイズ』の末期と同様、スタッフの機械操作で行われていた。なお、字幕スーパーは一切出なかった。
  • 10万点獲得は最終問題で「最後の賭け」の結果達成するパターンが大半だったが、前述した通り、まれに最終問題に至る前に10万点獲得に至ったチームも現れた。例えば、1988年4月9日放送の奥田瑛二麻生祐未ペアは、5問目終了時点で持ち点を71,000点まで増やし、6問目で3倍の竹下景子に20,000点賭けたところ、竹下が正解したため、持ち点が131,000点となった。第614回、1987年11月7日放送分で、7問目時点で56000点持っていたチームが6倍の山崎浩子に16000点賭けたところ正解したため、152,000点を獲得した。また、第7問目までに全チームがあわや10万点獲得に至るまでなろうとしていたことがあった。
    • レギュラー回での最高点は1987年6月6日に放送された骨董品を扱う店の店員を集めた大会での古物商チームでの819,000点であった(エピソード参照)。
  • 大抵の回は10万点に達するチームが出たが、全チーム0点または逆に全チーム10万点となったケースも年に数回あった。最終問題であっても、確実に賞金を持ち帰るために、正解率の高い(倍率の低い)解答者(主にはらたいら竹下景子)に賭けて10万点に達しなかったチームもあれば、正解率の低い(倍率の高い)解答者(主に篠沢秀夫)に全額を賭けずに少し点数を残したチームもあった。中には計算違いをしたり、最終問題に至るまでに0点となり失格になったチームも存在した。

エンディング

最終問題の解答が発表されると、エンディング曲が流れる中で、司会の大橋巨泉が解答者を巡り、次いで賭け手3組をねぎらって「また来週」の台詞で本編は終了した。

この後は、CM2本程度が流れてから、次回のゲストが予告され、「クイズダービー おわり」の画面が表示され、ロート製薬の提供クレジットが表示されて番組が終了した。なお、次番組予告が放送されていた期間は、ロート製薬の提供クレジット[11]が表示された後に、「クイズダービー おわり」の画面が表示され、次番組予告が流れて番組が終了した。

スタジオ

司会者席

  • 司会者席の上には、解答者全員の成績が「本日のレース結果」として表示された。正解の際は当該箇所の赤いランプ(印)が点灯した。表示は10問目まで対応していたが、9問目以降は特番を除き使用しなかった。5問目終了後のCM明けにこのボードで解答者の成績を確認していたが、その際巨泉は解答者の成績が良いと「今日はみなさん真っ赤ですねえ」、逆に悪いと「今日はどうしたんでしょうか、真っ黒ですよ」などと言っていた(不正解の所は何も照明が付かず黒いため)。解答者の成績が悪いながらも出場者の点数が高いと「今日の出場者は賭け方が上手いですねえ」、逆に解答者の成績が良いのに出場者の点数が低いと「今日の出場者はおかしいですねえ、皆こんなに真っ赤なのに?」などと言っていた。
  • 番組初期は3つに席が分かれており、左からゲストオッズマン、レギュラーオッズマンの藤村俊二、司会者の大橋巨泉が座っていた。また、解答成績は司会者席と6枠解答者席の間にボード形式で立てていた。
  • 司会者席にも解答をチェックするモニターが横に1列並んで設置されており(解答者席のものと同様に画面が青・赤バック表示のもの)、視聴者にも解答の模様を公開するための黒バックのモニター(「ただいま解答中!」)が上3つ・下2つに並んで設置されていた。

解答者席

  • 解答者席は実際の競馬で言うスタート地点(いわゆる「ゲート」)に見立てたものである。
  • 解答者の後方には解答モニター(通常は「クイズダービー」のタイトルロゴが表示されるが、番組改編期の特番では「春(秋)の豪華版スペシャルクイズまるごと大集合」と出ていた)が設けてあり、通常時は青バック、正解の場合はそれが赤バックとなり、不正解の場合は青バックのままであった。当初は解答モニターを棚に飾る状態でのせていたが、解答席が6席から5席に変更された際、番組セットの壁でモニター画面の部分以外をすべてふさいだ。
  • 解答者席の正面には倍率(オッズ)が電光表示され、賭けられた解答者の席では、賭けたチーム名が書かれたポールが自動的に立った。正解すると電飾が点滅した。
  • 解答者席の両側にはコンパニオンの出入口が配されており、出場者の10万点獲得時と、問題に関係した図表や物品を解答者に見せる際に使われた。コンパニオンはエンドクレジットに名前が出るが、どちらのケースもない場合は姿を見せなかった。

