日本選手権競輪
テンプレート:自転車レース 日本選手権競輪(にほんせんしゅけんけいりん・にっぽんせんしゅけんけいりん)は毎年3月中旬から下旬頃の6日間に渡って開かれる競輪のGI競走である。
正賞は内閣総理大臣賞、衆議院議長賞、経済産業大臣賞、主催者市長賞、主催者市議会議長賞、全国競輪施行者協議会会長賞、JKA会長賞、自転車競技会全国協議会会長賞、日本競輪選手会理事長賞、全国競輪場施設協会会長賞、日本自転車競技会会長賞。
概要
競輪のグレード制導入によりKEIRINグランプリは企画物として別格・最上位(GP)とされたため本競走はそれに次ぐGIレースの一つとされた。
しかし、GPの格はグランプリのみであり、事実上他のGIが最も権威の高い重賞であるのと、正賞として授与される内閣総理大臣賞及びその他の各賞・名誉において競輪競技で最高の格式を誇るレース(事実上春の競輪実力日本一決定戦)である。競馬で最高の競走であるダービーになぞらえ、『競輪ダービー』の通称で古くから呼ばれ、親しまれている。
優勝賞金は第59回大会(2006年)より6,600万円(副賞込み[1])であったが、第65回大会(2012年)では東日本大震災を受けての被災地支援競輪において収益拠出額を増加させる方針から6,400万円(副賞込み)へと減額された。また、第66回大会(2013年)からは6,000万円(副賞込み)となっている。ただそれでもGIレースの中では最高額となっている。
また、GIレースの殆どが4 - 5日間開催に短縮された中で、この日本選手権競輪(以下ダービー)だけは唯一6日間で開催され続けている。開催時期は、2008年までは3月の中旬から下旬にかけて開催されていたが、2009年より2012年までは2 - 3週間くり挙げられ3月上旬の開催であった。しかし2013年からは全日本選抜競輪が2月に開催されることもあって、再び3月中旬から下旬の日程に戻った。
歴史
第1回は1949年に大阪住之江競輪場(現在の住之江公園)で「全国争覇競輪(ぜんこくそうはけいりん)」と題して(当初第7回までは春秋の年2回)開催された。全国争覇戦時代は女子の部や実用車・軽快車(何れも一般の自転車)を使ったレースも実施された。この「全国争覇競輪」の名称は第16回(1963年)まで採用され、第17回(1964年)から現在の名称となった。
第21回(1968年)までは12車立てでレースを開催した後楽園競輪場の名物レースとして親しまれたが、それまで後楽園競輪場の固定開催であったため、同場の休止が決定されると、全国各競輪場持ち回りという形で開催されるようになった。ただ、近年は静岡・松戸・立川・平塚など南関東の競輪場で持ち回りしていることが多い。
第27回(1974年)からは、一次予選特別選抜競走の出場選手27名を「全国から選抜された選手が実力で最高の地位を争う」といった観点から、予め選手選考委員会において選定された選手135名により、開催直前の1月~2月にかけて開催する「ダービートライアル」(3日間×3会場)で決定していた。
第29回(1976年)からは、原則として選考委員会より選定された選手によりトライアルレースを実施して全出場選手を決定する方式となった(3日間×2会場)。ただ早い段階でポイントを稼いで後半は欠場する、または半ば無気力に走る選手も現れたりするなどして弊害も多かったため、第48回(1995年)を以って廃止された。
第49回(1996年)からは前年の平均競走得点上位選手から順次選抜する方式となり、第51回(1998年)からは、前年における特別競輪等選手選考評価点の上位選手から順次選抜する方式となった。
第55回(2002年)では、番組改革に合わせて、敗者復活戦が第38回(1985年)以来17年ぶりに復活し、準決勝4個レース(各レース1・2着のみ勝ち上がり)+二次予選特別選抜競走(ゴールデンレーサー賞)1着選手(このときは濱口高彰)の9名により決勝戦が行われた。[2]
しかし翌年の第56回(2003年)からは通常の準決勝3個レース(各レース1~3着のみ勝ち上がり)の9名に戻されて現在に至っている。
出場選手選抜方法
日本選手権競輪の出場選手は、競輪選手の証である賞金獲得額によって選抜される。毎回若干変更・修正されるものの、概ね以下の資格順位により正選手162名、補欠選手8名を選抜する。
- 選考期間…前年1月~12月(12ヶ月)、選考月…1月、最低出走回数…48出走
- S級S班在籍者
- 過去3回以上優勝した者(開催時S級1班所属が条件)
- 賞金獲得額上位者より順次選抜する
なお、補欠選手は正選手を除く、賞金獲得額上位者からさらに順次選抜される。
