アップダウンクイズ
テンプレート:雑多な内容の箇条書き テンプレート:Ambox-mini テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『アップダウンクイズ』(Up-Down Quiz)は、1963年(昭和38年)10月6日から1985年(昭和60年)10月6日まで、毎週日曜日19:00 - 19:30(JST)に放送されていた毎日放送(MBS)製作のクイズ番組である。ロート製薬の単独提供(第1回放送より)、日本航空の協賛で放送された。
放送開始から1975年(昭和50年)3月30日放送分まではNET(現・テレビ朝日)系列の一部で放送されていたが、同年4月6日放送分以降はネットチェンジに伴い、TBS系列で放送されていた。
この番組は、MBSがラジオ単営局・新日本放送時代の1952年(昭和27年)から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』をベースに制作された。
目次
番組概要
- 解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、次々読み上げられるクイズを早押し・対抗形式で競い、10問正解(10段まで上り詰める)でハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られた。
- クイズに正解すると解答者の乗ったゴンドラが1段上昇(アップ)、誤答すると位置に関わらず最初まで下降(ダウン)するルールだった。
- 1963年10月6日、喜劇俳優・市村俊幸の司会、当時MBSアナウンサーだった小池清の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『私はナンバーワン』の司会者でもあった。
- 半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板[1]、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じくMBSアナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれもMBSアナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間にわたって親しまれた。
- カラー放送が行われるようになったのは1969年10月5日放送分からである。また、音声多重放送は最終回まで一貫して行われなかった。
- 出題者は冒頭の挨拶と問題読みだけであって、朝日放送『パネルクイズ アタック25』のように、賞品等の紹介は一切なかった(同じロート製薬一社提供のTBS『クイズダービー』も出題者は問題読みのみ)。
- ABCからMBSへのTBS系列ネットチェンジに伴い、1975年4月6日放送分から、TBS系列での全国放送に移行した。折しもTBS系列での放送第1回がちょうど600回となり、「600回記念・クイズ天狗タレント特集」が放送された。
- 1983年10月に放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)[2]から俳優の西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。番組タイトルも『新アップダウンクイズ』に変わったが、“新”は半年で消えた(ただし、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。
- 番組の収録は、毎日放送千里丘放送センターAスタジオで行われていた[3]。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放映)。なお末期は土曜日に収録された。
- MBSが関西ローカルでプロ野球中継を放送している日は、系列キー局(NET→TBS)及び番組ネット局向けに裏送りで放送していた。
- 同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送分の39.2%(関西)、同年5月11日放送分の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。
- タイトルロゴは五荘千尋が手がけたものである(他のMBS制作番組も全国ネット・関西ローカル問わず多くの番組タイトルロゴを手がけている)。
番組のキャッチコピー
- キャッチコピーは「ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!」。後に海外旅行が大衆化して「夢」で無くなった1970年代前半からは、「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、ハワイへ行きましょう!」に改められた。
- 10問正解の賞品が海外旅行であることから、JALが協賛していた[4]。「♪ロート…」のオープニングキャッチ前に、19:00の時報とともにカウキャッチャーとして、JALのCM(JALPAKなど)が放映されていた。
- また、オープニングテーマ曲が流れているときにも「協賛 日本航空」と表示された。
番組冒頭のあいさつなど
- 小池が司会を務めていた時代は、 「ハワイへのご招待。10問正解して、さあ、夢の(「夢の」のフレーズは1970年ごろまでだった)ハワイへ行きましょう!ロート製薬がお送りするアップダウンクイズ、私は司会の小池清でございます」に続き、
テンプレート:Indent テンプレート:Indent(なお、後期は「問題を差し上げます、佐々木美絵です」とアナウンス)というあいさつで番組が始まった。
- 当初はオープニングテーマ曲が流れ終わると小池はゴンドラの前に立ち、上半身を画面アップ状態で挨拶をした。ネットチェンジ後にオープニング曲が変更されてから、小池は司会者席に座ってあいさつをするようになった。
- 解答者の紹介が終わると、小池時代は、「それでは、日航機によりますハワイ旅行を目指して、大いに頑張っていただきましょう!!」というセリフで一問目に入った(司会が西郷になってからは「日本航空で行くハワイをめざして、皆さんしっかり頑張って下さい!」と言っていた)。
- 西郷が司会となってから、タイトルコール・出場者紹介と結果発表のアナウンスを、当時MBSの新人アナウンサーだった柏木宏之が担当した(1984年3月限りで降板)。
- 「新」では柏木アナウンサーによる「ロート製薬提供、新アップダウンクイズ! 司会西郷輝彦!」のオープニングコール[5]に続き、別のゲートから西郷が入場。
- 司会者と出題者のあいさつは普通の形になっていたが、タイトルを元に戻してからは小池と同じ登場パターンに戻している。出場者の紹介では西郷が解答者と握手する演出があったが、タイトルを元に戻してからは解答者の自己紹介に変更された。
- NET系列での最終放送日となった1975年3月30日は、番組最後に小池が「東京地区でご覧の皆様は、来週からは6チャンネル・TBSテレビでご覧下さい」とアナウンスしていた。
- なお、NETからTBSへのネットチェンジ後、TBS系列での1回目の放送である1975年4月6日の放送では番組冒頭に小池が「それでは、ここで簡単にルールをご説明いたします。まず問題が出ます。そしてなるべく早くボタンを押していただいて、正解されますとゴンドラが1段上がります。よろしいですね!!」と紹介し、また、2回目の放送となった1975年4月13日放送でも「それでは、先週からご覧になっている皆様に、ここで簡単にルールをご説明いたします」とほぼ同様の紹介をしていた。