出場者席

  • 出場者は番組に応募して採用された一般視聴者だが放送日によって芸能人や各界の有名人が出演する場合もある。
  • 出場者席のテーブルにはパネル形式で、上にその問題の賭け点、下に現在の獲得点数がそれぞれ表示される。得点表示はソラリー式(反転フラップ式で、俗に言う「パタパタ」。縦横方向は違うものの、『アップダウンクイズ』の賞金表示板と同じ仕組み)で、賭けた解答者が不正解の際には動作音が響いていた。1988年の『お正月だよクイズダービー』にて、優勝チームがトータル100万点を超過し表示不可能になり、巨泉がADの記したカンペを持参しての結果発表となって以来、特番のセットでは得点盤が6桁から7桁表示になっている。
  • 解答者指名の際には、手元にある解答者名が書かれたネームプレートをポールに差し込む(初期は丸いプレートに電光表示で解答者の枠番を表示させていた)。番組開始当初は出場者が賭け点入力もしていたが、のちにスタッフに一任された。賭けた解答者が正解すると、出場者席のテーブルの電飾が点滅した(後方の電飾は点滅しない)。
  • 1976年1月3日(第1回)の番組開始から1987年9月19日(第607回)放送分まで使われていた後方の電飾は、欧米の多くの競馬場(近年は日本でも)に採用されている競走馬のをイメージしたゴール板を模したものである。出場者席の配色は左から赤・黄・緑であった。ただし番組開始当初は色分けされておらず、後方の電飾はすべて黄色で、くす玉もなかった。
  • 『クイズまるごと大集合』や『お正月特番』では、赤・黄・緑のほかにもう1つ青枠が登場した。解答者席にある賭けたチーム名のポールは、自動的に立つのは3チーム分(赤・黄・緑)しかないため、青枠分は出場チーム名が書かれたネームプレートを賭けられた解答者自らが答えを記入する前に手動で差し込んでいた。
  • 最末期の『お正月特番』では出場者席が6枠あり、上下に3枠ずつ配置していた。フリップに解答者名と賭け点を記入して徳光の「ホールドアップ」という掛け声に合わせてフリップをホルダーに差し込んでいた。なお、解答者席のポールはすべて自動的に立てられた。
  • 出場者席の上にはロート製薬の当時の主力製品(パンシロンG、キャシロン、新パンシロン、ロートAZ胃腸薬、パンシロン新胃腸薬、V・ロートクール、なみだロート、新V・ロート、新V・ロートプラス、ロートZi:、メンソレータムなど)の看板が掲げられていた。これらの製品名看板は、TBSチャンネルでの再放送でもそのまま表示されており、番組冒頭にはその旨の断りのテロップが出る。

歴代番組セットの変遷

テンプレート:独自研究

  • 番組のセットは7代目まで続いた。
  • 4代目以降のセットは電飾にフラッシュもたかれるようになった。4代目は正面、5代目以降は番組セット全体に取り付けられた。
巨泉時代
初代(1976年1月3日〈第1回〉-1976年7月3日〈第27回〉)
2代目(1976年7月10日〈第28回〉-1980年3月29日〈第218回〉)⇒解答席が6席から5席に変更された。(復活特番もこのセットで再現された)
3代目(1980年4月5日〈第219回〉-1987年9月19日〈第607回〉)
4代目(1987年9月26日〈第608回〉-1990年3月31日〈第734回〉)
徳光時代
5代目(1990年4月14日〈第735回〉-1991年3月30日〈第781回〉)
6代目(1991年4月13日〈第782回〉-1992年8月8日〈第846回〉)
7代目(1992年8月15日〈第847回〉-1992年12月19日〈第862回〉)⇒番組タイトルの電飾看板が赤色から緑色になった。
上田時代
8代目(2012年4月17日

出演者

司会者

出題者

出題者は問題の読み上げのみ担当し、賞品などを紹介することは一切なかった。

  • 初代:丹羽節子
  • 2代目:保田裕子
  • 3代目:きゃんひとみ(当時琉球放送アナウンサー・現フリー)
  • 4代目:小池達子(元テレビ愛媛アナウンサー・フリー)
    • 1985年4月6日 - 1991年3月30日(第478回 - 第781回)を担当。
    • 2000年2004年の過去2回の復活特番ではいずれも小池が出題を担当している。
  • 5代目:渡辺真理(当時TBSアナウンサー・現フリー)
    • 1991年4月13日 - 1992年12月19日(第782回 - 第862回(最終回))までを担当。
    • 司会が徳光に交代した後に就任したため、司会巨泉・出題渡辺という組み合わせは最終回の一度だけであった。また、1991年10月の頃から次回予告のナレーションを担当していた。
  • 6代目:青木裕子(当時TBSアナウンサー・現フリー)
    • 2012年4月17日(クイズダービー2012)を担当。

アシスタント

オッズマン

  • 大橋巨泉(1976年1月 - 6月、巨泉時代初期6人制のみ)
  • 藤村俊二(同上)
  • ゲストオッズマン(同上、週替わり)

レギュラー解答者

  • 1988年2月13日までの記録。ただし、北野、植草、五月、うつみ、長山、山崎、黒鉄、ガッツについては1992年12月19日までの記録。篠沢、井森、はら、竹下については2004年5月14日までの記録。
  • 勝敗数および勝率が未記載の箇所は、いずれも不明。
  • 解答者のギャラは正解数とは無関係だったため、はらも篠沢も同じだった[12]。また、視聴率も解答者の成績の良し悪しにかかわらず常に安定していた。

