中野浩一

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 自転車競技選手 中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。現在は公益財団法人日本自転車競技連盟副会長、公益財団法人JKA特別顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、スポーツコメンテーター・タレント(浅井企画所属)。

2006年春に競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章。 夫人は歌手の NAOMI(小久保尚美)。

世界選手権個人スプリント10連覇、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。

経歴

福岡県久留米市出身。

福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念[1]。高校卒業後、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていたが、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ、正味3ヶ月程度の練習の末、日本競輪学校第35期生試験に合格した[2]。なお、テレビ番組にて母も女子競輪選手であったと中野浩一本人が語っている。

1975年に日本競輪学校を卒業。在校競走成績および卒業記念レースではいずれも、松田隆文、中野、井狩吉雄の順だったことから、「35期の三羽烏」と謳われる。同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。またデビューから1年程度で、当時の最上位クラスであるA級1班(現在のS級1班に相当)に昇りつめたことで、当時のマスコミから、「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた。

しかし一方で、『宮城王国』『群馬王国』『三強時代』と続く東日本優位時代であり、1976年高松宮杯から参戦した特別競輪では苦戦が続き、さらに1977年世界チャンピオンの金看板を背負ってからは競輪選手の枠を超えたメディアでの活躍に〔倒しがいのある選手〕として対中野包囲網が自然に形成され、2対7の競走は当たり前で決勝進出もままならない状態に陥り、ベテラン記者もこんなことはかつてなかったと述懐した。その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、競輪祭での吉井秀仁の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った[3])だった。それもこれも中野の圧倒的な強さの成せる技で、中野を中心に輪界は盛り上がっていった。1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして1980年に、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成し話題となった。その後、1981年日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。

とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半〜80年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。よって、点と点の戦いでは中野に太刀打ちできないと考えられるようになり、最低2人から、多いときには4人以上で連携して戦う「ライン」と呼ばれる現在主流の戦法が生まれたきっかけを作ることになったが、それはあまりにも強い中野への対抗策に他ならなかった(フラワーライン滝澤正光山口国男の項を参照)。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワサイクルの特製専用車。

一方、1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。帰国前、本人としてはまずまずの成績だった程度にしか考えていなかったが、帰国後、3位に入った菅田順和ばかりに取材が集中したことに起因する屈辱感を痛感したことから、翌1977年の世界選手権の同種目では絶対に優勝すると意気込んで挑んだ。その結果、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成

しかしこの当時、1970年から1980年代のスプリント(スクラッチ)種目は、ソ連・東欧諸国の国家から報酬を受けて生活するアマチュア選手(いわゆる「ステート・アマ」)が圧倒的な強さを誇っていた時代であり、出場者がプロフェッショナルに限られ、ステート・アマとの対戦がないプロスプリント種目にはそれほどの価値はないとして疑問を呈されることがある(詳しくはルッツ・ヘスリッヒの項を参照)。ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界規模のスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者となった、

国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億2764万677円。

引退後

  • 競輪関係を中心に各方面で活躍中。

中でも、現役時代から出演していたアートネイチャーCMはあまりにも有名で、CM出演後も「カツラを公表した有名人」として知られるようになった。その関係から、一時は自転車のロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた。しかしアートネイチャーとの契約が切れたこともあり2005年に自毛植毛No,1のシェアを誇るアイランドタワークリニック[4]にて自毛植毛手術を受けた[5]。現在はカツラは使用していない。

  • 阪神・淡路大震災の直後、関西では通常番組の多くが休止される中で公共広告機構(現:ACジャパン)のCMが大量に流され、その中で中野と増田明美が共演した「浩一・明美のあき缶拾いジョギング」のCMが注目された。このCMの中で中野が発する「もぉー……!!」「ニッポン全国、ポイ捨て、禁止ィィー!!」という台詞部分は、当時ちょっとした流行語となった。またCMソングは夫人の NAOMI が歌っていた。
  • 競輪がオリンピック自転車競技の「ケイリン」として正式種目に採用された2000年のシドニーオリンピックでは、競技の解説を務めるかたわら、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。
  • 2006年春の紫綬褒章を、競輪選手として初めて受章。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。本人は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いでファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った。
  • JKA特別顧問という競輪関係者であり、レースの予想行為や車券の購入を行うことは競輪関係の諸規則上許されない立場にある。実際、TV中継やスポーツ新聞などでその日のレースに関する評論を行う時は、選手の調子や展開、技術論、選手心理などについて語るのみにとどめており、直接的な車券の買い目予想を行うことはない。現在、現役時の本拠地であった久留米競輪場では彼の功績を称え、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。
  • 2011年4月より、日本自転車競技連盟強化委員長に就任。2013年7月より、日本自転車競技連盟副会長[6]