- また、次回の予告(ゲスト特集等がある回のみ)と番組終了時、当時MBSアナウンサーだった吉田智子による「アップダウンクイズ 第○○○回を終わります。提供は、ロート製薬でございました」というアナウンスもおなじみだった[6](終了時のエンドカードは、ブルーバックに「アップダウンクイズ」の白抜きタイトルロゴが右揃え(上:アップダウン、下:クイズ)でレイアウトされ、左下に白抜きで幅が狭い明朝体で“終”と書かれていた)。
1984年4月8日から1985年10月6日(最終回)までは、「アップダウンクイズを終わります」に変わった(後番組の『クイズ!!ひらめきパスワード』でも同様に継承された[7])。
- 番組のクレジットタイトルは、1970年代までは「アップダウンクイズ 終」のエンドカード前に、青地に白抜きゴシック体で「構成*堤章三 音楽*○○○○」と入るのみだったが、ゴンドラが色分けされてからは番組エンディング時にスタッフロールがナールフォントで左方向に表示[8]されるようになった。
ルール
全国各地から毎回6人の視聴者(または特集などでペア6組[9])が解答メンバーとして出場、早押しクイズに挑戦する。見事10問正解すると、後述するファンファーレが鳴らされる中で天井(解答者席上)に吊るされたくす玉が割られて大量の紙吹雪と風船(西郷時代は大量の銀色の紙吹雪)が降る中、日航で行くハワイ旅行と賞金10万円(放送開始当初は20万円)を獲得できた[10]。
一般参加の場合、実際には「北海道・東北」・「関東」・「中部・信越」・「近畿」・「中国・四国」・「九州」の6地区から筆記クイズ・面接による厳正な予選を経て各地区1人ずつ出場するケースが多かった。
1問正解のたびに解答者席のゴンドラが1段ずつ上がったが(一部の問題では2段、または3段上がった場合もある)、不正解(お手つき・誤答)の場合は正解数にかかわらず一番下まで下がってしまい(ただし、一時期あった解答者全員参加の「三択クイズ」(サービスクイズとも言っていた)については誤答でもゴンドラ降下のペナルティーはなかった)、これを2回犯したら失格(「お出」=しおれた感じのBGM音楽も流れる)となり、画面左に設けられた失格者席に座らされた。失格者は解答者全員が早押しできなかった場合(いわゆるスルー。トントンの音が10回(小池時代末期は6回)鳴った後に不正解のブザーが鳴る。西郷時代は電子音で8つの音階が上がり、電子音でブザーが鳴る(不正解時のものとは別)。)、あるいは他の人が誤答した場合にのみ解答権があり[11]、正解するとゴンドラに戻ることができた(「お戻り」=明るいファンファーレBGMが流れる)。「お戻り」になるとそれまでの不正解数はリセットされた。なお『新アップダウンクイズ』初期には「お出」・「お戻り」のペナルティを設けていなかったが、タイトルから「新」が消えた1984年4月より元に戻った。
1度の不正解で1問正解でも9問正解でも即0点に戻ってしまう厳しいルールが特徴だったが、正誤の判定はかなり甘かった傾向になることもあった。解答についても、他の番組に比べ多少長い時間待ってもらえたり、司会者の裁量で言い直しが認められたことがあるという。なお、早とちり・お手つきをしても、問題内容によっては正解が出る前に司会者からその続きを読んで再解答させたり(答えが複数ある場合など)、関連する解答であればおまけで正解にしたこともあった。また、特に小池が司会だった時代には、このような傾向が多く見られた。とはいえ、不正解した時のダメージも大きく、特に7段階から9段階あたりで0点になると、放送時間の関係上、良い成績が残せなかった。中には、ショックのあまりに失神して最後まで解答できなかった人もいた。
さらに問題は本選・予選問わずハイレベル・難問が比較的多く、間違いが許されない真剣勝負であったのも番組の特徴である。それゆえに高度な知識はもちろん、的確さ・迅速な判断力がなければクイズを制覇できなかった。
10問正解のコツは、まず解答権を早く得るトレーニングを繰り返し練習すること、収録直前あたりの新聞に隅から隅まで目を通すこと(特にMBSの母体紙である毎日新聞からはスポーツ、文化関連を中心に幅広く出題されていた)、そして毎週番組を見てもらうことだと当時のプロデューサーが語っていた。
西郷時代後期(1984年-1985年1月まで)は、連続(3段階)勝ち抜き方式で、1週目・10問正解すると1人でのハワイ旅行獲得と賞金10万円獲得、2週目・20問正解するとペアでのハワイ旅行と賞金20万円獲得[12]、3週目・30問正解でペアでのアメリカ西海岸と賞金30万円獲得、さらにゴールデンカップが授与された[13]。ただし、西郷時代末期のゲスト特集は自動的にハワイ旅行・賞金10万円であった。
「10問正解=優勝」というのが挑戦したクイズプレーヤーの認識だが、実際は時間内なら何人でもハワイ旅行を獲得できるチャンスに孕んだ番組だったため、レギュラー版での優勝という制度は成立しなかった。この番組(10問正解・ハワイ旅行獲得)とテレビ朝日の『クイズタイムショック』(パーフェクト達成)、フジテレビの『クイズグランプリ』(チャンピオン大会優勝)での3つのクイズ番組を制した挑戦者は、いわゆる「三冠王」[14]、「クイズ荒らし」といわれた。また、「クイズマニア」と言われるきっかけも作った。
出場者募集の宛先はMBS[15]宛てではなく、ロート製薬の本社がある大阪生野局宛てだった(理由は後述)。また、クイズ荒らし防止の観点から、一度番組に出場すると3年間は応募できなかった。
クイズの内容
開始当初は基本的に一般問題中心だったが、てこ入れとして次のようなコーナーも登場した。
シルエットクイズ
1967年2月26日放送分から登場。番組の目玉コーナーといわれ、最終回まで続いた。これはかつてNHKで放送された『私の秘密』、『それは私です』のコンセプトを取り入れたものといえる。なお当初は「ゲストクイズ」という名称だった。
ゲストをシルエットで見てもらい、3つのヒントから当てるもので、正解すると第1ヒントなら3段、第2ヒントなら2段、第3ヒントなら1段ゴンドラが上がった。第1ヒントはゲストの性別と職業、第2ヒントは簡単な経歴、第3ヒントは具体的なことだったが、後に第1ヒントはシルエットのみに改められた。第3ヒントではシルエットが横向きになった。
ゲストは歌手・俳優・タレントなどの芸能人、プロ野球選手・大相撲の力士・プロボクサーなどのプロスポーツ選手、その他政治家や作家・評論家・芸術家・漫画家など、時の話題の人たちがゲストとして呼ばれた。ただし、スポンサーがロート製薬一社だった関係から、放送当時に同業他社の広告に出ていた人は、ゲストとして呼ばれなかった。
当初は中CM明けに行われており、開始音楽やテロップは無かったが、TBS系全国ネット後(推定)からセットをバックに開始のジングルを流した。ゴンドラが色分けされてからはジングルを行進曲のファンファーレ調に変更すると同時に、「シルエットクイズ」とテロップが出る様になる(構成は上に「シルエット」、下に「クイズ」)。そして西郷時代には、中CM手前に移動、ジングルを一新し、シルエットをバックにテロップが出る様になった(構成は右上がり一直線に「シルエットクイズ」)。また小池時代は、ジングル→説明→問題という順番だったが、西郷時代は説明→ジングル→問題という順番になり、説明は小池時代よりも少なくなった。一時期このクイズの正解者にはゲストからゲスト賞が進呈されていた。
ラッキークイズ
シルエットクイズと同時期に登場。ボーナスクイズの一つで、毎回ゲスト本人から出題された。正解するとゴンドラが2段上がった。
当初はシルエットクイズに続きゲストに関係する問題を3問、そしてゲストへのインタビュー後にこのクイズという流れだったが、ゴンドラが色分けされてからは最終問題となった。
ちなみにゲストへのインタビュー後に自身が問題を出題するという流れは西郷時代末期に復活したが、正解しても1段階しか上がらない単なる通常問題であった。
目で見るクイズ
1966年8月7日放送分から実施。画像を見ながら答えるもので、2問出題(この問題のみ問題を読み上げる出題者の顔を見ることができた)。
