渡嘉敷勝男
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渡嘉敷 勝男(とかしき かつお、男性、1960年7月27日 - )は、日本の元プロボクサー、タレント。沖縄県沖縄市出身[1]、兵庫県宝塚市育ち。
第6代WBA世界ライトフライ級王者。現役時代は協栄ボクシングジムに所属。
目次
経歴・人物
- 沖縄県生まれだが、親の仕事の関係で幼少時代に兵庫県宝塚市に住居を移転したため、宝塚で高校までを過ごした。
- 浪速工業高等学校中退。
- 現役時代の代名詞は“ヤンバルクイナ”。タレント転向後は「トカちゃん」という愛称の方が知られている。
来歴
プロデビュー前
幼少のころからやんちゃ坊主で、高校時代は喧嘩に明け暮れる不良少年であった。
1977年1月30日、テレビでWBA世界ライトフライ級タイトルマッチ具志堅用高対ハイメ・リオス(パナマ)を観たことがきっかけでボクシングを始めようと思い立つ。
浪速工業高校中退後、単身で上京し、プロボクサーになるべく協栄ボクシングジムに入門。
プロデビュー後
- 1978年12月28日、プロデビュー[2]。
- 1980年2月21日、全日本ライトフライ級新人王獲得。
- 1981年12月16日、世界初挑戦。金煥珍(韓国)を15回判定に降し、WBA世界ライトフライ級王座獲得[1]。同王座は具志堅が3月に14度目の防衛戦で敗れ、手放していたもので、渡嘉敷にとっては9か月前の先輩の無念を晴らす形となった。
- 同王座はルペ・マデラ(メキシコ、2度)、伊波政春(日本)、金成南(韓国)、金煥珍相手に5度の防衛に成功するが[1]、1983年7月10日、6度目の防衛戦でルペ・マデラに4回負傷判定(当時はTKOと記録された)で敗れ、王座から陥落した[1]。10月23日にマデラと再戦するが、15回判定負けで王座返り咲きならず[1]。
- 1984年8月18日、敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九(韓国)に挑戦するが、9回TKOに敗れ、王座返り咲きならず[1]。結局、この試合を最後に現役を引退。
引退後
- 引退後芸能界入りし、タレントとして活動し始める。「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」(TBS)、「たけし・逸見の平成教育委員会」(フジテレビ)等にレギュラー出演。「平成教育委員会」では毎回のように珍解答を連発し、多くの視聴者・出演者に笑いを提供し番組を盛り上げていた。
- 1987年、プロボクサーのライセンス取得を熱望していたタレントの片岡鶴太郎に、古巣に当たる協栄ジムを紹介したのも渡嘉敷であった。当時、鶴太郎とはテレビ番組で共演しており、渡嘉敷はその橋渡し役を買って出ていた。
- 東京都中野区に「渡嘉敷ボクシングジム」を開設。同ジム会長として後進の指導に当たっている。ジムを開設してからは、後進の育成に力を入れるようになってきており、以前と比べると、タレントとしてのテレビ出演は減っている。
- 2006年11月、元世界王者の輪島功一、玉熊幸人、飯田覚士、戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。
エピソード
- 沖縄県生まれであるが、生後間もなく兵庫県宝塚市に転居している。世間的に異論はないのだが本人は意外と真面目なため「自分は沖縄ボクサーのグループで呼ばれてもいいのだろうか?」と考えていた。引退後、沖縄出身の世界チャンピオンたちが偶然一堂に会するパーティーがあり壇上で写真撮影をする際に入ろうかどうしようかと考えていたが先輩達に「早くあがって来い」と叱られて、やっと沖縄グループでいいんだと自分自身で納得できたらしい。
- 渡嘉敷VSマデラ戦が何度も開催されたことで、WBA世界ライトフライ級1位新垣諭の世界初挑戦の機会が遅れ、日本ボクシングコミッション分裂及び日本IBF設立の引き金となった。
- プロボクサーになったきっかけは具志堅用高を倒すためだったが、入門した協栄ジムにはその具志堅がいた。同一ジムに所属する選手との対戦は行われないため「打倒・具志堅」の目的は果たせなかったものの、入門後は具志堅や彼の対戦相手のスパーリングパートナーを積極的に務めた。これが後に渡嘉敷が世界王者となるきっかけにつながったと評価するファンも多い。なお、具志堅との初のスパーでは鼻骨を折られ、その夜は発熱するなど散々だったが、「こいつ根性あるよ。これからスパーリングパートナーに使おうよ」と、トレーナーに進言する具志堅の声を背中で聞きながら「逆だよ。これからお前(具志堅)が俺のパートナーじゃ。使うたるわい」と、心中で呟いていたという。奇しくも具志堅は2010年に渡嘉敷と同じ太田プロダクションに所属することとなり、渡嘉敷は太田プロでは先輩となった。