競輪での主な獲得タイトルと記録

1976年
競輪祭(新人王)小倉競輪場
1977年
  • 賞金王(66,139,600円)
1978年
競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
  • 賞金王(82,385,200円)
1979年
オールスター競輪岸和田競輪場
  • 賞金王(92,186,200円)
1980年
オールスター競輪(いわき平競輪場
競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
  • 賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破)
1981年
日本選手権競輪千葉競輪場
競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
  • 賞金王(107,685,711円)
1983年
競輪祭競輪王戦(小倉競輪場)
  • 賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く)
1985年
1987年
競輪祭競輪王戦(小倉競輪場。同大会最多優勝記録(5回)達成)
1988年
全日本選抜競輪青森競輪場
オールスター競輪(岸和田競輪場)
1989年
全日本選抜競輪(前橋競輪場
  • 年間賞金王6回
  • 通算出走回数1236回中1着666回
  • 優勝回数 169

KEIRINグランプリ出場実績

50px世界自転車選手権

連覇への足跡

1976年

イタリアレッチェ大会のプロ・スクラッチ(現在はスプリント、以下スプリントと表記)種目に初参加。3位決定戦で菅田順和に敗れ4位(このときの3位決定戦において、1本目は先に中野が先取していたが、雨天のため2本目が中止となった。翌日に再度行われた同決定戦において、前日の成績はノーカウントとされたばかりか、結局菅田にストレート負けを喫した)。

1977年・V1

ベネズエラサン・クリストバル大会。3人マッチとなった一次予選を通過。準々決勝1本目では、相手選手の反則寸前の牽制を受けて失ったが、2、3本目を連取して準決勝に進出した。準決勝では2連覇中のジョン・ニコルソン(豪州)と対戦。ここでも1本目を失ったが、2、3本目をいずれも連取し、決勝に進出した。決勝は、準決勝でジョルダーノ・トゥッリーニ(イタリア)を破った菅田順和との日本人選手同士の対戦となったが、2日間にわたる戦い(1本目、中野が先取したあと雨天のため中止となり、2本目は翌日早朝開催。このときは前年と異なり、前日の成績が反映された。)で破り、1893年より開始された同大会史上初の日本人選手優勝者となった。

1978年・V2

西ドイツミュンヘン大会。決勝ではディーター・ベルクマン西ドイツ)と対戦。1本目を追い込んで制したものの、2本目はベルクマンに逃げ切りを許す。しかし先行策に出た3本目、途中でベルクマンを戦意喪失させる圧倒ぶりを見せ連覇達成。その後中野は、1982年の大会でヤーヴェ・カール(フランス)に1本目を取られるまで、全てストレート勝ちを収めていくことになる。

1979年・V3

オランダアムステルダム大会。ここでも決勝はディーター・ベルクマンとの対戦となったが、2-0 のストレート勝ちを収めて3連覇達成。そしてこの年を最後に、ベルクマンは現役を退いた。

1980年・V4

フランスブザンソン大会。予選でカポンチェッリ、準々決勝で堤昌彦を撃破。準決勝では、アマチュア時代、メキシコミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロンフランス)と対戦することになった。1、2本目ともに中野は逃げの策に出、これをモレロンが追う形となったが、モレロンはいずれも追い込み不発に終わり中野のストレート勝ち。決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。そして、この大会でモレロンを破ったことに対して敬意を表し、以後フランスでは「ムッシュ・ナカノ」と呼ばれるようになった。

1981年・V5

チェコスロバキアブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。そして、この年にプロ入りを果たしたばかりのゴードン・シングルトンカナダ)と決勝で対決することになったが、1本目を逃げ切って制し、2本目は2角付近より山おろしをかけたシングルトンを捲り切り、5連覇を達成した。

しかし、決勝で敗れたとはいえ、シングルトンは準々決勝で菅田順和、準決勝で高橋健二をいずれも力で圧倒しており、これからさらにキャリアを積めば、もっと強くなっていくであろうという考えが中野の中にあった。ひいては、翌年の大死闘の伏線となる。

また、この優勝が評価されて中野は競輪選手としては史上2人目の日本プロスポーツ大賞を受賞した。

死闘の末の6連覇達成

1982年・V6

イギリスレスター大会。先に行われたケイリンを制覇していたシングルトンは準決勝で亀川修一を圧倒するなど、予選道中完璧な内容で決勝進出。一方中野はこの年、競輪で落車が相次いだ[7]ことから不調が伝えられたが、準決勝のヤーベ・カール戦で先に一本先取され、連続連取記録は25でストップしてしまった。何とか2、3本目を取って決勝へと駒を進めたものの、決勝戦までの過程の内容は、断然シングルトンのほうが上回っていた。また、満場のスタンドはほとんど全てシングルトンを応援していたことから、決勝前にはシングルトン有利の下馬評が伝えられた。