1問は絵を見て当てる三択、もう1問はある物の部分をスライドで5枚見てもらい、それが何かを当てた。後に、アシスタントがホワイトボードに線を描いて道府県や島の名前を当てる問題、有名人の顔写真を分解したものを見てもらいそれが誰かを当てる問題、VTRを見て都市や島、建造物の名称を当てる問題なども追加された。司会が西郷になってからは内容が一部変わった。
音楽クイズ
「最近のヒット曲」、「今の季節にふさわしい曲」など、テーマを決めて3問出題された。ほとんどは曲の「題名」を答えるものだったが、歌謡曲を「歌っている人」、あるいは「作曲者」や「歌詞の続き」を答えることもあった(1問目は「題名」、2問目は「歌っている人」、3問目は「作曲者」を答えるということもあった)。
西郷時代は「サウンドクイズ」と言うタイトルで、当初はいろんな音を当てる問題だったが、後に音楽に戻っていた。 また、出題は3問まとめて行われていたが、西郷時代の末期になると番組中のどこかで出題されるようになっていた(「ではここで、〜をお聞きいただきます」で開始。直前の問題と関連した問題として出題されることもあった)。
イエス・ノークイズ
1975年から数年間あった。5問出題され、設問が本当か嘘かを当てる問題。簡単そうな問題だが「引っ掛け問題」もあり、間違えて0点になったり「お出」になる人も多かった。
テーマクイズ
小池が司会だった時代にあり、季節の事柄や行事話題などを5問出題した。そのうち2問に必ず音楽に関する問題が出された。
ご当地クイズ
1975年10月12日放送分から設けられた。出場者の居住地にまつわる話題にちなんだ問題が出されるが、解答権は全員にあった。ゴンドラが灰緑1色時代は後半に行われたが、色分けされてからは前半に出題された。
小学生クイズ
小池時代末期にあった、小学生視聴者からの投稿クイズ。当然ながら、クイズは小学生レベルの問題だった。投稿者には、番組特製の置時計(左に時計、右には番組セットのミニチュア)がプレゼントされた。なお問題読み上げは、当初は投稿者の肉声だったが、後に佐々木出題者が読み上げるようになった。
この人クイズ
小池司会末期の1982年 - 1983年に行われていた。
しりとりコンピューターアニメクイズ
西郷時代後期に登場。「目で見るクイズ」の発展形というべきもので、1枚のイラストが、しりとりで次に続く名前の違うイラストへ段階的に変化していくので、何に変化していくのかを当てる。2問出題。
シンクロクイズ
西郷時代からスタートした、ボーナスクイズの1つであり、従来の「ラッキークイズ」をパワーアップしたもの。当初は「ラストファイブ」のタイトルになっていた。
- 残り5問になると電子音が鳴り、ゴンドラ後方の電飾がスクロールした。
- 解答者がボタンを押すとスクロールが止まり、解答権を得た解答者の席に電飾が止まったらドアチャイムが鳴ってシンクロ(ボーナスチャンス)となり、後方(壁)の電飾が赤くなった(通常は青)。また、暗転で始まっていた頃はOPテーマ曲に合わせて青⇒赤⇒黄と変化し、スタジオが明るくなると青に戻った。この問題で正解すると2段上がった。それ以外の解答者が正解しても1段上がった。この時の最終問題は2択形式だった。
リポータークイズ
西郷時代から登場。JNN各局のアナウンサーがリポーターを務め、その土地の風習やグルメなどを毎回1問ずつ出題していた。熊本放送からの出題は、同局のテレビ・ラジオで長年にわたってレギュラー番組を担当しているローカルタレントの大田黒浩一が務めた。
ゴンドラ
この番組に欠かせない演出の「ゴンドラ」は3代目まで存在した。
第1回から最終回までゴンドラの上に、白地に紺色で(「ロート」の部分のみ白抜き)、右のような形で番組とスポンサー名のロゴが掲げられた(ただし、司会者はABC『パネルクイズ アタック25』で「東リ・パネルクイズアタック25」と言うように「ロート・アップダウンクイズ」とは言わずに、単に「アップダウンクイズ」と言っていた[つまり、冠スポンサー番組ではない])。しかし、全国ネット番組でのゴンドラのオブジェー化は予定していない。
初代(1963年10月から1974年12月まで)
前面に解答者の番号ランプと「横反転リーフ式(いわゆるソラリー式)賞金表示板」があった。また各解答者席の後方(画面右斜め上)には、ロート製薬の主力製品名(パンシロン、Vロートなど)が掲出されていた。
問題が分かった時に解答ボタンを押すと、弓矢の的のような赤と白の丸い板(別名 ペコン板)が立ち上がる。複数の解答者が押した場合、最も押すのが早かった解答者の番号ランプが点灯し、解答権を得る。段階表示(スケール)は一瞬左向きの矢印(←)になってから1から10までの数字が表示された。
解答ボタンは丸型で、ゴンドラ左側(解答者からは右側)に設けられていた。
問題が読まれた後すぐに解答者がボタンを押さなかった場合、柱時計のカチカチいう音のようなシンキングタイム効果音があった。
金額表示は5桁で、10問正解時は9問正解時の金額がそのまま表示された。表示する時「バシャバシャ…」という独特な音がした。
不正解の時は、"×"(罰点)を立体にした物をアシスタントが持ってきて表示した。
放送開始当時、ゴンドラ一式の製作に600万円も掛かった。ゴンドラメーカーの関係者は、製作はもちろん放送局やスポンサーを説得するために苦労したそうである。
番組のカラー放送移行時(推定)にゴンドラの一部変更が行われ、解答者席の後方部分がこれまでの長四角から半円形になり、併せて段階表示もなくなった。ゴンドラの色はパープル、後方部分がグレーで、ゴンドラレールも淡いパープルに塗られていた[16]。
2代目(1975年1月から1983年9月まで)
従来のゴンドラに改良を加えたもので(以前、大相撲の力士の特集で、元大関・三根山=当時は高島親方=の乗ったゴンドラが1段も上昇しないハプニングが起き[17]、それを契機にした改良となり、250kgまで耐えられ、なおかつ2人乗りも可能になった)次のようになった。 このゴンドラでも当初は解答者席後方にロートの製品名(例:「キャシロン」「なみだロート」他)が付いていたが、オープニングテーマ音楽が変更(1976年1月)されてからは付かなくなった。
- 段階表示の電光掲示板(横5ドット・縦7ドット)が(画面から見て)賞金表示の左に設置された。
- 最下段の時は無表示、そして"1"から"10"が表示される。設置当初から1980年代初めまで、10問正解の時は数字が"9"か無表示だったが、後に"10"まで表示されるようになった(10の"0"を極端に細くしてドットの列に収めた)。数字の切り替わりは左から1列ずつ流れるようになっていた。
- 賞金表示板の右上に解答者の名札が付いた。
- 賞金表示は "¥40,000" のように"¥マーク+5桁"で表示し、10問正解で賞金が10万円になった時でも9問正解時の "¥80,000" のままであった。またゴンドラが最下段に居て賞金ゼロのときは "¥ 0,000" と表示されていた。
- ゴンドラ背面のレールの色は、ゴンドラに製品名が付いていたときから翌年までは明るい茶系、その後ターコイズ色となった。
- 1979年のテーマ音楽変更と同時にゴンドラもマイナーチェンジされ、解答者席は白に近いシルバー、ゴンドラ背面のレール、正面の①~⑥の番号と周囲のリング、及び「アップダウンクイズ」のロゴはコーンフラワーブルーとなった。
1979年12月から、赤・橙・黄・緑・青・紫の6色に色分け[18]されたうえ、解答者席後方に電飾が付いた。解答者の紹介及び1段階上昇するごとに1秒間だけ点灯し、10問正解時には3つに分かれて点滅、その後もクイズが継続される場合は常時点灯していた(点灯色は白)。また賞金表示も従来の"¥マーク"が無くなり6桁表示となり、10問正解時も "100,000" と表示できるようになった。
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小池司会の末期(1982年1月10日-1983年9月25日)では、ゴンドラが大きくマイナーチェンジされた。