- 協栄ジムの金平正紀初代会長は、「具志堅が“カンムリワシ”ならば、渡嘉敷は“ヤンバルクイナ”にしよう」と、渡嘉敷勝男の代名詞(キャッチフレーズ)としてヤンバルクイナと命名した。
- 前述のように「たけし・逸見の平成教育委員会」では珍解答を連発。その結果、毎回のように岡本夏生と最下位争いを演じていた。しかし天然ボケ的な珍解答の多かった岡本に対し、渡嘉敷は意図的に珍解答を連発していたようである(例えば「日本三景を答えよ」という問題〔正解:天橋立、松島、宮島〕に対し、渡嘉敷は「オグラ景、谷景、マリムラ景」と、応仁の乱を「大人の乱」と解答するなど)。時折難解な問題で正解すると、学級委員長の逸見政孝に「(正解を書いたのは)ウケ狙いですか?」。北野武先生には「ボケようとして、正解してしまったんですね。」と、散々に言われる。しかし「切ったトイレットペーパーを円筒状にして火をつけるとどうなるか?」という問題に対して、「飛ぶ」と珍解答を狙ったが正解だったということもあった。また岡本には対抗意識を持っていたようで、「川柳『○○と 言われるほどの 馬鹿でなし』の『○○』に当てはまる言葉を答えよ」という問題(正解:先生)に「岡本」と解答した。ちなみに岡本もこの問題で「とかしき」と解答している。近年のスペシャル放送でも相変わらず最下位に定着しているため、北野先生に「ディフェンディングチャンピオン」と称される。一度その最下位の座から転落した。
- タレントとしてはすっかり三枚目に定着してしまったが、芸能界デビュー当時は「松田優作さんのような男の匂いのする俳優になりたい」と抱負を語っていた。
- 以前に住んでいたマンションに松本人志も住んでおり、駐車場で渡嘉敷のバイクと松本の車が、あわや衝突事故という状況になり、興奮した二人が喧嘩寸前の状態になったことがある。松本がこの件を謝罪しようと思っているが、不幸にも数年たった現在でもテレビ番組で共演が実現していないとラジオでコメントする。松本によれば、渡嘉敷がフルフェイスのヘルメットをかぶっていたため、相手が渡嘉敷だと気付くのが遅れ、気付いた時には、お互いエキサイトしていたので、もう引き下がれない状態だったと苦笑していた。
- 亀田興毅のランダエタ戦後、テレビ朝日の番組「ワイド!スクランブル」において「みんな先入観で亀田を見ている」とメディアによる扇動について指摘し、亀田に対する判定はおかしいという世論と一致する意見を述べるガッツ石松に対し「あまり軽々しくそんなこと言わない方がいい」と警告した。
主な出演番組
テレビドラマ
- 昭和のチャンプ・たこ八郎物語(1990年3月、TBS系)ファイティング原田役
- 世にも奇妙な物語 『お墓参り』(1990年、フジテレビ系)
- 映画みたいな恋したい(テレビ東京)
- 江戸中町奉行所 第1シリーズ 最終話「我楽多たちの最後の賭け!」(1991年、テレビ東京)
- お願いダーリン!(1993年、フジテレビ系)
- 踊る大捜査線 第10話「凶弾・雨に消えた刑事の涙」(1997年、フジテレビ系)
- 密会の宿 第5作「不倫同窓会殺人事件」(2006年、テレビ東京)
- 相棒 season11 第3話「ゴールデンボーイ」(2012年、テレビ朝日)- 松井良明 役
バラエティー番組
- クイズ三角関係(TBS系列)
- 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 TBS系列
- 発汗!シェイプUP(1987年7月 - 9月)
- 総天然色バラエティー 北野テレビ(1989年4月 - 1989年9月)
- たけし・逸見の平成教育委員会(フジテレビ系列)
- 平成教育委員会(フジテレビ系列)
- ぶらり途中下車の旅(日本テレビ系列)
- 『東武伊勢崎線』編
- 『小田急電鉄線』編(1997年)
- 元祖どっきりカメラ(日本テレビ系列)
- 電脳☆GQバトラー!!(よみうりテレビ)
- ザ・ラスベガス(日本テレビ系列)
- 三枝の愛ラブ!爆笑クリニック(関西テレビ系列)