1枠

男性一発逆転枠。2枠よりは正解率は高め。主に作家・大学教授などの文化人が入る枠であった。不定期時は山崎浩子、井森美幸などの女性陣が1枠に座ることもあった。

解答者名 出演期間 勝率 備考
テンプレート:Display none畑正憲 1976年1月3日 - - - 第1回放送のみ出演
テンプレート:Display none白石浩一 1976年1月 - 1976年4月 - - - 公式は正式なレギュラー解答者として数えられていない
テンプレート:Display none鈴木武樹 1976年4月 - 1977年5月 テンプレート:Display none289 テンプレート:Display none399 .411 公式な1枠初代レギュラー。選挙への出馬により降板
テンプレート:Display noneハンス・E・プリングスハイム 1977年6月 - - - 和久のレギュラー着任まで、つなぎとして出演
テンプレート:Display none和久峻三 1977年7月 - 1977年10月 テンプレート:Display none19 テンプレート:Display none52 .269 本業との兼ね合いにより短期間で降板
テンプレート:Display none篠沢秀夫 1977年10月 - 1988年7月 1423 2953 .327 レギュラー降板後もゲスト出演
テンプレート:Display none北野大 1988年8月 - 1991年7月 テンプレート:Display none318 テンプレート:Display none842 .276 レギュラー着任前にゲスト解答者として1回出演
1992年7月 - 12月は準レギュラー
テンプレート:Display none植草克秀 1991年7月 - 1992年6月 テンプレート:Display none129 テンプレート:Display none329 .284 1992年7月 - 12月は準レギュラー
テンプレート:Display none稲川淳二 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none山崎浩子 1992年7月 - 12月 テンプレート:Display none3 テンプレート:Display none5 .375 準レギュラー
テンプレート:Display none井森美幸 1992年7月 - 12月 テンプレート:Display none1 テンプレート:Display none7 .125 準レギュラー

2枠

女性大穴枠。長山藍子まではベテラン女優枠であったが、宮崎美子の時代から最終回までは若手女優・タレント枠に転向。不定期時は田中義剛などの男性陣が2枠に座ることもあった。

解答者名 出演期間 勝率 備考
テンプレート:Display none五月みどり 1976年1月 - 1977年1月 220 250 .468 レギュラー降板後もゲスト出演
テンプレート:Display none沢たまき 1977年1月 - 1977年9月 107 193 .356
テンプレート:Display noneうつみ宮土理 1977年10月 - 1978年8月 183 201 .476 病気療養により降板
テンプレート:Display none高峰三枝子 1978年8月 - - - 南田のレギュラー着任まで、つなぎとして出演
テンプレート:Display none南田洋子 1978年9月 - 1979年9月 99 358 .217
テンプレート:Display none長山藍子 1979年10月 - 1981年9月 237 555 .299 レギュラー降板後もゲスト出演
テンプレート:Display none宮崎美子 1981年10月 - 1983年9月 332 504 .397 レギュラー降板後も竹下の産休代役で出演
テンプレート:Display none斉藤慶子 1983年10月 - 1985年3月 174 461 .274
テンプレート:Display none山崎浩子 1985年4月 - 1988年2月13日 327 857 .276 ソウルオリンピック出場準備のため降板。レギュラー降板後もゲスト出演
テンプレート:Display none井森美幸 1988年2月20日 - 1992年6月 374 1431 .207 レギュラー前にもゲスト解答者として3回出演
1992年7月 - 12月は準レギュラーとして出演
テンプレート:Display none早坂好恵 1992年7月 - 12月 11 13 .458 準レギュラー
テンプレート:Display none小川知子 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none田中義剛 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー

3枠

男性本命枠。漫画家枠だが、レギュラーを担当したのは黒鉄ヒロシとはらたいらの二人だけだった(福地泡介は、はらのスケジュールが合わず代役として1回のみ出演)。但し秋山豊寛・加賀まりこは番組終了まで約半年間の週替わりレギュラー。はらはこの間も最終回も含め不定期で出ていたが、体調不良等の事情で竹下景子よりも早く番組出演を終えている。尚不定期時は、本来4枠レギュラーの竹下が3枠に座ることもあった。

解答者名 出演期間 勝率 備考
テンプレート:Display none黒鉄ヒロシ 1976年1月 - 1977年1月 312 159 テンプレート:Display none.662 本業との兼合いにより降板。レギュラー降板後もゲスト出演
テンプレート:Display noneはらたいら 1977年1月 - 1992年6月 4842 1632 テンプレート:Display none.747 1992年7月 - 12月は準レギュラー
テンプレート:Display none福地泡介 1981年4月 0 8 テンプレート:Display none.0 はらの代役として出演
テンプレート:Display none秋山豊寛 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none加賀まりこ 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none竹下景子 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー

4枠

女性対抗枠。当初は女子大生枠。なお宮崎美子・市毛良枝・原日出子・秋吉久美子は、竹下景子が産休時の代役として出演している。不定期時は田中、ジェームス三木、円広志などの男性陣が4枠に座ることもあった。

解答者名 出演期間 勝率 備考
テンプレート:Display none萩尾みどり 1976年1月 - 4月 45 62 .420
テンプレート:Display none岸じゅんこ 1976年4月 - 9月 114 91 .556
テンプレート:Display none竹下景子 1976年10月 - 1992年6月 4172 2418 .633 1992年7月 - 12月は準レギュラー
テンプレート:Display none宮崎美子 1986年3月 9 7 .563 竹下の産休による代役として出演
テンプレート:Display none市毛良枝 1986年4月 9 15 .375 竹下の産休による代役として出演
テンプレート:Display none原日出子 1988年10月 7 9 .438 竹下の産休による代役として出演
テンプレート:Display none秋吉久美子 1988年10月 14 23 .378 竹下の産休による代役として出演
テンプレート:Display none和田アキ子 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none小川知子 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none久本雅美 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display noneジェームス三木 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none田中義剛 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー
テンプレート:Display none円広志 1992年7月 - 12月 - - - 準レギュラー