- 賞金と段階表示が黒色に変わり、賞金表示が白抜き文字に変わった。なお、千の位はフラップの表記が0と5しかなかったが、0から5に表示を変えるときは、従来どおり5コマ分回転していた。
- ゴンドラの色の描かれ方が、解答権ランプの周りだけになり、両端は銀色になった。
- 解答者席後方の電飾がゴンドラと同様に色分けされた。
- ×マークは当初は2問不正解で2つ置かれるパターンが継承(アシスタントが設置・回収)されていたが、後に新しく黒地に白く「×」の書かれた板がゴンドラに搭載され、誤答ブザーと同時に自動で立ち上がる構造に変更された。解答者が失格者席から復活するときには、×板も自動的にリセットされた。
- ゴンドラ背面のレールの色はグレーとなり、枠の上部のみ茶系の色となった。
- 9問正解者がボタンを押し10問正解にリーチが懸かると、途端にスタジオ内が暗転して解答者にスポットライトが当たり、不調和で緊迫感のあるドラムロールが流れ、小池が「さあ、○○さんいいですか。落ち着いて、さあ、いきましょう!」などとしゃべり、正解の場合ファンファーレと共にくす玉が割れて紙吹雪と風船だが、不正解なら0へ逆戻りしてスタジオ内が再び明るくなる演出技法がなされていた。
- 失格席は×マークの電飾が点いた仕様となり、失格者が着席している間は点灯する演出が付けられた。
このゴンドラを最後に、『新アップダウンクイズ』以降に使用される新しいゴンドラへとバトンタッチされた。
3代目(1983年10月から最終回まで)
司会者の交代とともに、セットやゴンドラについてもこれまでとは180度の転換になり、豪華で近未来的なものになった。
- セットそのもののうち、ゴンドラがセットされている部分が開放され、各ゴンドラの両脇に電飾が付いた。これが「新アップダウンクイズ」から登場した「シンクロクイズ」の際に使用された(シンクロクイズ以外でもクイズを行っている間はゴンドラの上昇分だけ点灯した。ただし、不正解下降中はだんだん短くなるように点滅、さらに×マークが表示されるようになった)。
- ゴンドラの段階表示はデジタル数字に変わり、名札は少し大きくなった。段階表示は以前のものと違い、“0”が表示された(ただし、10問正解の際は"10"の数字は太くならなかった)。
- 賞金表示が廃止され(ちなみに賞金は途中から1問=1万円に増額)、解答者の名札はかつての賞金表示機のあった場所(段階表示の右)に付けられた。
- 解答権ランプはゴンドラ一杯に大きく四角く表示され、数字も大きくなった。また、ボタンを押した時と解答権を得たときの表示を全てこのランプで行うようになったため、以前までボタンを押したときに立ち上がる丸い板は廃止された。
- このランプは解答ボタンを押すと、数字の周りのみが光る。さらに解答権を得た人は全て光り、番号の部分のみ点滅。不正解の場合は×を表示した。
- 以前と同様に、解答者席後方に電飾が付いていた。
- ×マークは1回目はゴンドラに内蔵され、ブザーと同時に下から飛び出す。2回目には×マークが閉じる代わりに「お出」となった解答者のゴンドラを開けるとき、新しくなった番組のロゴマークに白の×マークを重ねた表示板をアシスタントが持ってきて表示した。無論復活の際には表示板は回収された。
- 効果音はゴンドラ上昇時(正解チャイムとほぼ同じ音)や下降時(しおれた感じのBGMと同じ音)に電子的な音が加わる形になり、当初は以前のものを引き継いでいたシンキングタイムの効果音も、放送数回で電子音に差し替えられた。それに対して早押し時のチャイムや誤答時のブザーはそのまま引き継がれた。
- このセットは番組終了後も千里丘放送センターに保管していたが、2007年7月下旬で放送センターは廃止された。道具倉庫は後継施設である千里丘ミリカセンターに設けられ、同所にて保管されている(非公開)。
- 小池時代のゴンドラはワイヤーロープでゴンドラを上昇させていた(エレベーターと同じ原理)が、西郷時代はチェーンでゴンドラを上昇させる方式に変わった[19]。
10問正解達成解答者に対する演出
くす玉・大量の紙吹雪・風船・タラップによる演出
- 10問正解してゴンドラが頂点に上がるとファンファーレが鳴り、解答者席上(天井)に吊るされていたくす玉が割られて(くす玉は小池時代前期は造花であり、後期は銀色である。西郷時代はくす玉の代わりにセット上の天井から丸いランプが点滅しながら)、大量の紙吹雪と風船(色は赤・橙・黄・緑・青の5個、番組開始当初と西郷時代には銀色の紙吹雪のみで風船は入っていなかった)が降り、日航で行く「夢のハワイ旅行」と賞金10万円獲得となった。なお、降ってきた風船は出場者あるいは観客の子供たちが貰うことができた。
- 全ての解答者席上にくす玉が設置された1973年12月以降のくす玉割りは、同じロート製薬提供でTBSの『クイズダービー』同様、スタッフの機械操作で行われていた。
- 紙テープは入っていないが、新井たかしの『クイズで儲けろ』(1972年刊・廣済堂)に、宝田明が10問正解・ハワイ旅行達成の瞬間で紙吹雪を浴びる場面の写真、映画『ALWAYS 三丁目の夕日'64』のオフィシャルムック『三丁目の夕日の時代 写真資料とで読む昭和39年大図鑑!!』(小学館)にハワイ旅行達成の瞬間でくす玉が割れて(くす玉は二つだけだった)紙吹雪が降る場面の写真(番組初期の頃)にも紙テープ(くす玉の中央部分にまとめて貼り付けてあった。紙吹雪はあったが、当時風船は無かった)が入っていた。
- クイズ番組で最初にくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を始めたのがこの番組である。ちなみにテレビ番組全体はNHK紅白歌合戦がさきがけである。
- 放送開始当初はまだ海外旅行が自由化(または「為替自由化」ともいっていた)されておらず、ハワイ旅行は文字通り夢であった。番組開始の半年後である1964年4月から海外旅行が自由化された。また開始当初の賞金は20万円だったが、その後製薬業界においても宣伝・景品に関する自主規制(紳士協定)が制定され、賞金上限が10万円と定められた。
- 紙吹雪が降った後、10段目に上がったゴンドラに飛行機のタラップに相当する階段を寄せ、当初は日航の客室乗務員が解答者に「おめでとうございます!」と言いながら、フラワーレイをかけてエスコートした。その際、その階段を客室乗務員が上がり、ゴンドラの扉を開けて、10問正解者を出迎え、専用席でシルエットゲストから副賞の賞金10万円の目録が手渡された(ただし、前半(シルエットゲストがいない時)で10問正解を達成した場合は小池が手渡した)。ゴンドラが色分けされてからは、テニスウェアを着たアシスタント(ゴンドラギャルズ)がレイを掛けにいくようになり、専用席で日航の客室乗務員が目録と航空バッグを渡す形になった。
- 10問正解達成・ハワイ旅行獲得者の栄誉を称え、BGMに、ハワイアン曲の「ブルー・ハワイ」が流れた。ただし、1979年3月から11月まではオープニングテーマのアレンジ(宇崎竜童作曲)に変更、ゴンドラ色分けから2年間は「珊瑚礁の彼方に」、そして西郷が司会をしてからは「アロハ・オエ」をベースにした独自の曲となった。
- チャレンジ3・ペアでの西海岸旅行獲得者が出た場合、決定時の音楽と後のBGMが異なっていた。
- ハワイ旅行を獲得した解答者のゴンドラには「10問正解・ハワイ旅行」のプレートが掲げられた。ただし、初期はその解答者席の上に吊るされている割られたくす玉が下ろされた。小池末期のゴンドラ以降は、「新V・ロート」のパッケージに準じたデザインに変更され、西郷が司会になってからも継承された。
- チャレンジ1 - 3制では、「V1 ハワイ旅行」「V2 ペアでのハワイ旅行」「V3 ペアでの西海岸旅行」のプレートが掲げられた。また、チャレンジ2・3に挑戦する回答者は予め「チャレンジ2(3)」の名札を回答者席の氏名の下に掲示していた。