1本目、逃げるシングルトンを中野は射程圏内に入れ、左右後方を振り返るほどの余裕をもってゴール前で完全にかわしに入ったが、かわし際にシングルトンと接触して双方転倒し、互いにゴールできなかったことからノーカウントの判定となった。ところで、中野が追い抜こうとした際、シングルトンが右ひじを出してきて進路を妨害されたとして日本選手団側は抗議に出たが却下された。そしてこのシングルトンの行為が2本目の伏線に繋がる。さらに中野だけは意識が朦朧としたままの状態がしばらく続いたという[8]

再戦1本目、ダッシュのタイミングが遅れた中野は直線手前で踏むのを諦めたことから、シングルトンが逃げ切る。そしてもう後がなくなった[9]

2本目、またしても逃げるシングルトンを追う形となった中野は2センターから遅めの捲りを敢行。そしてこの2本目においても中野のかわし際にシングルトンは右ひじを出してきたが、中野はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。この時点で中野がタイに持ち込んだ。

この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。中野は薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。

レース後、国際自転車競技連合 (UCI) はノーカウントとなった1本目ならびに2本目のシングルトンの中野に対する行為は悪質だとして、シングルトンを事実上の永久追放処分とすることに決した。UCI主管以外の大会には出場ができたが、当然、世界自転車選手権には出場できず、その後シングルトンは現役引退を余儀なくされた。

また、この年の優勝により、中野はジェフ・シェーレン(ベルギー)が1932年 - 1937年に記録した同種目の連覇に並び、翌年に新記録をかけることとなった。

従来記録を毎年更新

1983年・V7

スイスチューリッヒ大会。1回戦でティンスリー、準々決勝でライアンを破った中野は、準決勝でオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦。1本目は捲り、2本目は逃げ切って制し、連覇新記録をかけて決勝で、前年の準決勝で1本目を奪われているヤーベ・カール(フランス)と対戦することになった。しかし1、2本目とも、いずれも逃げ切り勝ちを収め7連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。

1984年・V8

スペインバルセロナ大会。6月に行われた高松宮杯競輪決勝で、山口健治に押圧されて落車し、鎖骨骨折で全治2ヶ月と診断された影響を受け、万全の体調とはいかなかったが、予選、準々決勝をいずれもストレート勝ち。準決勝は新顔のディーター・ギープケン(西ドイツ)との対戦となったが、1本目逃げ切り、2本目は追い込んで勝ち、決勝に進出した。決勝ではヤーベ・カールを下したオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦。1本目を捲りで仕留め、2本目は逃げ切って勝ち8連覇。ついにシェーレン、アントニオ・マスペス(イタリア)と並んでいた同種目最多優勝記録をも更新し、ギネスブックに登録されることになった。

また、公営競技の選手としては初めて、昭和天皇主催の秋の園遊会の招待も受けた。さらにこの年、日本競輪学校名誉教官の称号も与えられた。

1985年・V9

イタリアバッサノ大会。準決勝で、前年のロサンゼルスオリンピックのスプリントで4位に入り、プロ入り初年度のフィリップ・ヴェルネ(フランス)と対戦。1本目、逃げの策に出たがゴール直前、タイヤ差交わされ先取されてしまう。1982年決勝におけるシングルトン戦以来となる、後がない展開となったが、2本目は逃げ切り。3本目はバック付近でカマシに打って出たヴェルネに対し、直線半ばで抜き去り決勝進出を決めた。そして決勝では、松枝義幸をストレートで下して9連覇を達成した。

不死鳥のごとく蘇り、ついに10連覇達成

1986年・V10

そして10連覇目となる舞台は、アメリカコロラドスプリングス

しかし試練が待ち構えていた。

5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折(折れた骨の中にはに突き刺さっているものもあった)する大怪我に見舞われた。一時は全治3ヶ月と診断され、世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。

しかし、担当した寺門敬夫医師や山本トレーナーなどの尽力の甲斐もあって驚異的な回復力を見せ、ほぼ1ヶ月程度で競走可能な状態にまで持ち込み、当時世界自転車選手権の直前に行われていた、8月の全日本選抜競輪への出場を予定していた。だが、またしても久留米競輪場で行われていた、同大会へ向けての直前練習の際に転倒。大事にこそ至らなかったが同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないまま中野はコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。

しかし中野はこの年から採用された、対戦相手を決めるために行われる200メートルフライングタイムトライアルにおいて当時の同種目プロ世界新記録となる記録(10.57秒)をたたき出し、これまでの不安を一掃した。本戦1回戦では、ローリー・ベン(豪州)を圧倒。準々決勝のパトリック・ダ・ロシャ(フランス)戦では、観戦に招待した両親に向かって手を振る余裕ぶりを見せた。もちろん、ダ・ロシャ戦はストレート勝ち。準決勝のディーター・ギープケン戦もストレートで下し、決勝では、同じ日本の俵信之を下した松井英幸との対戦となった。1本目は追い込んで勝った中野だが、10連覇がかかった2本目は、バックから山降ろしをかけて松井を圧倒し、ついに10連覇達成。また、3位決定戦において俵信之がギープケンを下したことから、この年の同種目は日本勢のメダル独占となった。