5枠

初期の解答者枠は6つあり、6枠がゲスト枠だった。ガッツの降板後に整理されて1枠減り、ゲスト枠が5枠に改められた。

解答者名 出演期間 勝率 備考
ガッツ石松 1976年1月 - 1976年6月 97 94 .508 枠数の削減により降板

ゲスト解答者

常連ゲスト解答者の出場回数・勝敗・勝率

1988年2月27日までの記録。ただし、小沢・松崎・稲川・和田については最終回時点での記録。

解答者名 出場回数 勝率 備考
テンプレート:Display none黒沢久雄 7 56 5 .918
テンプレート:Display none宮尾すすむ 6 38 14 .730
テンプレート:Display none長山藍子 7 25 32 .438
テンプレート:Display none湯原昌幸 13 45 63 .417
テンプレート:Display none稲川淳二 7 22 34 .393
テンプレート:Display none福地泡介 7 22 36 .379
テンプレート:Display none中島梓 5 15 25 .375
テンプレート:Display none大島渚 7 29 51 .362
テンプレート:Display none田中小実昌 6 17 32 .347
テンプレート:Display none和田アキ子 11 29 61 .322
テンプレート:Display noneタモリ 12 32 68 .320
テンプレート:Display none五月みどり 11 28 60 .318
テンプレート:Display none松崎しげる 21 53 116 .313
テンプレート:Display none桂歌丸 9 22 50 .305
テンプレート:Display none所ジョージ 9 21 51 .291
テンプレート:Display none小川知子 11 25 64 .280
テンプレート:Display none小沢昭一 13 28 78 .264
テンプレート:Display none片岡鶴太郎 6 11 37 .229
テンプレート:Display none市毛良枝 5 9 31 .225
テンプレート:Display none山田邦子 5 9 31 .225
テンプレート:Display none楳図かずお 7 11 45 .196

歴代ゲスト解答者一覧

解答者の各種記録

連勝記録

それぞれ、最高記録のみ。

連敗記録

それぞれ、最高記録のみ。

全問正解したゲスト解答者

ゲスト勝率ランキング

レギュラー出演者の変遷

代理出演は除く。

出演期間 司会者 出題者 解答者 オッズマン
1枠 2枠 3枠 4枠 5枠 6枠
1976.1.3(第1回) 巨泉 丹羽 五月 黒鉄 萩尾 ガッツ 植木等 巨泉
藤村
ハナ肇
1976.1.10 1976.4 白石 (ゲスト) (ゲスト)
1976.4 1976.6 鈴木
1976.6 1976.9 (ゲスト) (廃止)
1976.10 1977.1 竹下
1977.1 1977.5 はら
1977.6 ハンス
1977.7 1977.10 和久
1977.10 1978.8 篠沢 うつみ
1978.8 高峰
1978.9 1979.9 南田
1979.10 1980.3 長山
1980.4 1981.9 保田
1981.10 1983.9 宮崎
1983.10 1984.3 斉藤
1984.4 1985.3 きゃん
1985.4 1988.2 小池 山崎
1988.2 1988.7 井森
1988.8 1990.3 北野
1990.4 1991.3 徳光
1991.4 1991.6 渡辺
1991.7 1992.6 植草
1992.7 1992.12.12 (週替わり)
1992.12.19(最終回) 巨泉 北野 井森 はら 竹下 徳光

節目の回の詳細

大橋巨泉司会最終回

解答者
1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率 5・6・66・7・8・6・18)
2枠:井森美幸(成績3勝5敗。倍率 7・7・8・79・10・7・20)
3枠:はらたいら(成績5勝3敗。倍率 1・3・2322・3・4)
4枠:竹下景子(成績6勝2敗。倍率 223・2・3・3・28
5枠:篠沢秀夫(成績2勝6敗。倍率 6・5・7・7・10・8・7・16
出場者
赤チーム:ガッツ石松萩尾みどりチーム<賞金獲得額0円>
黄チーム:斉藤慶子山崎浩子チーム<賞金獲得額144,000円>
緑チーム:黒鉄ヒロシ長山藍子チーム<賞金獲得額90,900円>
  • 北野の前任だった篠沢がゲスト解答者として5枠に、また過去のレギュラー解答者が出場者として登場。
  • この回の第5問で、ラジオ番組の投書をもとにしたクイズが出題された。内容は「この番組での解答者に対する倍率を表す時の決め台詞『倍率ドン!!』を中学校の理科の授業で使った先生がいて、学校の中ではやっています。さて、どのようなときにこの台詞を言うのでしょうか」というものだった。答えは「顕微鏡を見るときの倍率設定」で、井森、竹下の女性2名とはらの3人が正解した。井森は平仮名で「けんびきょう」、はらと竹下は「顕微鏡を覗くとき」と書いており、これについて巨泉は「顕微鏡を見るというのが普通の人で、覗くと書くとスケベな人です」とコメントした。
  • ガッツと萩尾の赤チームは、7問目で10万点に達する可能性もあったが、賭けた解答者(はら)が不正解だったため、最終問題前の10万点達成には至らなかった。黒鉄・長山の緑チームも、最終問題で竹下に全て賭けたものの上記の通り10万点達成まであと少しの点数となり、黒鉄は「(300点や500点といった)端数がいけなかったですね」とコメントしていた。
  • 最終問題はカミソリの広告から「?のうぶ毛もきれいにそれる」の「?」を当てるもの。各解答者の書いた答えは以下の通り。
    • 北野:(「ハリネズミ」を消して)ヤマアラシ
    • 井森:足
    • はら:心臓
    • 竹下・篠沢:桃(正解)
  • エンディングでは次回から司会を務める徳光和夫が登場し、巨泉に花束を贈っていた。