- なお、「大学生大会」や「ゲスト大会」などの特集回は「ハワイ旅行」のプレートが掲げられた。
- ゴンドラから降りてきた人は専用席に座るが、この椅子はソファーになっていて横に花が飾られていた。ゴンドラが色分けされてからは、背景にワイキキビーチの写真が描かれたものに変更された。
- 10問正解者が出ても、時間が余っていれば出題は続行。1回の放送で複数のハワイ旅行獲得者が出たこともある。また最終問題で10問正解者が出ても時間がない場合には、タラップに相当する階段を使わず、そのままゴンドラに乗ったままエンディングを迎えた解答者もいた。その時には「そのままハワイへ飛んでいって下さい」という台詞もあった。
- 小池時代と西郷時代の前期では、10問正解達成の瞬間、画面には全くスーパーは出なかったが、西郷時代の後期になって出た。「おめでとう!ハワイ旅行獲得!!」、「ペアでのハワイ旅行獲得!!」、3週連続10問正解があった時は「ペアでのハワイ アメリカ西海岸旅行獲得!!」という字幕スーパーが出た。
くす玉・紙吹雪に関するハプニングなど
- 10問正解・ハワイ旅行獲得時に割られるくす玉は当初1つだけで、10問正解しそうな解答者のゴンドラ上に来るよう後ろでスタッフが操っていた。しかし、収録中スタッフが誤ってセット上にぶつけて割り、紙吹雪と風船を降らせてしまったため、収録が一時中止となったことがあったことから、その後は2つ設置された。しかしながら、1973年11月25日放送の「ヤングレディ特集」の大会で初めて10問正解者が3人出て、3人目にはくす玉が用意されなかったというハプニングがあったため[20]、これを機会にすべてのゴンドラ上に設置されるようになった[21]。
- 紙吹雪が大量のため、10問正解・ハワイ旅行達成者の両隣の解答者が浴びることも少なくなかった。このため頭や肩などに紙吹雪が付着したままの状態でクイズに参加していた。
- 風船が隣の解答者に落ちたり、ステージ上に落ちたりすることもあった。
- 1978年8月27日放送の「15周年記念全国大会・中部甲信越地区大会」でも、下に記した通り隣の解答者に落ちた風船が割れるハプニングがあった。
- 5の解答者(女性)がラッキークイズで10問正解を達成(結局2人目の10問正解達成者が出ず、決勝進出も決定)、くす玉が割られた。その後、前半に2問誤答でお出となった4の解答者(男性)が復帰。風船が引っ掛かっていたのを知らずに解答して正解、風船が割れる音に驚いた。そこで小池が「5の方の風船が割れました、ごめんなさい」と謝罪した。
- 右端の6の解答者(男性)のゴンドラにも風船が降り、1回目の誤答時までそのまま置かれていたことと、10問正解・ハワイ旅行を獲得していないのに大量の紙吹雪を浴びたこと。風船は1回目の誤答後にアシスタントが除けたが、紙吹雪は終盤に2問誤答でお出となる際に慌てて払い落とした。この理由は本来ならば5の解答者のくす玉が割れ紙吹雪と風船を大量に浴びなければならないのに、右隣にいる6の解答者のくす玉を誤って割ってしまったのである。
- 10問正解を達成したにもかかわらず、くす玉が割られず、紙吹雪と風船が降らなかったこともあった、逆に10問正解を達成していないにもかかわらず、くす玉が割れ、紙吹雪と風船が降ったこともあった。
- なお、紙吹雪は小池時代の頃、細かく刻んでいた。そのため、小池は「あとで払い落として下さいね」と言っていた。
- 西郷時代の時、紙吹雪は銀色一色で少し大きめになり、風船は入らなくなった。また、初期にはゴンドラ上(やはり天井)にあったランプが点滅した。
賞金
第1期
(番組スタートから1979年12月16日放送分まで)
- ¥1,000
- ¥2,000
- ¥3,000
- ¥4,000
- ¥5,000
- ¥10,000
- ¥20,000
- ¥40,000
- ¥80,000
- ¥100,000
第2期
(1979年12月23日放送分から1983年9月まで)
- ¥5,000
- ¥10,000
- ¥15,000
- ¥20,000
- ¥25,000
- ¥30,000
- ¥40,000
- ¥60,000
- ¥80,000
- ¥100,000
第3期
(1983年10月から1984年9月まで)
- 5千円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。
(1984年10月14日放送分から最終回まで)
- 1万円×○段階(○問正解)となり、10段階(10問正解)で10万円獲得。
10問正解を達成した芸能人・著名人
小池時代
- 王貞治…NETネット時代の1965年4月4日(プロ野球選手特集)[22]放送回で、著名人初の10問正解を成し遂げた[23]。
- 大橋巨泉…NETネット時代。後に同じロート製薬提供の『お笑い頭の体操』→『クイズダービー』の初代司会者と「新パンシロン」のCMキャラクターに起用。
- 立川談志…1975年4月6日[24](600回記念、タレントクイズ天狗特集(ほかには長門裕之(1枠)、ロイ・ジェームス(2枠)、勝呂誉(3枠)、内海好江(5枠)、牟田悌三(6枠)が出演。談志は4枠)。TBS系ネットとなってから初の10問正解者。この回のシルエットゲストは佐藤寛子 (首相夫人) 。また、2011年11月26日、『知っとこ!』[25]の立川談志死去のニュースで、10問目でハワイを獲得する場面が放送された。
- フランキー堺
- 三笑亭夢楽・春風亭柳朝…落語家ペア特集で。
- 宝田明…NETネット時代。
- 武田鉄矢
- 谷村新司…NETネット時代の1974年7月に放送。その週の水曜日に文化放送のレギュラー番組セイ!ヤング宛てに沢山の祝電が寄せられた。
- 野田佳彦…早稲田大学時代の1977年にハワイ旅行を獲得したことを、首相就任後のホノルル訪問の際に明かした。
- 和田アキ子…1981年12月27日放送の「年忘れ漫才特集」ではシルエットゲストとして出演。
- 浜村淳…1979年10月7日の「16周年記念・クイズ番組司会者特集」で。『パネルクイズ アタック25』でも優勝して画当てを正解、パリ旅行を獲得した。
- 渡辺文雄…浜村と同じく「クイズ番組司会者特集」で。翌年「新パンシロン」の初代CMキャラクターに起用)
- 前田忠明…1981年5月17日放送の「900回記念・レポーター特集」で。
- モンキー・パンチ…1979年4月8日の「新高校生特集」ではシルエットゲストとして出演。
- 龍虎…1980年11月16日の「元プロスポーツマン特集」で、出題13問目で10問達成。
- 西川のりお・上方よしお…1980年12月28日の「年忘れ漫才特集」で。1982年8月22日の「夏休み小学生特集」ではシルエットゲストとして出演。
- ザ・ぼんち…1981年12月27日放送の「年忘れ漫才特集」で。1984年1月3日の「新春スペシャル」(西郷時代)ではぼんちおさむが川島なお美とペアで出演。
- 蟇目良…1978年4月30日にはシルエットゲストとして出演。
- 三波豊和(大会名不詳。余談だが小池と同じ8月10日生まれ)
- キャシー中島…「私のふるさとハワイよ」と語った。
- ミスター梅介
- 西岸良平…『漫画家大会』
- 森本栄浩(MBSアナウンサー、当時は関学大生)…1982年
- 郡和子(元:TBCアナウンサー、現・衆議院議員)…1982年9月26日の「美人女性アナウンサー特集」(出場当時は旧姓・高橋)で。当時のJNN系列各局の若手人気女性アナウンサーが競った。
西郷時代
15・20周年記念全国大会
番組開始15周年の1978年、及び20周年の1983年には、それぞれ『アップダウンクイズ○○周年記念全国大会』が行われた。
放送期間