大会終了後、中野はこの10連覇をもってスプリントから撤退すると表明。一部の外国記者から「引退か」と質問をかけられたが、中野は「スプリントにはもう出場しないが、今度はケイリンに出たい」と表明した。

そしてこの年、中野の大偉業を讃え、当時の中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。同じく内閣総理大臣顕彰の授与者として、アジア大会ハンマー投5連覇を果たした室伏重信アテネ五輪ハンマー投金メダリスト室伏広治の父)もいた。

1990年、前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。

1991年、ドイツシュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。

競走スタイル

以下は、2008年11月22日NHK衛星第一放送で放送されたスポーツ大陸の、「世界を変えた“浩一ダッシュ”~自転車 中野浩一~」を参考に記した。

  • 途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(浩一ダッシュとも言われた)。高橋健二浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が着いた」と評している。
  • 浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。
  • 競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで0発進と呼ばれ、長塚智広が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、吉岡稔真F1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、長塚智広は並のS1選手であり、吉岡稔真は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。
  • 中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。
  • 競輪競走1236走中9着は僅か4回で、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。

音楽作品

  • 「明日につっ走れ」
  • 花が散る前に
  • 愛のRhapsody(NAOMIとデュエット、1997年12月10日発売)

著書

ゲーム

出演番組

テレビ

ラジオ

テレビドラマ

  • 新春ドラマスペシャル / 女たちの森(フジテレビ)- 1987年1月1日

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エピソード

テンプレート:出典の明記 テンプレート:独自研究

競技に関すること

  • 現在、スプリント種目はスタンディング(途中で走行を止めて相手の出方を伺うプレー)についての規制が厳しくなったが、かつてのスプリント種目といえば、スタンディングは戦略上重要なプレーとして認識されていた。ところが、中野はそのスタンディングを嫌い、相手がスタンディングに持ち込もうとすると自ら前に出ていった。これは、中野自身がスタンディングを不得手としていたということもあったが、相手が前に出ようとしないとならば、自分から前に出て行って、最後は力で相手をねじ伏せればいいと考えていたこともあって、スタンディングそのものが必要でないと認識していた。すると、中野に倣って他選手も次第にスタンディングをしなくなった。中野が世界選を制する前までは、スプリントといえば、1回の勝負が決着するまでに30分近く掛かることがよくあったが、中野が連覇中の頃は、1回の勝負にかかる時間はわずか5分足らず程度になった。やがて上述の通り、スタンディングプレーそのものに規制が入るようになった。
  • 世界選手権10連覇達成については経歴でも述べられている通り、当時の世界選はプロとアマの間に垣根が設けられていたため、東欧勢不在に起因するところが大きいとして過小評価する自転車関係者は少なくない。そんな中、ツール・ド・フランス5回優勝のベルナール・イノーは、持ちタイムではルッツ・ヘスリッヒのほうが上かもしれないが、1対1の勝負では断然中野のほうが強いと述べた(自転車競技マガジン(発刊時期不詳)のインタービュー記事より)。その理由として、自転車競技は持ちタイムだけで勝てるものではなく、勝負に対する貪欲さが何よりも求められているからだとしている。ちなみに中野とイノーは誕生日が同じである。(歳はイノーがひとつ上)
  • 世界選連覇中の時代に、スプリントで他選手が中野を破った事例(3本勝負において1本目ないし2本目を取ったというケースを除く)として、1978年グランプリ・ド・パリ決勝における、ルッツ・ヘスリッヒ(1位)、エマヌエル・ラーシュ(2位)があるが、このときは1本勝負の3人マッチとして行われた。なお、同レースの1対1で対戦した予選では、中野はヘスリッヒ及びラーシュに勝っている。この他、エキシビションマッチではあるが、1979年西宮競輪場で開催された全日本プロ選手権自転車競技大会(全プロ大会)でアントン・トカシュが、同じく全プロ大会において、1984年向日町競輪場中武克雄(当時、島野工業所属)が破ったケースがある(トカシュ、中武のケースは共に、1本勝負)。また、破った選手はいずれもアマチュアの選手であったことから、こうした事例につき、スプリント種目においては当時、アマのほうがプロよりもレベルが高かったという見方をする人もいるが、グランプリ・ド・パリ以外のレースは非公式であり、その見方については疑問視される点も多い[10]
  • 世界選手権の参戦理由を中野は、「(競輪で)勝ち続けてもなにか釈然としない…。競輪選手は競馬の馬のようにしか、思われていない。どんなに厳しい練習を積んで勝ち続けても、人間としての賞賛とは無縁だった。ぼくは選手になってから、職業欄に競輪選手と書いていたが、父の頃は堂々と競輪選手と言えなかった部分もあって、競輪選手と書かなかった。どうすればスポーツ選手として認めてもらえるのか?」と考えていた矢先、競輪選手の社会的地位を上げたいと考えていた競輪界が世界選手権に参戦を決めたので、「自転車競技で世界一になると決心した」という。
  • 高松宮杯(現 高松宮記念杯競輪)だけ制することができず、グランドスラムを果たすことができなかったが、同大会では通算32勝を挙げており、内5回、完全優勝に王手をかけている。つまり、特別競輪における通算勝利数から見れば、5回の優勝を果たした競輪祭と同じくらい相性がよかったとも取れる。しかし、高松宮杯は『東西対抗形式』を取っているため、予選道中においては、フラワーラインをはじめとする東日本勢との対戦がなかった。結果的にこれが災いし、決勝戦になると、東日本勢が極度に中野を警戒したこともあって、一度も優勝することができなかった。
  • 『強くなるためにはどうしたらいいか』と聞かれた場合には決まって、「絶対に9着を取らないこと」だと述べている。つまり、上位着順に入れないと分かっている展開であっても、絶対にビリ(9着)を取らないようにしっかりと走れ、という意味でもある。上述にある通り、中野は競輪選手生活17年間で、9着はわずか4回(落車再乗9着を除く)しか経験していないが、最初に9着を経験したのは1986年の競輪祭決勝戦。つまりデビューから約11年間、一度も9着を取ったことがなかった。