徳光和夫司会初回

解答者
1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率6・6・6・6・9・9・7・18)
2枠:井森美幸(成績2勝6敗。倍率7・7・7・7・10・10・7・20)
3枠:はらたいら(成績7勝1敗。倍率312222・3・4
4枠:竹下景子(成績4勝4敗。倍率2・333・4・3・2・8
5枠:草野仁(成績1勝7敗。倍率6・6・5・6・8・8・6・18)
出場者
赤チーム:山本文郎長峰由紀チーム(モーニングEyeチーム)<賞金獲得額103,500円>
黄チーム:筑紫哲也浜尾朱美チーム(筑紫哲也 NEWS23チーム)<賞金獲得額0円>
緑チーム:定岡正二木場弘子チーム(JNNスポーツチャンネルチーム)<賞金獲得額90,000円>

最終回

解答者
1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率8・7・7・7・8・9・6・20)
2枠:井森美幸(成績0勝8敗。倍率7・7・9・6・10・8・7・20)
3枠:はらたいら(成績6勝2敗。倍率2・3・2332・3・4
4枠:竹下景子(成績4勝4敗。倍率3・2・4・2・5・3・26
5枠:徳光和夫(成績0勝8敗。倍率7・6・8・7・6・7・5・20)
出場者
赤チーム:黒鉄ヒロシ五月みどりガッツ石松チーム<賞金獲得額0円>
黄チーム:うつみ宮土理小沢昭一長山藍子チーム<賞金獲得額50,000円>
緑チーム:山崎浩子松崎しげる植草克秀チーム<賞金獲得額130,000円>
  • 出場者は過去のレギュラーと出場回数の多かったゲスト解答者の連合チーム。始めの挨拶のみを徳光が行い、その後で巨泉につなぐという流れだった。徳光が「巨泉の、クイズダービー!!」と叫び、巨泉の顔に似せたメガネをかけるという演出があった。そして挨拶開始と同時にメガネを外した。
  • 最初の問題はフリップに書き込んでもらうもので「ちょっとこちらをご覧ください。(メロディが流れる)これは、当番組の始まった昭和51年に大ヒットした曲、『およげ!たいやきくん』のキャラクターです。ところがこの絵には、特徴的なあるものが一つ欠けています。それを書き込んでください」という出題内容で、各解答者の書いた答えは以下のとおりだった。
    • 北野「鼻」
    • 井森「(お腹の)アンコの影」
    • はら「(泳ぐための)手」(正解)
    • 竹下「胸びれ
    • 徳光「涙」
  • 最終問題は「先頃、サンフランシスコに住む大学生・ニールくんが、ユニークなプロポーズをしました。彼は“愛しのレスリー・結婚しておくれ!!”という言葉を、回りくどい方法で伝えました。さていったい、何のゲームでプロポーズしたのでしょう?」という出題内容で、各解答者の書いた答えは以下の通りだった。
  • 結局、最初で最後のクイズダービー解答者席に座った徳光、および最後の最後まで珍解答を出していた井森は全敗という結果だった。巨泉は全問終了後、徳光に対して「僕が今幸せだと思ったのは、一度もここ(解答者席)に座ったことがないことだ」と、その直前にも徳光が「しかしあれですね、あそこにいますと、本当に考えがつかないですね」とそれぞれ述べ、井森に対しては最終問題でその解答を開ける前に「もし僕がこの番組もう一度やるならば、お前は絶対レギュラーだ!」と述べた。続いてはら・竹下の解答を開ける直前(このとき巨泉は「あとの2人は同じ」と発言)にも、巨泉は井森に対して「よっし、今度俺の英語の番組お前出してやるよ。お前英語出来るから」と発言しているが、この「英語の番組」とは当時巨泉が司会を務めていた『巨泉の使えない英語』(ABCテレビ制作・テレビ朝日系)のことである。

番組エピソード

  • ギャンブラーのエピソード
    • 1986年とんねるずがギャンブラーとして出場した時、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3,000点全部をはらたいらに賭けようとした。とんねるずははらの1問目の正答率の高さを見越してこの行動に出た。しかし結局司会の巨泉から「お前らふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ!外れたら無くなっちゃうから止めなさい!!」と怒鳴られてしまい、得点の全部3,000点を賭けることはできなかった[15]
    • 若山富三郎は出演した『妻たちの鹿鳴館』の告知も兼ねた関係で、1988年10月に共演の池内淳子と第661回のドラマ大会に出場した。若山は第1問目で、ゲスト解答者だったビートたけしに「たけし君にね、『3,000点』はダメか?」と持ち点全部を賭けようとした。だがこれも司会の巨泉から「3,000点はまずいですよ、無くなっちゃうじゃないですか。早く帰ろうと思ってるなぁ!」と呆れながら止められてしまった[16]
      • 尚、第1問で3,000点全部を賭けようとした出場者は、上記のとんねるずと若山の二組のみである。
    • レギュラー放送の最高獲得点数は第593回の819,000点。7問目終了時点で39,000点を持っていた古物商のチームが、最終問題で4倍のはらたいらではなく、敢えてゲスト解答者だった20倍の関根勤に全部賭けたところ、関根が正解したため(篠沢以外全員正解)、この得点となった。これには巨泉も「すんごい!これはもう問題ない新記録です!!819,000円!あ、違う?81,900円??ん!?はちじゅういちまんきゅうせんえん!! ちょっと待って下さい!と言うことは、ななじゅうきゅうまん…?711,000円??分かんない… 781,000円??何だかよく分かりませんけども…?もう、時間が無くなってしまいました、有難う御座いました!また来週!!」と、「TBSカンガルー募金」の寄付額を計算できなくなるほど動揺してしまい、他出場チームの賞金は発表できないまま終了した。翌週の放送の冒頭で、改めて巨泉から「719,000円を寄付」する旨が伝えられた[17]
      • 過去に20万点越え、30万点越え、あるいは40万点越えを達成するチームは年に数回出現していた。例えば、土井たか子の2回目出場時、黄色のチームが最終問題でそれまで7戦全勝の土井に全額賭け、土井の正解により得点が40万点を超えた[18]