「15周年記念全国大会」は、1978年8月20日から9月24日にかけて全国6地区ごとに予選大会、10月1日に決勝大会(第773回)が行われ、関東地区代表の早稲田大学学生・宮内博之がアップダウンクイズ日本一となった。「20周年記念全国大会」は、1983年7月24日から9月4日(8月21日は日曜ナイターのため休止)にかけて全国6地区ごとに予選大会、9月11日に決勝大会(第1003回)が行われ、こちらも関東地区代表の東京学芸大学学生・道蔦岳史[26]がアップダウンクイズ日本一となった。また8月14日放送の近畿地区大会で記念すべき1000回を迎えている。
15・20周年記念とも、アップダウンクイズ日本一になった宮内・道蔦にはそれぞれ副賞として「ハワイ旅行4名分」が贈られた。
ルール
- 15・20周年記念とも、一般参加者の他に、この大会に限っては番組出場後3年以内の者も参加できた。
- ブロック毎の出場者は通常と同様、6地区に分けられ、関東及び関西地区は都府県を問わず筆記問題等を上位で通過した6名が出場、その他の地区はネット局の県ごとに1人ずつ(北海道は北・南から1人ずつ)出場した。
- 地区大会では、10問正解が1人だけの場合は自動的に決勝大会出場となり、2人以上10問正解が出た場合はプレーオフ[27] をして1人に絞った(15周年の中国・四国・北九州地区大会と20周年の中部・甲信越地区大会が該当。ルールは『パネルクイズ アタック25』の同点決勝と同じで、1問正解で勝利、誤答は他の解答者に解答権移動)。また、放送(収録)時間内に10問正解が1人もいなかった場合には、最高得点者(段数)が決勝大会出場(20周年の九州地区大会が該当)となった。
- また、決勝大会も上記のルールで行われた。
- 通常の回と同じように、10問正解を達成した場合のくす玉割り・紙吹雪とハワイ旅行、並びにまた20周年記念の場合、例によって10問正解にリーチをかけたときのスポットライト、ドラムのロールの演出はあった。
大会の概要
- 15周年記念全国大会の地区大会では、最初にオープニングテーマ曲が流れ、小池が「アップダウンクイズ15周年記念全国大会!」と宣言した後に番組タイトルロゴ+15周年記念全国大会○○大会の看板がズームアップされて、日本列島を模したパネルを背景に小池が登場し挨拶した。
- 20周年記念大会では、最初に小池が「アップダウンクイズ20周年記念全国大会○○大会!」と宣言した後にオープニングテーマ曲が流れた。この後にアシスタント(ゴンドラギャルズ)が地区ごとのプラカードを持って出場者が入場した。
- 地区大会では、過去の10問正解者はもちろん(中でも20周年記念の関東地区大会は、出場した6名全員が過去に同番組で10問正解の実績を持っていた)、他のクイズ番組で優勝実績を持つ者も多く参加し、決勝出場をめぐって熾烈な争いが繰り広げられた。
- 15周年記念全国大会のシルエットゲストは、予選では北海道・東北が藤山一郎、中部・甲信越が小沢栄太郎、関東がボクサーの工藤政志、近畿が玉置宏、中国・四国・北九州がいずみたく、中/南九州・沖縄が植村直己で、決勝大会は当時、同じロート提供の日本テレビ『ほんものは誰だ?!』のレギュラーをしていた遠藤周作だった。
- 20周年記念全国大会のシルエットゲストは、関東地区大会では後に司会となる西郷、近畿地区では15周年の中/南九州・沖縄地区大会に解答者として出場した宮崎美子だった(他に北海道・東北は叶和貴子、中部は渡辺美佐子、中国・四国・沖縄は谷川浩司、九州は朝潮がそれぞれ務めた)。そして決勝大会は島倉千代子だった。
- 地区大会から決勝に勝ち進んだ各ブロックごとの出場者には、ミニカップが贈呈され、決勝大会ではゴンドラの右側に置かれていた。そして全国大会の優勝者にはゴールデンカップが贈られた。[28]
- 地区大会のプレーオフ敗者や全国大会進出者も10問達成の場合、通常通りのハワイ旅行が与えられた。
これらの大会とコンセプトが類似したものとして、最終回の一つ前(1985年9月29日放送)に「投げたらイカン!!チャンピオン大会」が行われ、今までの10問正解・ハワイ旅行達成者の中から、さらなる成績を収めた者が出場した。
なお、小池が2012年4月28日に逝去した際にも、訃報が伝えられた4月29日の関西ローカルニュース『毎日新聞テレビ夕刊』にて「15周年記念全国大会」決勝大会当日の映像と、当時のオープニングタイトルが使用された。
エピソード
小池清のエピソード
- 番組のルーツである『近鉄パールクイズ』で1955年10月に入社2年目(1954年MBS(当時は新日本放送)入社)の小池が司会を担当することになり、同時に10問正解で賞金5万円となる一方、3問誤答で失格・退場となるルールに変更された。小池はこの『パールクイズ』にて臨機応変でスピード感あふれる進行ぶりを発揮し、全国区の知名度になった。その後『パールクイズ』の当時のスタッフが「これをテレビで放送したらもっと面白いだろう」と言ったのが番組立ち上げの発端だった。
- 『パールクイズ』、『アップダウンクイズ』ともに、番組構成と放送時間と編集の関係上、解答者へのインタビューはほとんど行わないほど慌しかった。
- 解答者が誤答したり、ボタンを押したものの言葉が出てこなかったりすると、必ずといっていいほど小池が解答者と一緒に「う〜ん…?」と唸っているうちに誤答のブザーが鳴ってゴンドラが最下段に下がる、というパターンがお約束のようになっていた。
- 不正解になっても、解答者に対し、「これは意地悪な問題でしたね」等の毒舌的なことは一切言わず、「う〜ん!残念!残念!」や「これは〇〇ですよ!」や「がっかりしないで下さいね!」と言う感じで語りかけていた。
- 当時「自分は不器用だから」と言っていたのに対し、当時のプロデューサーは「そんなことはない。結構勉強家で、記憶力もあり、昔出た問題や出場者、シルエットゲストまでよく覚えていて、驚きだった」と語った。
- 司会者とは言え「あくまでも主役は解答者の皆さんで、私は裏方みたいなもの」(『TVガイド』でのインタビューより)や「良い意味でのマンネリが定着している。シンプルで内容の多様性が受けていると思う。司会者の人柄をおっしゃってくれる方もいるが、司会者が目立つような番組ではいけない。目立たない司会者ということを最初から心掛けてきた。アップダウンのルールやシステムはもう完成品で、われわれとしては繰り返してきただけ。それを長持ちさせたのは結局、解答者だ。解答者は画面そのものが明るくなるような見ていて楽しくなるような方でないといけない。スタッフだけで出来るものではなく、出場者の個性で持っていると思う」(週刊誌のインタビューより)と語っていた。
- スポンサーがロート製薬であり、製薬会社提供番組の司会者が病気で番組を休むと洒落にもならない、という経緯から健康に留意し、出題者時代から20年間・1004回の間一度も休むことなく続けた。
- 解答者が問題の途中で早押しボタンを押すと「いいんですか?」と発言することが多かった。
- 小池は大半の時間帯、もの静かに番組を進めているが、ゴンドラが二段階以上上がったり7 - 8段目に上がったりするなど盛り上がる場面では声を張り上げることが多かった。
- クイズ終盤で、必ず「残り時間〇分少々!」とコールし、そのあとは不正解がない限りリアクションなく次々と問題が出され、最終問題になると「あ〜っ、時間なくなっちゃった!!これが最後の問題!」とアナウンスしていた。ただし、末期では最終問題になると電子合成音のチャイム(このチャイムは西郷時代も数か月使われた)が流れ、「あ〜っ、チャイムが鳴ってしまいました。ここでラッキークイズです」とアナウンスしていた。
- 解答者で現役時代の輪島大士が出た時のエピソードでは、ボタンを押したものの答えが出て来ず「えーと…」と呟いたところ「はい正解!」とゴンドラがアップ。きょとんとする輪島。実は問題の正解が「江戸」で聴き間違いと分かり、後から聞いた小池が「えー?」と驚いたとの逸話がある。
- 小池の司会の最終日となった1983年9月25日放送回は、「20周年記念・20歳の青春」と題して、放送が開始された1963年生まれの者を出場者にして行われた。