タレント性に関すること

  • 「出演依頼されたのならば競走に支障がない限り出演したい」と明言し、競走の合間を縫って、競輪におよそ関係のないテレビ・ラジオ番組にも多数出演した。ひいては、今では珍しくなくなった、現役スポーツ選手兼タレントのパイオニアといってもいい存在でもある。また歌番組やクイズ番組においては、ただ出演するだけでなく、それなりの結果を残さなければならないとも考えていた。その一例が、1983年の年末に、角界の関取衆も交えたスポーツ選手が一堂に会して歌で覇を競った番組がテレビ朝日で放送されたが、西城秀樹ギャランドゥを歌唱して優勝[11]したことに現れている。
  • 最低限、記念の優勝と特別競輪(現在のGI)の決勝進出を果たすことに主眼に置いていた。その理由は、記念では、中野が優勝するのは当たり前だと思われていたこと、また後者の理由は、当時、特別競輪の決勝戦は、必ずテレビ中継されていた(現役当時、SPEEDチャンネルはまだ開局されていなかった)ことに起因する。なお現役時代、現在とは異なり、前後節3日間制だったとはいえ、116回の記念制覇を果たした。記念競輪優勝回数としては、今でも歴代最多記録である。
  • 1990年の前橋の世界選手権では、自身がケイリンに出場することになっていたにもかかわらず、ケイリン以外の種目について、NHKテレビ中継の解説を行った。尚、競輪中継では出場する全ての選手に君づけをする。
  • オールスター競輪ファン投票第1位回数13回は歴代最多。また、1981年から1991年まで11年連続で同第1位となっている。