復活特番

2000年12月30日放送

  • なお、単独提供ではなかったものの、ロート製薬も(この放送枠での)筆頭スポンサーとして名を連ねた。スタジオセットは1980年代の放送(2代目)のものが再現されたが、放送はTBSホールではなく、TBS放送センターのスタジオから行われた。また、この復活版から、倍率、得点表示がそれぞれ電球、フラップ式から赤の7セグ式に、答えを記入するための筆記具はマジックからライトペンに変更された。
解答者
1枠:篠沢秀夫(成績1勝7敗。倍率7・5・5・6・8・7・6・14)
2枠:久本雅美(成績5勝3敗。倍率656・7・3・42・18)
3枠:はらたいら(成績5勝3敗。倍率2・3・24・3・246
4枠:竹下景子(成績4勝4敗。倍率32・4・2・4・3・3・8)
5枠:石坂浩二(成績4勝4敗。倍率32・5・5・5・5・5・10)
出場者
赤チーム:ブロードキャスター福留功男三雲孝江)チーム<賞金獲得額98,000円>
黄チーム:渡る世間は鬼ばかり長山藍子えなりかずき)チーム<賞金獲得額0円>
緑チーム:さんまのスーパーからくりTV中村玉緒セイン・カミュ)チーム<賞金獲得額 2,400円>

2004年5月14日放送

  • 巨泉司会・小池出題者・篠沢・はら・竹下解答者の4年前と同じメンバーに、2枠には井森美幸が久々に出演し、5枠にはロンドンブーツ1号2号の田村淳を加えての構成となった。なお、従来の『クイズダービー』では全部で8出題だったが、このときは5問(一般2問、三択2問、歌詞1問)のみの出題という短縮バージョンで放映された。エンディングで巨泉が井森の珍解答に対して「全然お前30代に(当時井森は35歳)なっても変わってないな。オジサン(巨泉)はすごく安心した。良かった、良かった。」と呆れ返り会場全体が大爆笑になった。また、出演者全員に対して「私の喜寿記念にまたクイズダービーをやりましょう!」とコメントした。
解答者
1枠:篠沢秀夫(成績1勝4敗。倍率:8・4・8・5・14)
2枠:井森美幸(成績2勝3敗。倍率:5・5・65・12)
3枠:はらたいら(成績3勝2敗。倍率:2・3・2・3・4
4枠:竹下景子(成績5勝0敗。倍率:32426
5枠:田村淳(成績2勝3敗。倍率:7・55・4・18)
出場者
赤チーム:大和田獏秋山竜次ロバート)、山本博(ロバート)<賞金獲得額58,000円>
黄チーム:ラサール石井島崎和歌子<賞金獲得額0円>
緑チーム:田村亮ロンドンブーツ1号2号)、馬場裕之(ロバート)、安めぐみ<賞金獲得額0円>

クイズダービー2012

オープニングは『クイズダービー』で司会を務めた当時の巨泉のアップの映像と、上田のアップの映像を横に並べる趣向。なお、巨泉はスタッフロールの最初に「協力」扱いとして表示されたほか、VTRメッセージを通じて上田を激励した。また、複数社提供形式ながら、ロート製薬もスポンサーに名を連ねた。

基本ルールは『クイズダービー』時代とは変わらないものの、出場者を6つのチーム(後述)に分けたうえで、チームをごとの持ち点(スタートの点数)を10,000点に設定。得点を賭ける行為を「BET」と総称した。また、『クイズダービー』や過去の特別番組と異なり、最終得点が最も多かった「優勝チーム」のみに賞品としてお食事券が贈呈された。

視聴者も、下記の出演者と同じ条件で、携帯電話スマートフォンから当番組の特設サイトを通じてBETに参加できた(参加者の中から最終得点の上位10名に賞金5万円を進呈)。また、視聴者が放送中に特設の電話番号で応募する事を条件に、優勝チームを予想させるクイズも実施していた。

解答者
◎は『クイズダービー』時代のレギュラー解答者。
ダービー種別 1枠 2枠 3枠 4枠 5枠
レギュラーダービー 茂木健一郎 ローラ 東国原英夫 宮崎美子 ガッツ石松
成績(倍率) 2勝2敗(5,3,5,6 1勝3敗(8,5,7,20) 1勝3敗(3,2,2,6) 4勝0敗(2,3,3,8 0勝4敗(7,7,6,18)
子役ダービー 本田望結 秋元黎 相澤侑我 信太真妃 石井萌々果
成績(倍率) 0勝2敗(3,3) 0勝2敗(4,4) 1勝1敗(2,2) 1勝1敗(3,3) 2勝0敗(2,2
女芸人ダービー 黒沢かずこ森三中 大島美幸(森三中) 柳原可奈子 いとうあさこ 虻川美穂子北陽
成績(倍率) 0勝2敗(5,5) 1勝1敗(5,6 1勝1敗(3,4 1勝1敗(3,3) 0勝2敗(4,7)
大御所ダービー 丸山和也 斉藤慶子 渡辺正行 うつみ宮土理 錦野旦
成績(倍率) 1勝1敗(7,7) 1勝1敗(4,4 1勝1敗(2,3 0勝2敗(5,6) 0勝2敗(8,9)
出場者
2012年4-6月期のTBS系連続ドラマ5番組と、上田の相方・有田哲平が司会の『有田とマツコと男と女』による6チームで構成。
赤チーム:『ATARU』(北村一輝栗山千明玉森裕太千原せいじ光宗薫)<931000点>
青チーム:『ハンチョウ〜警視庁安積班〜』(佐々木蔵之介比嘉愛未小澤征悦福士誠治六平直政加藤夏希)<1084500点>
黄チーム:『放課後はミステリーとともに』(川口春奈速水もこみち入山法子高嶋政伸)<0点>
緑チーム:『パパドル!』(錦戸亮川島海荷佐藤二朗高畑淳子)<11000点>
桃チーム:『もう一度君に、プロポーズ』(真野響子山本裕典倉科カナ市川由衣)<1000点>
紫チーム:『有田とマツコと男と女』(有田、マツコ・デラックス)<500点>