また、正選手のうち、S級S班在籍者と賞金獲得額上位者の合計27名については、特別選抜予選競走に出走できる。
勝ち上がり方式
6日間とも11レース行われていたが、2014年から5日目のみ12レース行われることになった。
- 初日・2日目
- 「一次予選」 合計15レース行われ、各レース1〜3着45名が「二次予選」進出。
- 「特別選抜予選」 合計3レース行われ、各レース1〜3着9名は無条件で、4日目の「ゴールデンレーサー賞」と5日目の「準決勝」進出権利が同時に得られる。4〜9着18名は「二次予選」進出。
- 3日目・4日目
- 「二次予選」 合計7レース行われ、各レース1〜2着14名と3着7名のうち一走目の着順上位(特別選抜予選回りが優先)4名が「準決勝」進出。
- 「ゴールデンレーサー賞」 二次特別選抜予選として、4日目の最終レースに行われる。失格しない限り9名全員が「準決勝」進出。
- 5日目
- 「ガールズケイリンコレクション」(2014年より開催) 「準決勝」前に行われる、女子選手による一発勝負。
- 「準決勝」 後半3レース。各レース1〜3着9名が「決勝」進出。
- 6日目(最終日)
- 「決勝」 最終レース。上位3着は表彰式で表彰台に上がることができる。また、優勝者には優勝インタビューやウイニングランなどが執り行われる。
- 「順位決定」 「決勝」の一つ前のレース。「準決勝」各レース4〜6着9名により行われる。
- 「優秀」 「順位決定」の一つ前と二つ前のレース。「準決勝」各レース7〜9着9名と、二次予選敗退選手による「特選(1)」各レース1〜2着6名及び「特選(2)」各レース1着3名により行われる。
その他、2日目以降に予選敗退者を対象とした以下の競走が開催される。
- 2日目…「一般(1)」
- 3日目…「一般(1)」、「選抜」
- 4日目…「一般(2)」、「特一般」、「選抜(1)」
- 5日目…「一般(2)」、「一般(1)」、「特選(2)」、「特選(1)」
- 6日目(最終日)…「選抜」、「特選(2)」、「特選(1)」
途中帰郷
本大会では斡旋される正選手の数が4日制GIの1.5倍と多い割に一日ごとの競走に対するの出走可能選手が少ないため、4〜5日目の「一般(2)」または5日目の「一般(1)」を走った者は最終日を待たずに(失格はなくても)途中帰郷(「お帰り」)させられる[3]。なお二次予選に進出した者は決勝に進めなくても失格にならない限り、「順位決定」レースや「優秀」レースなど、最終日の出走が保障される。
他のGI競走ではお帰り対象者は傷病理由の途中欠場がなかった場合でも多くて9人止まりだが、本大会の場合は最大で63人がお帰りの通告を受ける可能性があり[4]、他の競走と比べて実に7倍に達する。早い選手では3日目の午後に斡旋契約解除の通知を受けることもあり、最終日のレース前には数十人が既に開催競輪場を離れ、帰郷の途についていることになる。
ただし、負傷や病気などにより途中欠場が多数発生した場合は補充選手を一切充当せず、代わりに途中帰郷の選手が帰郷せずに出走することによって欠場を埋める形となる。これは「GI最高峰の開催である日本選手権競輪に出走できるのは、選考によって選抜された選手のみにすべき」という思想を制度に反映したもので、現在この形式が取られる開催は日本選手権競輪だけとなっている。
過去の優勝者
回 | 開催日 | 開催場 | 優勝者 | GDR賞勝者 |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1949年6月11日 6月12日 |
大阪住之江競輪場 | 横田隆雄 横田隆雄 | |
第2回 | 1949年10月23日 10月24日 |
川崎競輪場 | 横田隆雄 小林源吉 | |
第3回 | 1950年5月9日 | 名古屋競輪場 | 宮本義春 | |
第4回 | 1951年5月6日 | 後楽園競輪場 | 山本清治 | |
第5回 | 1951年10月5日 | 大阪中央競輪場 | 高倉登 | |
第6回 | 1952年5月6日 | 川崎競輪場 | ||
第7回 | 1952年11月3日 | 後楽園競輪場 | 宮本義春 | |
第8回 | 1953年11月3日 | 大阪中央競輪場 | 中井光雄 | |
第9回 | 1954年11月3日 | 川崎競輪場 | 松本勝明 | |
第10回 | 1955年11月3日 | 大阪中央競輪場 | ||
第11回 | 1956年11月3日 | 後楽園競輪場 | 坂本昌仁 | |
第12回 | 1957年11月3日 | 佐藤喜知夫 | ||
第13回 | 1958年11月4日 | 吉田実 | ||