目標としていた「ライバル」たち

中野の強さの秘訣は、常に当面のライバルに立ち向かう姿勢にあったといえる。それは競輪選手や自転車競技選手だけに限らない。以下、いくつかの例を挙げる。

競輪におけるライバル

  • デビュー当時、競輪学校時代にどうしてもその壁を越えることができなかった松田隆文を倒すことを主眼に置き、松田よりも先にA級特進を果たした他、1976年の新人王戦決勝でも、じかマークの松田を全く寄せ付けず優勝し、完全に松田との決着を付けた。
  • 1976年、世界選手権初参加でプロスプリント4位となったが、帰国後の記者会見の席で、3位となった菅田順和にばかりに質問が行き、4位の自分は全く注目すらされなかったことが悔しく、ならば翌1977年の世界選手権では、同大会日本人初の金メダルを持ち帰ってくると決意し、決勝で菅田を破って成就させた。しかし後述の通り、世界選手権で優勝を果たしても、中野の心は晴れなかった。もっとも、中野と菅田はレースを離れれば大変仲がよかった。
  • 阿部良二岩崎誠一の2人が、丁度タイトルを奪取ないし量産体勢に入ろうとしたときに中野が新人として出現したこともあってか、2人の対中野に対するライバル心には相当なものがあった。経歴で述べられている、1977年の高松宮杯における岩崎の中野への過剰けん制については、中野よりも先に俺がタイトルを取る、という意味合いが強く現れている。
  • 1978年当時、『過去の人』と言われるほどまでに落ちぶれてしまった福島正幸が、どうしても中野を破ってタイトルを取りたいと願って復調を果たし、同年のオールスター決勝で中野と対戦した際には、自分の思い描いていた通りの展開に持ち込み、かつ中野に先着を果たしながらも、天野康博に優勝をさらわれたことで、自身の時代の終焉、そして中野時代の到来を強く感じたという。
  • 井上茂徳は、成績の上では、中野にとって最大のライバルであり、加えて井上は中野後位から実に7回もKEIRINグランプリ、特別競輪(現在のGI)を制したことで、中野ファンからすれば、『最大のヒール役』であったが、一方で井上は、中野後位からタイトルを奪取した時には、中野に遠慮する形で、一度もガッツポーズを見せなかった。また中野も、悔しさをこらえながらも、「シゲ(井上の愛称)に差されたのならば仕方ない。」といったコメントを発する機会が多かったことから、当時の競輪マスコミは、中野と井上のことを、『ゴールデンコンビ』と謳った。しかし、そうした関係も吉岡稔真が出現すると崩壊の危機に立たされるようになる(後述)。
  • フラワーラインは、中野最大のライバルであったが、その中で、吉井秀仁については、1979年の競輪祭で優勝をさらわれて以降、1980年半ば頃まで全く勝てなくなり、「(吉井の)顔を見るのもイヤ」と、露骨に嫌がるようになった。しかし、前述の世界選手権でモレロンを力でねじ伏せて勝って4連覇を達成したことで再度、力勝負で挑めば吉井を倒せると思い立つようになり、同年のオールスター競輪以降、吉井はおろか、フラワーラインの抵抗をものともせず、翌1981年日本選手権競輪まで、特別競輪(現在のGI)3連覇の偉業を達成した。
  • 『ウルフ』といわれた広島の木村一利はとりわけ、中野を中心とする九州軍団と全くそりが合わず、西日本でまとまって戦ったほうがいいと思われたメンバー構成であっても、必ず別線で戦った。
  • 現役時代、「(一周400mバンクにおいて)一周程度しか逃げ切れない選手ならば絶対に捲れる。しかし、一周半逃げ切れる力のある選手には正直怖さを感じる。」と述べていたが、実際にはそうした選手は現れないだろうと考えていた。ところが、滝澤正光が一周半を逃げ切って勝つケースが多くなり、かつタイトルホルダーに君臨するや、中野はことごとく滝澤に敗退を喫するようになった。ひいては後に、「滝澤を破るには、力のぶつかり合いを演じたのでは勝てない。頭脳戦で勝つしかない。」と考えるようになり、1985年、1986年のKEIRINグランプリでは、井上茂徳、佐々木昭彦との絶妙なコンビネーションを駆使して滝澤を着外へと追い込み、1985年には自身が、また1986年には井上がグランプリを制した。
  • しかし、1987年以降、滝澤は本格化し、1988年までは頭脳戦を呈しても滝澤にはなかなか勝てなかった。そこで中野は、当時新人ながらも、滝澤に力で抵抗できる選手と目されるようになった坂本勉に目をつけ、名目上は『自身の後継者』として坂本とラインを組む機会を設け、度々滝澤討ちを果たすことになった。1988年の全日本選抜競輪オールスター競輪では坂本マークから優勝を果たし、また1989年のオールスター競輪では坂本後位をめぐって競り合いが展開されるも死守し、結果的に坂本の初タイトルに貢献する形となった。
  • 滝澤と同じく分が悪かった相手として、清嶋彰一が挙げられる。タイトルを奪取するまでの清嶋は『先行マニア』的な側面があり、中野はそれを利用して、清嶋と対戦とすると清嶋の逃げを利して番手捲りを放って勝つケースが少なくなかった。ところが、中野に毎度のように利用されることが悔しいと感じた清嶋は、中野に番手捲りさせないためには、滝澤同様、最低でも一周半逃げ切る力を蓄えねばならないと感じ、1985年の日本選手権競輪を優勝する直前より、中野を力でねじ伏せることができるようになった。加えてこの頃、中野に往時のパワーが見られなくなるようになったことから、「中野の力にかげり」と論じた競輪マスコミも少なくなかった。だが、滝澤同様清嶋についても、力勝負に持ち込まれると分が悪いが、頭脳戦に持ち込めば勝つチャンスはあると考えを改めるようになると、清嶋を破るようになり、一頃の脅威は払拭された。
  • 1990年にデビューした吉岡稔真が出現したとき、当時競輪マスコミは、「中野にとって願ってもない選手が現れた!」といった論調を書きたてたが、1991年ふるさとダービーで井上茂徳と吉岡後位を巡って競り合いを演じた時点で、そうした論調に疑問が呈されたばかりか、以後、中野は不振に陥ったため、同年のKEIRINグランプリにも出場することができなかった。吉岡の出現が、中野引退の布石となってしまった。
  • 当初は自身の最大の後継者と考えていた吉岡のあまりの強さに、中野は吉岡に対してライバル心をむき出しにし、吉岡を倒してもう一度タイトルを奪取したいと考えるようになった。しかし、1992年国際競輪グランプリ寛仁親王牌(当時は非特別競輪扱い)で4戦連続吉岡にじかマークしながらも、吉岡についていくのが精一杯で、いずれも2着に終わったことから、この時点で引退を考えるようになった。同年の高松宮杯では、吉岡を破ってタイトルを奪取する最後のチャンスと思って出場したが、西王座戦で吉岡は敗退。吉岡不在となった同年6月4日の決勝戦では、往時を彷彿させる2センター捲りを敢行して滝澤正光に迫るも、わずかに及ばず2着。翌6月5日、NHK朝7時のニュースで引退が報じられた。そして後日引退記者会見を行い、17年間の競走生活にピリオドを打った。

