日本IBF

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

日本IBF、別称IBF・JAPANは、日本プロボクシングの団体。当初は国際ボクシング連盟(IBF)の日本支部として設立された。現在はIBF非公認である。

発足当時は加盟ジムの少なさから空手家キックボクサーをリングに上がらせていた。IBF初代アジアコミッショナーは、柳川次郎(本名・梁元鍚 ヤン・ウォンソク)。

歴史

設立経緯

渡嘉敷勝男ルペ・マデラWBA王者の時代、奈良池田ジムの新垣諭が、WBA世界ジュニアフライ級チャンピオンに挑戦する機会を待っていた。しかし、渡嘉敷vsマデラは微妙な判定の試合を繰り返し、結果4度の対戦をすることになり、挑戦の機会が与えられなかった。前世界王者の渡嘉敷のマッチメイクを優先する日本ボクシングコミッション(JBC)に対し、我慢の限界であった奈良池田ジム並びに新垣は、当時米国で設立されたばかりであり、JBCも公認するかどうか迷っていたIBFのチャンピオン決定戦に出場することにした。これに対しJBCが激怒、奈良池田ジムをJBCから除名し、以後日本での試合を組むことを認めない判断を下した。これを受け奈良池田ジムも、池田久会長自らがIBFから日本での興行主の認定を貰い、それと同時にUSBA/Iから改称したIBFが1983年に入り日本支部設立を発表。前述の池田会長らが、日本IBFの役員に就任。JBCはIBFの動きに対し、「一国一コミッション」の原則を守るため日本IBFを認めず、日本IBFに参加した者はライセンス無期限停止(事実上の除名)などの処分を課すと発表する。

設立後

1983年12月10日、日本IBFが大阪城ホールで初めての興行を開催。ジュニアフライ級ジュニアバンタム級世界王座決定戦を行う。日本から出場した新垣諭春日井健の両選手は揃ってKO負け。新垣は脳挫傷で病院送りとなる。

1984年4月16日、新垣がエルマー・マガリャーノを8RKOで下し、IBF認定の初代世界バンタム級王者となる。当初は引退したばかりの村田英次郎に出場オファーがあったとの噂もある。1986年7月1日 亀田昭雄テリー・マーシュの持つIBF世界ジュニアウェルター級王座に挑戦するが、6R TKOで敗退。

その一方で、JBCが当時の全日本ボクシング協会会長・木村七郎の要請を受け頭部のCT検査を具現化し、義務付けられた同検査で異常が見つかった場合、JBCが該当者に対し引退勧告を行うこととなった。これをきっかけに、同じく引退勧告の対象となる網膜剥離を患ったケースも含めたボクサーが日本IBFに参戦した。

1985年に名古屋で行われたIBF日本の興行でバトル川上(川上正治・奈良池田ジム所属)がバトルホーク風間ジムの元日本ジュニアフライ級4位 (JBC) のライオン丸門口(神田吉昭、元トーアFジム所属)と対戦したが、川上が形成不利になると試合中でありながら突如エキシビションマッチに変更になった。

1986年6月には、ロバート・リー立会いのもとに新日本プロレスと業務提携。その提携第2戦目として、1987年3月26日に新日本プロレスが大阪(大阪城ホール)で開催した「INOKI闘魂LIVE PART2」では、南浩文に塚田敬が挑戦したIBF日本ライト級タイトルマッチ(10R)が行われた(3R2分40秒KO勝ちで、王者・南が防衛)[1]

1987年4月28日、レオン・スピンクスを招へいして、名古屋(愛知県体育館)でIBF中部日本協会設立3周年を記念した興行を開催。スピンクスはWBC全米大陸ヘビー級王座(第5代)の初防衛戦(12R)を行い、ジェフ・ジョーダン・同級8位(米国)を2-1の判定で下し初防衛に成功した[2]

87年には大韓民国マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟のメインエベンターと国際式兼業の士道館松田利彦崔漸煥の保持するIBF世界ジュニアフライ級王座挑戦も4RKO負け

一時期、活動休止が続いていたが1997年夏、活動再開。飯泉健二のように網膜剥離でJBCのリングに上がれなくなったボクサーも出場した。また、当時JBC及びオサムジムとの軋轢を受けてJBCボクサー引退を余儀なくされていた西島洋介山にも声をかけていた[3]

2000年代初頭には女子部門も設置。IBF京都に所属した山木うの(当時別に存在したJWBCの実質トップだった山木ジム創始者山木敏弘とは血縁及び師弟関係等なし)を看板選手として女子プロレスラーの藤田愛らと対戦させた。

2004年11月、IBFプロボクシング協会、IBF日本国際ボクシング協会を新たに発足。従来のジム加盟制に加え、欧米式マネージャー加盟制を採用。

渡久地隆人八尋史朗ロッキー・リンに代表されるJBCトップ選手がIBF世界ランキングに名を連ねたことがあるが、彼等は日本IBFと無関係である。このようにIBFでは世界ランキングに、未加盟のはずのJBCのトップ選手の名前を無断で使っていた。

なお、2003年9月6日に京都府亀岡市ガレリアかめおか・コンベンションホール)において開催した「IBF日本チャリティーKOボクシング」(IBF京都主催・ノンタイトル5試合)を最後に、日本IBF関連の興行は行われていない(2012年現在)。

2011年6月8日、池田久逝去[3]

2013年4月にJBCがIBFを加盟することに至ったため、日本IBFは自然消滅の格好になった。

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:世界のボクシング団体

テンプレート:Boxing-stub
  1. 週刊ファイト・1987年4月10日号(6面)
  2. 中日新聞・1987年4月29日付け(20面)、中日スポーツ・1987年3月24日付け(7面)、同年4月25日付け(9面)、同年4月29日付け(5面)
  3. 3.0 3.1 IBF日本創設者 池田久会長 逝く BOXING MASTER