第14回 | 1959年11月2日 | 石田雄彦 | ||
第15回 | 1960年11月3日 | 吉田実 | ||
第16回 | 1963年3月25日 | 一宮競輪場 | 西地清一 | |
第17回 | 1964年2月13日 | 後楽園競輪場 | 笹田伸二 | |
第18回 | 1964年11月10日 | 石田雄彦 | ||
第19回 | 1965年11月3日 | 笹田伸二 | ||
第20回 | 1966年11月1日 | 宮路雄資 | ||
第21回 | 1967年11月1日 | 平間誠記 | ||
第22回 | 1968年11月5日 | 吉川多喜夫 | ||
第23回 | 1970年2月16日 | 一宮競輪場 | 工藤元司郎 | |
第24回 | 1970年11月6日 | 岸和田競輪場 | 荒川秀之助 | |
第25回 | 1972年3月7日 | 千葉競輪場 | 河内剛 | |
第26回 | 1973年3月20日 | 西武園競輪場 | 阿部道 | |
第27回 | 1974年2月19日 | 田中博 | 福島正幸 | |
第28回 | 1975年3月25日 | 千葉競輪場 | 高橋健二 | 伊藤繁 |
第29回 | 1976年4月3日 | 新井正昭 | 藤巻清志 | |
第30回 | 1977年3月29日 | 一宮競輪場 | 小池和博 | 中野浩一 |
第31回 | 1978年3月28日 | いわき平競輪場 | 藤巻清志 | 福島正幸 |
第32回 | 1979年3月26日 | 立川競輪場 | 山口健治 | 国持一洋 |
第33回 | 1980年3月26日 | 前橋競輪場 | 吉井秀仁 | 吉井秀仁 |
第34回 | 1981年3月24日 | 千葉競輪場 | 中野浩一 | 国持一洋 |
第35回 | 1982年3月23日 | 大垣競輪場 | 中里光典 | 井上茂徳 |
第36回 | 1983年3月22日 | 前橋競輪場 | 井上茂徳 | 中野浩一 |
第37回 | 1984年3月20日 | 千葉競輪場 | 滝澤正光 | 山口健治 |
第38回 | 1985年3月26日 | 立川競輪場 | 清嶋彰一 | |
第39回 | 1986年3月27日 | 平塚競輪場 | 滝澤正光 | 滝澤正光 |
第40回 | 1987年3月24日 | 千葉競輪場 | 清嶋彰一 | |
第41回 | 1988年3月23日 | 立川競輪場 | 滝澤正光 | 井上茂徳 |
第42回 | 1989年3月24日 | 花月園競輪場 | 小川博美 | 小門洋一 |
第43回 | 1990年3月26日 | 平塚競輪場 | 俵信之 | 滝澤正光 |
第44回 | 1991年3月26日 | 一宮競輪場 | 坂巻正巳 | 長谷部純也 |
第45回 | 1992年3月25日 | 前橋競輪場 | 吉岡稔真 | 尾崎雅彦 |
第46回 | 1993年3月24日 | 立川競輪場 | 海田和裕 | 伊藤公人 |
第47回 | 1994年3月28日 | 静岡競輪場 | 小橋正義 | 神山雄一郎 |
第48回 | 1995年3月27日 | 松戸競輪場 | 吉岡稔真 | |
第49回 | 1996年3月26日 | 千葉競輪場 | 吉岡稔真 | 稲積秀樹 |
第50回 | 1997年3月27日 | 岸和田競輪場 | 濱口高彰 | 小橋正義 |
第51回 | 1998年3月26日 | 西武園競輪場 | 吉岡稔真 | 吉岡稔真 |
第52回 | 1999年3月30日 | 静岡競輪場 | 神山雄一郎 | 東出剛 |
第53回 | 2000年3月28日 | 千葉競輪場 | 岡部芳幸 | 小橋正義 |
第54回 | 2001年3月25日 | 松戸競輪場 | 稲村成浩 | 稲村成浩 |
第55回 | 2002年3月24日 | 立川競輪場 | 山田裕仁 | 浜口高彰 |
第56回 | 2003年3月23日 | 平塚競輪場 | 伏見俊昭 | |
第57回 | 2004年3月28日 | 静岡競輪場 | 伏見俊昭 | 澤田義和 |
第58回 | 2005年3月21日 | 松戸競輪場 | 鈴木誠 | 加藤慎平 |
第59回 | 2006年3月26日 | 立川競輪場 | 吉岡稔真 | 大塚健一郎 |
第60回 | 2007年3月25日 | 平塚競輪場 | 有坂直樹 | 武田豊樹 |
第61回 | 2008年3月23日 | 静岡競輪場 | 渡邉晴智 | 山崎芳仁 |
第62回 | 2009年3月8日 | 岸和田競輪場 | 武田豊樹 | 山口幸二 |
第63回 | 2010年3月7日 | 松戸競輪場 | 村上博幸 | 村上義弘 |
第64回 | 2011年3月6日 | 名古屋競輪場 | 村上義弘 | 伏見俊昭 |