世界選手権におけるライバル

  • 事実上、世界選手権において最初に出現した最大のライバルはディーター・ベルクマンだった。ベルクマンは1978年の世界選手権決勝で2本目を奪っている。
  • 選手生活の中で、一番勝ちたかった相手はダニエル・モレロンだったと、サイクルにっぽんなどの競輪情報テレビ番組で言明している。モレロンは、臨時コーチとしてしばし来日した際、スプリントのイロハを中野に伝授しており、中野にとって、実質的に師匠のような存在でもあった。1980年にモレロンがプロ選手として現役復帰し、世界選の準決勝で対戦することになったが、後日、「一度現役を退いた選手に絶対に勝たせてはならない。完膚なきまでに打ちのめす。」という気持ちを持って挑んだことを述懐した中野は、小細工抜きに、1、2本目と、いずれも先行策に打って出たところ、モレロンは中野に全く歯が立たず、ストレート負けを喫し完敗。大会終了後、「中野に教えることはもう何もない。」という言葉を残し、現役を引退した。そして、モレロンを破ったことにより、フランス人は「ムッシュ・ナカノ」と称して、中野に多大な敬意を払うようになった。
  • モレロンはコーチ専任となってからも、ヤーヴェ・カールフィリップ・ヴェルネといった自身の「教え子」たちを、中野の『刺客』として挑ませ、自身が果たせなかった中野討ちを彼らに託したが、中野はことごとくこれらを跳ね返した。
  • モレロン引退後の宿命のライバルといえば、ゴードン・シングルトンであったが、死闘を演じて6連覇を達成した1982年の世界選のときよりも、決勝でストレート勝ちを収めて5連覇を達成した1981年のときのほうがシングルトンは強かったと、6連覇達成後の記者会見で言明し、報道陣をびっくりさせた。その理由として、「去年(1981年)は、力で自分(中野本人)を倒しにいっていたことを感じたから、正直、勝つのに苦労した。しかし今年(1982年)は、自分を倒したいというよりも、世界選で勝ちたいという姿勢がありありと見えた。確かに内容的には今年のほうが苦戦したように見えるが、仮に3本目を対戦することになったとしても、絶対に負けないという自信があった。」と述べている。

その他の「ライバル」

  • 中野が世界選手権で初優勝した同日に、王貞治ホームラン世界記録に並ぶ755本目を打ち、翌日のスポーツ紙の一面は王の記事ばかりで、中野の快挙はほんの小さな扱いだった。翌年の世界選手権で中野は連覇を達成したが、帰国した日の一面は、またしても王の800号が扱われ、世間の注目を集められなかった。したがって当時、王に対するライバル心は並々ならぬものがあった[12]。その時、中野は「世界選手権で連覇し続けようになった」という。
  • また獲得賞金面においても王に並々ならぬライバル心を抱いていた。当時日本プロスポーツ界で最も稼いでいたとされる(CM出演料等を除く正味の稼ぎ)、王の推定年俸が最高でも8000万円ほどだったが、「王さんより先に自分が日本で初めて1億円の賞金を稼ぐ選手となる。」と明言し、1980年に成就させた。
  • 加えて世界選手権の10連覇に拘る姿勢を見せたのは、王が当時在籍していた巨人軍の日本一連覇記録が9だったので、何とかその記録を一つでも上回りたいという一心にある。また、山下泰裕が記録していた全日本柔道選手権の9連覇についても強く意識していた。