番組内容

  • 『クイズダービー』のスタイルを踏襲した筆記解答式のクイズを、「レギュラー」・「子役」(番組後半は「女芸人」)・「大御所」の3チームが交代で解答。放送では、上記のチームに合わせて、「レギュラーダービー」「子役ダービー」「女芸人ダービー」「大御所ダービー」と称していた。
  • 司会者による解答者の倍率設定、「倍率ドン!」「さらに倍」などの決め言葉、シンキングタイム中の「草競馬」のBGM、最終問題を知らせるベルの音などは『クイズダービー』を踏襲する一方、テロップの表示、画面右隅での字幕表示、CMまたぎなど、現在のテレビでの主流になっている演出を随所で採用していた。なお、スタジオには、5人1組のゴンドラ型解答者席を観覧車状に設置。また、ダービーの区切りに応じて、解答者席を時計回りで前後に移動させることでチームを交代させていた。
  • ダービーの合間には、ボーナスチャレンジとして、各出場者チームの代表者1名が挑戦する特別企画「シークワーズの壁」を実施した。この企画では、挑戦者を立たせた状態で、ひらがな1字を入れたコマを4行×4列に並べた壁を解答者へ少しずつ接近。挑戦者には、あらかじめ伝えられた1つのテーマに沿って、壁の中に縦・横・斜めのいずれかの方向で隠されている2文字以上の単語を探させていた。制限時間以内に該当する単語を5語見付け出せば、「成功」とみなして挑戦者のチームに1万点を加算。見付け出せない場合には、制限時間に達した時点で、壁からの圧力によって挑戦者を発泡スチロールを敷き詰めた穴へ転落させるようになっていた。ただ、結果は6名全員が失敗で終わった。
  • ちなみにマツコデラックスはスタジオに遅刻しての参加となった。

関連書籍

  • クイズダービー
  • クイズダービーPART2
  • クイズダービー名門200 雑学決定版
  • クイズダービーベスト500(河出書房新社1987年)ISBN 4309900275
  • テレビじゃ見れないクイズダービー(河出書房新社1988年)ISBN 4309900429

ボードゲーム

タカラ(現・タカラトミー)により当番組のボードゲーム化が行われている。

  • クイズダービーゲーム
    • ゲームの形式は実際の番組と同じく、正解者を当てて賞金を増やしていくものであり、四択(A-D)の記入された回転ドラムのついた筐体と問題カードを使用する。筐体に問題カードを差し込むと正解の際の倍率が表示され、その倍率を元に払い戻しを行うが、ドラムに記入されたマークには偏りがあり、高い倍率のマークが出る可能性は低い。
  • スクールパンチ『クイズダービーゲーム』
    • 前述のポケットサイズ版。イラストで描かれた解答者の名前は「大学教授」「女優」「漫画家」「TV女優」「ゲスト」とされているが、4枠までは当時の出演者(篠沢秀夫、南田洋子、はらたいら、竹下景子)に、ゲストはさだまさしにそれぞれ顔が似ている。

スタッフ

レギュラー時代

  • 構成:菅谷健一
  • 出題:林利根男、毛利知於、前岡晋、雀部俊毅、八木伸栄、斉藤直人、中村三郎
    • 出題作家グループの愛称は「チャーリー」。これは篠沢秀夫の命名。
  • 音楽:たかしまあきひこボブ佐久間
    • ボブ佐久間作曲のテーマ曲・効果音は放送期間中一貫して変わらなかったが、(1981年以降は、たかしまがステレオ収録にアレンジしたものに変わっている。メインテーマ曲は、当初はシンセサイザーで演奏され、エンディングファンファーレのみオーケストラだったが、後にフルオーケストラ演奏に変更された。
  • 美術デザイン:山田満郎、浦上憲司
  • 美術制作:和田一郎
  • メカシステム:金野寿雄
  • タイトルロゴデザイン:山形憲一
  • ディレクター:副島恒次、山口安広、木崎武重、山崎玲、小畑光良、小玉滋彦、大沼眞理ほか
  • アシスタントプロデューサー : 山口安広
  • プロデューサー:居作昌果、副島恒次、山口安広、小畑光良
  • スーパーバイザー:大橋巨泉(第735回-最終回)

クイズダービー2012

  • ナレーター:加藤ルイ
  • 構成:渡辺健久
  • 作家:酒井健作、石津聡、海老根豊、江藤英明、鈴木功治、中村豪、布広太一
  • クイズ作成:日高大介、大石壮、舛舘康隆、横山龍太
  • 美術プロデューサー:山口智広
  • デザイン:太田卓志、桝本瑠璃
  • TM:荒木健一
  • 技術協力:4-LegsIMAGICA
  • 編成:高橋正尚、渡辺信也、坂田栄治
  • AP:荒井美妃、高柳奈緒子
  • ディレクター:徳舛充人、秋山将慶、白川誠
  • 演出:早川和孝
  • 監修:奥村達哉
  • プロデューサー:御法川隼斗、河本恭平、川嶋典子
  • チーフプロデューサー:合田隆信
  • 制作協力:D:COMPLEX