その他に
- 1980年代に入ると、新聞の番組表のサブタイトルに、その日のシルエットゲストのヒントとなるような副題をつけていたことがある。このような半ばネタバレともとれるようなものは『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)、『パネルクイズ アタック25』(ABC)でもよく見られている
番組終了とその後
小池司会の末期である1980年代に入ると、20周年を迎えた1983年秋改編で番組内容のリニューアルを行った。
まず、初代出題者と2代目司会者として20年担当した小池が勇退して西郷に交代。次いでゴンドラをはじめセットを豪華に変え、番組名も『新アップダウンクイズ』に改めるとともに、一部のルールを変更した。1984年4月以降はルールを「シンクロクイズ」を除いて元に戻した。
そんな中、番組開始からハワイ旅行の協賛スポンサーだった日本航空が、1985年8月12日に国内で墜落事故(JAL123便)[30]を発生させたことで協賛継続が不可能となり、斎藤守慶社長(当時)が終了を決断せざるを得なくなった。同年6月に就任したばかりの斎藤にとっては、社長としての最初の大仕事が当番組の終了決定となってしまった。テンプレート:Mainテンプレート:See also
そして1985年10月6日放送の「22年間ありがとう!!シルエット大会」[31]をもって、22年・1084回で終了した。番組最終回放送日は第1回放送日(1963年)と同じ10月6日だった。
『アップダウンクイズ』で22年間に出題された問題は50000問以上にのぼり、総出場者数延べ6500人、そして延べ680人のハワイ旅行・アメリカ西海岸旅行獲得者を出した。またシルエットゲストを務めた人は延べ840名にのぼった。最終回エンディングでは、誰もいなくなったスタジオを背景に、「22年の記録」と称した字幕スーパーが上向き・横文字ロールにて表示された。
10月13日からは、この番組と同じくロート製薬一社提供の『クイズ!!ひらめきパスワード』が開始。末期にはロートを含む複数社提供となり、1992年3月29日まで継続した。その後、日曜19時枠はキー局であるTBSの製作枠となり、ロートと同じ大阪に本社を置く武田薬品工業一社提供の『さんまのからくりTV』を経て、現在は2012年4月に前身番組『からくりTV』から放送20周年を迎えた『さんまのSUPERからくりTV』を放送している。
初代出題者と2代目司会者を担当した小池は、番組終了から26年半後の2012年4月28日に、80歳で永眠した。翌日(4月29日)の『毎日新聞テレビ夕刊』と5月1日の『ちちんぷいぷい』(小池が前年9月末まで水曜日のコーナーナレーターを担当、いずれも関西ローカルのテレビ番組)では、小池の訃報を伝える際に、当番組「15周年記念全国大会・決勝大会」の冒頭映像を流した。
同番組のクイズ形式を行っていた番組・CMなど
テレビ朝日『クイズタイムショック』と共に特徴的な番組であるためか、放送終了後20年以上経った現在でも比較的頻繁にパロディ・オマージュが見受けられる。以下、番組として製作局のMBSならびにTBS系列で放送されたものを主に記載する。
- TBS『8時だョ!全員集合』:後半コントで、「アップダウンクイズ」のコントが放送された。ゴンドラは2代目初期の物で、コントの関係から4台しかゴンドラが無かった。このコントは、全員が2問ずつ間違えて、「お出」になるのが落ちだった。なお、このコントを演じたザ・ドリフターズは、MBSが1975年3月にネットチェンジする時のPRキャラクターだった。
- TBS『タモリのスター対抗クイズ番組大集合』:タモリ司会。佐々木が出題。1983年10月2日、文字通り当時のTBS系列のクイズ番組が集結した2時間特番で、本番組も織り込まれた。小池最後の回と西郷最初の回のちょうど間にあたり、ゴンドラは2代目最末期のものに準じていたが、4チームだったため4台しかなかった。テーマ音楽も小池時代のものを流用。当然「ロート」の表示はなかった。このコーナーの問題で「タモリ、ヤモリ、イモリ、果たして人間は誰でしょう?」の珍問が出題された(もちろん正解は、司会だったタモリ)。 この特番が2代目ゴンドラとしての最後の出番となった。
- TBS『クイズまるごと大集合』:番組自体が終了した後、番組改編時特別番組で一度だけ織り込まれたことがある。番組自体が終了してから折り込まれたため、ゴンドラは模して造られた。
- MBS『40周年記念・新社屋完成記念特別番組』(関西ローカル):1990年9月1日放送。梅田・茶屋町に移転したのを記念してMBS番組対抗で最初の復刻版が放送された。
- MBS『放送禁止06ライブ』(関西ローカル特番・1992年4月10日放送)で司会・小池、出題・佐々木のアップダウンクイズがコーナーで復活。清水興、野村義男、石田長生、忌野清志郎、有山じゅんじ、中島らも(解答席順)らが挑戦したが、シルエットクイズを終えた時点で打ち切ってしまい、場面がライブに変わってしまった。ゴンドラなどのセットは西郷時代のものを使用していた。(失格時に×マークが閉じるシステムは変わらないが、アシスタントが設置する失格札は新規のものを使用していた)。正解時に小池の「よろしいです!!」や「その通り!!」のフレーズはあるが、正解チャイムが流れていた。ただし、西郷時代の電子音ではなく、普通のチャイム音(2回鳴る)である(勿論ゴンドラ落下時の電子音もなかった)。効果音はオープニングテーマとシルエットクイズのジングルが初代(1963年開始)で、小池の「ハワイ旅行を目指して大いにがんばっていただきましょう!!」(「日航機による」は外されていた)のフレーズの後のファンファーレ、シルエットクイズのシンキングタイム(各ヒント終了時)、2問不正解・失格退場のBGMは小池時代末期のものを使用していた。また冒頭のフレーズも「ロート製薬」の部分を「MBS」に変えて「MBSがお送りするアップダウンクイズ」とした。もちろんゴンドラ部分には「ロート」の文字はなく「アップダウンクイズ」のロゴのみである。
- MBS「新・たかじんが来るぞ」(関西ローカル):番組終了から8年後の1993年、やしきたかじん司会で、当時MBSアナウンサーだった石田敦子 が出題。西郷時代に使われたセットを使って復刻版が行われた。この時のシルエットクイズのゲスト(正解)は、当時MBSを定年退職して関連会社・MBS企画の社長を務めていた小池であり、番組誕生や秘話などのエピソードを語った。結果はハイヒールモモコが7問正解と言う記録を作った。問題の正誤判定もたかじんの裁量で正解と認められたり、誤答と認められた事もあった。
- MBS「開局50周年記念特番『激動の半世紀!復活あどランでOH!OH!』」(関西ローカル・2001年9月9日放送)
- 『ヤングおー!おー!』と『あどりぶランド』の特番ともいえる。一企画として、司会・小池、出題・佐々木のアップダウンクイズが復活。放送はMBSスタジオ in USJからだったが、ゴンドラなどのセットは西郷時代のものを使用していた。このとき出演者は、セットに「ロート」の文字がないことへの違和感を語っていた。 解答者は次の通り。
- 1枠 桂三枝(現・六代桂文枝)・松井愛
- 2枠 月亭八方・西村麻子
- 3枠 赤井英和・石田敦子
- 4枠 藤本永治・松川浩子
- 5枠 吉田智子・上泉雄一
- 6枠 野村啓司・武川智美
- 三枝と野村は本放送時代にも解答者としての出演の経験者でもあり、さらに三枝は西郷時代にシルエットゲストも経験している。約20問足らずで終了し、月亭八方・西村麻子ペアが4問正解という低調な記録を作った。
- その他、番組ではなかったが、西日本電信電話(NTT西日本)のフレッツで、天海祐希がCMキャラクターを勤めていた頃にアップダウンクイズをパロディ化したものが放送された。順調に正解を重ねて優勝間近というところの最後の問題で不正解となり、0点まで「お戻り」になるが、月額利用料が安くなるということで驚きながら喜ぶというオチがあった。