その他のエピソード

  • 人前で涙をほとんど見せたことがなかったが、世界選手権で10連覇したときと、引退記者会見のときにはうれし涙を浮かべた。引退記者会見の際には、「今日が一番うれしい。世界選手権で初めて優勝したときは数名程度にすぎなかったのに、今日、こんなに大勢の記者の人たち(およそ250名ほどいた[13])が来てくれるとは思わなかったから。」と述べた。
  • 1984年の昭和天皇主催の秋の園遊会で、天皇から、「どうですか?プロの、競輪選手は?」と尋ねられ、当時28歳であったが、「ええ、自分でも頑張っているつもりなんですが、だんだん年取りまして、最近はよくないです。」という返答をした。
  • プロポーズの言葉は「パンツ洗ってください」[14]
  • 2008年8月8日、NHKラジオ北京オリンピック開会式中継にゲスト出演した際、高所恐怖症であることを増田明美に再三突っ込まれた[15]
  • 北京オリンピック・ケイリン決勝では、残りあと1周付近より中山貴雄アナの実況を遮り、「永井、詰めろ!」、「永井行け!」等と再三再四絶叫。しかしその後、スポーツ新聞等に、「(興奮した自分が恥ずかしくて)決勝のときの実況中継は二度と見たくない。」と述べた[16]
  • 現在、同姓同名の現役競輪選手(福岡47期・選手登録番号10234)が存在し、しかもホームバンクも同じく久留米競輪場。その選手のニックネームは「にせもん」[17]とのこと。
  • 黄金井光良が、41歳の年齢で迎えた1976年の立川競輪場のレースで、当時A級5班[18]だった中野が単騎であったことからそのマークについたところ、勝負どころで中野の踏み出しに全くついていけず、その後ズルズルと後退してしまった。当時黄金井はA級1班[19]だったが、このレースを境に自分はもう、トップクラスの選手としてやっていくのはムリだと感じたという[20]
  • 10枚所持していたマイヨ・アルカンシエルを一部知人に譲ったりしたため、現在は手元にほとんど残っていないらしい(本人談)[21]
  • 現役の競輪選手として、日本競輪学校で最初に練習を行ったのは、久保千代志と中野である[22]
  • 松本整は、自ら懇願して中野と一緒に練習するようになったことを契機に、中野を自身の師匠のような存在として捉え、自身の引退のことについても、身内以外では、中野だけにしか事前に話していなかったことを告白している[23]
  • 「ミスター・赤ヘル」こと、山本浩二と親交が長い[24]
  • 田村亮子福岡国際女子柔道選手権大会48kg以下級で11連覇を達成した後のインタビューで、「勝てば中野さんの記録を上回れるから達成したかった」と言っており、中野の世界選10連覇の記録を意識していたことを明らかにしている。
  • 1985年オールスター競輪では、全ての競走において、マイヨ・アルカンシエルを着用して出走した。また、同年の競輪祭初戦でも同様に着用して出走した。

関連項目

脚注

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参考文献

外部リンク

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  1. テンプレート:Cite web
  2. テレビ朝日で2007年7月15日に放送されたおかえり!での本人証言より。
  3. 月刊競輪2004年8月号 「今だから言えることVol.4 吉井秀仁」
  4. [1]
  5. 中野浩一の"自分の髪"体験記
  6. http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013070200989
  7. 過去91~105 我が中野浩一
  8. 当時発行されていた自転車競技マガジンの中野浩一V10物語によると、帯同していたメカニシャンの長澤義明(中野が使用していた自転車のビルダーでもある)が、「しっかりしろ!まだ負けたわけではあるまい!」と鼓舞しつつ、朦朧としている中野にビンタを見舞い、それで漸く中野の意識が少しずつ回復したと述べられている
  9. この再戦1本目について、中野はレース内容すら全く覚えていないということを、後にミラクルCなどのテレビ番組で言明している
  10. 正規のルールに即せばトカシュの走法は反則に抵触するようなものであった(当時の月刊サイクルスポーツ誌にも「トカシュの内線突破にも中野抗議せず」とある)
  11. 優勝賞金は100万円だった。
  12. 参考文献:中野浩一の心はいつもブッチギリ(KKベストセラーズ)
  13. 週間レース1992年7月5日号より
  14. 1986年の婚約記者会見上での話
  15. オンエア中のやりとりの中での話
  16. 一例として、2008年に行われたふるさとダービー福井決勝戦中継において同様の話をしていた。
  17. 選手プロフィール
  18. 当時の競輪の選手ランク付けは、A級5班、B級2班制となっていた。
  19. 競輪選手全体で120名しかいなかった
  20. 2000年3月1日付東京新聞
  21. 世界選手権トークショー@NHK - Honk de Bonk 2010年5月1日付記事
  22. 今だからいえること Vol.1
  23. 「伝説」競輪界の鉄人・松本整 - 日刊スポーツ(大阪版)2008年10月15日~10月18日、10月21日~10月25日
  24. 【172】~【181】我が中野浩一 の【178】