第65回 | 2012年3月4日 | 熊本競輪場 | 成田和也 | 武田豊樹 |
第66回 | 2013年3月24日 | 立川競輪場 | 村上義弘 | 深谷知広 |
第67回 | 2014年3月23日 | 名古屋競輪場 |
※第1、2回は甲規格・乙規格と分かれて開催された(前期日程が甲規格、後期日程が乙規格)。
女子優勝者
回 | 開催日 | 開催場 | 優勝者 |
---|---|---|---|
第2回 | 1949年10月24日 | 川崎競輪場 | 高木ミナエ |
第3回 | 1950年5月9日 | 名古屋競輪場 | |
第4回 | 1951年5月6日 | 後楽園競輪場 | 黒田智子 |
第5回 | 1951年10月5日 | 大阪中央競輪場 | 渋谷小夜子 |
第6回 | 1952年5月6日 | 川崎競輪場 | 田中和子 |
第7回 | 1952年11月3日 | 後楽園競輪場 | 水野信子 |
第8回 | 1953年11月3日 | 大阪中央競輪場 | 有江美和子 |
第9回 | 1954年11月3日 | 川崎競輪場 | 田中和子 |
第10回 | 1955年11月3日 | 大阪中央競輪場 | |
第11回 | 1956年11月3日 | 後楽園競輪場 | 畑田美千代 |
今後の開催予定
エピソード
数々の開催危機
競輪で最も伝統ある競走の日本選手権競輪だが、年によっては開催が無かったり年に2度開催されている。これは過去幾度も開催の危機にさらされたためであった。
後楽園競輪場で毎年開催されていた頃、1960年の大会で、決勝戦の日(11月3日)に場内に入りきれなくなった観客約1500名をバンク内に入れたままの状態で競走を行わざるを得なくなったことから、大会終了後、当時、後楽園競輪場を主催していた東京都が警備上の問題を理由として、翌年も同競輪場でダービーの開催が決定していたにもかかわらず、開催を返上することになった。当時は来場者が数万人規模となるダービーを後楽園以外の競輪場で開催すること自体困難だったことから、代替地に手を挙げる施行者は現れなかった。そのため1961年度のダービーは開催自体が行われず、競輪の歴史で唯一ダービーの開催がない年度となってしまった。
1962年度についても開催地の選定は難航を極め、2年連続での開催中止の影もちらつきはじめていた。しかし一宮競輪場が1963年3月に同大会の開催を引き受けることになった(年度としては1962年度)ことから連続中止の危機は免れた。なお、この大会で特別競輪史上初めて、決勝戦をテレビ中継(キー局は中部日本放送(現・CBCテレビ)。他に東京放送(現・TBSテレビ)、朝日放送(ABC)がネット局)で放送することになった[5]。
その後再び後楽園での開催に戻ったが、1967年に行われた東京都知事選挙において、都営ギャンブル廃止を公約に掲げていた革新系の美濃部亮吉が当選したことにより、公約に沿って美濃部は1964年の2月に行われた開催から続けてきた後楽園でのダービー開催を1968年限りで返上することを表明[6]。そのため、またしても1969年度のダービー開催地が宙に浮く事態が生じた。だが、この時も危機を救ったのは一宮競輪場で、1970年2月の開催を引き受けたことになり無事に開催された。
しかし1971年はオールスター競輪も含めて開催地の選定に行き詰まり、夏場を迎えても開催が決定できない状況となっていたが、ダービーだけでも年度内に開催させたいという関係者の意向により、翌年の1972年3月に千葉競輪場で開催させることになった。
以後は年毎に開催地が移動する持ち回り制となり、一ヶ月程度の開催時期移動があったりしたものの、毎年同大会は開催されている。
脚注
- ↑ 第62回大会(2009年)では、賞金5,500万円と副賞1,100万円。
- ↑ これと類似した主旨の競走体系は2009年と2010年に行われたオールスター競輪(会場は2009年が松山競輪場、2010年はいわき平競輪場)でも行われ、1次予選時の「特別選抜予選」相当の「ドリームレース」「オリオンレース」勝ち上がり9人による2次予選時の「シャイニングスター賞」で1着になった選手が準決勝免除で決勝戦シードの権利が与えられたほか、敗者復活戦を採用するなどしたが、こちらも勝ち上がりがあまりにも複雑であるという理由で2年で廃止されている。
- ↑ お帰りとなった選手は番組表に『帰』のマークが付けられ、この大会の競走にはもう出場しないことを意味する。
- ↑ 正選手162人のうち、最終日に出走できるのは最大で99人。
- ↑ 「復活ダービー」という人もいた。
- ↑ 1972年10月をもって、後楽園競輪場での競輪開催は事実上休止された。