ネット局

※系列は放送当時のもの。

放送対象地域 放送局 系列 ネット形態 備考
関東広域圏 東京放送 TBS系列 制作局 現:TBSテレビ
北海道 北海道放送 同時ネット
青森県 青森テレビ
岩手県 岩手放送 現:IBC岩手放送
宮城県 東北放送
山形県 テレビユー山形 1989年10月開局から
福島県 福島テレビ フジテレビ系列 1983年9月24日打ち切り
1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局[20]
テレビユー福島 TBS系列 1983年12月10日から
山梨県 テレビ山梨
長野県 信越放送
新潟県 新潟放送
静岡県 静岡放送
中京広域圏 中部日本放送 現:CBCテレビ
富山県 チューリップテレビ 旧・テレビユー富山、1990年10月開局から
石川県 北陸放送
近畿広域圏 毎日放送
岡山県
岡山県・香川県
山陽放送 1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ
1983年4月の電波相互乗り入れに伴い香川県でも放送[21]
鳥取県
島根県
山陰放送
広島県 中国放送
愛媛県 伊予テレビ 現・あいテレビ、1992年10月開局から
高知県 テレビ高知
福岡県 RKB毎日放送
長崎県 長崎放送 同時ネット
→遅れネット
→同時ネット
熊本県 熊本放送 同時ネット
大分県 大分放送
宮崎県 宮崎放送
鹿児島県 南日本放送
沖縄県 琉球放送

ネット局に関する備考

  • この番組の系列外での放送は1983年4月から9月までの福島テレビのみであり、それ以外の系列外局の放送実績はない。
  • テレビ山口は、1972年1月から2009年3月までの当該枠は、クロスネット時代からフジテレビ系番組を放送していたため未放送だった(ただし、レギュラー時代での1時間のスペシャル版、2000年末と2004年の復活特番は放送された)。
  • 長崎放送では、1976年1月から3月までと1984年4月以降は同時ネットだったのに対し、1976年4月から1984年3月までの間は6日遅れの金曜19:00からの遅れネットで、期間中の当該枠は日本テレビ系列番組の同時ネット放送枠だった。

放送ライブラリーでの視聴

以下の放送回は放送ライブラリーで視聴可能である。15周年記念回はTBSチャンネルでは放送されていない。

放送日 放送回(サブタイトル) 司会 1枠解答者 2枠解答者 ゲスト解答者 放送ライブラリーによる解説ページへのリンク
1987年12月19日 #620 大橋巨泉 篠沢秀夫 山崎浩子 井森美幸 テンプレート:放送ライブラリー
1989年1月28日 #675 北野大 井森美幸 椎名桜子 テンプレート:放送ライブラリー
1991年1月5日 15周年記念(#769) 徳光和夫 橋田壽賀子 テンプレート:放送ライブラリー

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:前後番組 テンプレート:大橋巨泉 テンプレート:徳光和夫

テンプレート:くりぃむしちゅー
  1. クイズ・ゲーム高世帯視聴率番組|ビデオリサーチ
  2. 面白ゼミナールが42.2%を記録したのは1982年9月12日放送の事であり、それまではクイズダービーの40.8%が最高だった。
  3. 『東奥日報』2010年5月1日「大橋巨泉司会「クイズダービー」/「アドリブ命」で面白く/自身が飽きぬ番組目指す」
  4. 『東奥日報』2010年5月1日「大橋巨泉司会「クイズダービー」/「アドリブ命」で面白く/自身が飽きぬ番組目指す」
  5. 『朝日新聞』1992年12月21日夕刊「「クイズダービー」17年の歴史に幕」
  6. 1991年10月より開始した『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ、後に『平成教育委員会』に改題)に視聴者を奪われた事等が考えられる。
  7. 1時間を通してロート製薬の一社提供で放送された。製薬会社のレギュラー番組は、製薬会社の紳士協定により31分以上の単独提供はできない規則になっていたが、単発番組だけは例外だった。
  8. クイズダービー復活! 巨泉役にくりぃむ上田 サンケイスポーツ 2012年4月4日閲覧
  9. 最終問題ではらの倍率が「2倍」だったこともある。
  10. 2010年6月に「TBS未来への生命募金」へと組織変更された。
  11. 1989年6月から最終回までは、エンディングの提供アナウンスが「健やかな明日のために ロート製薬の提供でした。」に変更された。
  12. 『クイズダービーベスト500』における巨泉のはしがきに記載あり
  13. 過去7回ゲスト解答者として出演し、そのうち5回目と6回目の出演については、共に0勝8敗の全問不正解であった。
  14. 坂本に関しては2回目の1問目から3回目の7問目まで不正解だった。
  15. 1986年4月5日第532回放送
  16. 1988年10月8日第661回放送
  17. 1987年6月6日第593回放送
  18. 1987年9月12日第606回放送
  19. 1978年11月29日第31話放送
  20. 1983年4月からはフジテレビ系フルネット局にネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)したが、視聴者保護のため1983年4月から9月までの間も引き続き放送した。そのため、1983年10月1日~12月3日放送分は福島県では未放送だった。未放送期間中はTBS東北放送新潟放送で当番組が視聴可能だった。
  21. 香川県では電波相互乗り入れ以前から山陽放送で当番組が視聴可能だった。