- FNS『北野タレント名鑑』 司会:北野武(ビートたけし)、ガダルカナル・タカ アシスタント:戸部洋子(フジテレビアナウンサー)
- 解答者5名がゴンドラに乗って、クイズに正解すると1段階アップし5問正解でPRができた(4問以下だと顔出しされない)。途中から上から下に1段階下がる形に変更された。不正解だと0点に戻された。
- FNS『爆笑!オールスタークイズ王決定戦』 司会:研ナオコ、高田純次、松本伊代 出題者:西村知江子
- スペシャル番組として『金曜ファミリーランド』または『火曜ワイドスペシャル』で、計3回放送された。予選では、出場者6名がゴンドラに乗り正解すると1段階アップし、時間切れまでに正解数の多かった人2名が決勝に進める(AブロックとBブロックで2回行う、1回だけCブロックまで3回行われた)。 決勝は予選を通過した4名と敗者復活の2名により行われ、10問正解で優勝、不正解だと0点に戻された。林家こぶ平(現・九代目林家正蔵)、上岡龍太郎などが優勝。
- TBS『頭脳の祭典!クイズ最強王者決定戦!!〜ワールド・クイズ・クラシック〜』
歴代テーマ音楽担当
- 田中正史(開始-1975.12)…当初はブラス系[32]だったが、後に(時期は不詳)オーケストラに近い曲調となった。
- 南安雄(1976.1-1979.2)…ゴンドラ背後のロート製品名が無くなってから使われ始めた。オープニング/エンディングテーマはブラス系、シルエットクイズ開始のジングル音や10問正解時のファンファーレはオーケストラ調。「目で見るクイズ」のシンギング時のBGMや、「お戻り」のジングル音にもオープニングのアレンジが使われた。
- 宇崎竜童(1979.3-11)…シンセ系。
- 田中正史(1979.12-1983.9)[33]…ゴンドラの色分けと同時に変更され、小池司会の最終日まで使用。初代テーマのリニューアル版でオーケストラ調。オープニングでは冒頭にティンパニのロールがある。小池の出場者紹介後の「ハワイ旅行めざして…」と述べた後にもジングル音が入った。シルエットクイズ開始のジングル音は行進曲のファンファーレに近い。
- 中川昌(1983.10-最終回)ブラス系。後に「お出・お戻り」ルールの復活に伴い、オープニングテーマのみ変更された(シンセ+ブラス系)。
スタッフ
1980年頃から最終回まで
- 構成:堤章三、福岡秀広、杉本士郎、三田村明彦(堤以外の3人は西郷時代のみ担当)
- ナレーション:柏木宏之(MBSアナウンサー・「新」のみ半年間担当)
- ディレクター:? ⇒小川智・浦川雅至⇒尾嶋啓憲[34]
- プロデューサー:金子俊彦⇒柳川正邦[35]
- 技術:? ⇒眞田昌輔⇒三浦邦彦⇒小泉博
- 美術:? ⇒川口勤⇒高橋輝光
- 製作著作:毎日放送
放送局
1963年10月6日から1975年3月30日まで
系列は放送当時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
近畿広域圏 | 毎日放送 (MBS) |
NETテレビ系列 | 製作局 |
関東広域圏 | NETテレビ (NET) |
現・テレビ朝日(EX) | |
中京広域圏 | 名古屋放送 (NBN) |
現・名古屋テレビ放送(メ〜テレ) 1964年10月から1966年9月まで、1973年4月から 1973年3月まで日本テレビ系列とのクロスネット局 | |
岡山県 | 岡山放送 (OHK) |
フジテレビ系列 NETテレビ系列 |
当時の放送エリアは岡山県のみ 1970年11月から1975年3月30日まで |
山口県 | 山口放送 (KRY) |
日本テレビ系列 | 関門局のみ 1963年10月から1964年9月まで[36] |
香川県 | 瀬戸内海放送 (KSB) |
NETテレビ系列 | 当時の放送エリアは香川県のみ 1971年11月から[37] |
福岡県 | 九州朝日放送 (KBC) |
1964年10月から[36] |
1975年4月6日から1985年10月6日まで
1975年4月6日以降は腸捻転解消に伴いTBS系番組となり、TBS系列局でネットを開始した。 ※系列は放送当時のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
近畿広域圏 | 毎日放送 (MBS) |
TBS系列 | 製作局 |
関東広域圏 | 東京放送 (TBS) |
現・TBSテレビ | |
北海道 | 北海道放送 (HBC) |
[38] | |
青森県 | 青森テレビ (ATV) |
||
岩手県 | 岩手放送 (IBC) |
現・IBC岩手放送 | |
宮城県 | 東北放送 (TBC) |
||
福島県 | 福島テレビ (FTV) |
フジテレビ系列 | 1983年9月25日に打ち切り 1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局[39] |
テレビユー福島 (TUF) |
TBS系列 | 1983年12月4日から放送 | |
山梨県 | テレビ山梨 (UTY) |
||
長野県 | 信越放送 (SBC) |
||
新潟県 | 新潟放送 (BSN) |
||
静岡県 | 静岡放送 (SBS) |
||
中京広域圏 | 中部日本放送 (CBC) |
現・CBCテレビ | |
石川県 | 北陸放送 (MRO) |
||
岡山県 ↓ 岡山県・香川県 |
山陽放送 (RSK) |
1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ 1983年4月より相互乗り入れに伴い香川県でも放送[40] | |
鳥取県・島根県 | 山陰放送 (BSS) |
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広島県 | 中国放送 (RCC) |
[41] | |
山口県 | テレビ山口 (TYS) |
TBS系列 フジテレビ系列 |
1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局[36] |
高知県 | テレビ高知 (KUTV) |
TBS系列 | |
福岡県 | RKB毎日放送 (RKB) |
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長崎県 | 長崎放送 (NBC) |
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熊本県 | 熊本放送 (RKK) |
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大分県 | 大分放送 (OBS) |
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宮崎県 | 宮崎放送 (MRT) |
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鹿児島県 | 南日本放送 (MBC) |
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沖縄県 | 琉球放送 (RBC) |
関連書籍
- 『アップダウンクイズ』 (二見書房発行・サラブレッドブックスシリーズ)1978年11月発行・新書判。番組放送15周年を記念しての出版で、表紙には当時のゴンドラを背景に小池・佐々木コンビの写真があり、サブタイトルとして「35000題から選び抜いたハイレベルの2000題…」と書かれている。問題集本編は、番組担当者のアドバイスから始まって、予選問題、放送された15年間の出来事を背景にした問題、番組の各クイズコーナーを元にした「トレーニング編」、そして繰り返し挑戦して実戦力を身につけられる「チャレンジ編」で構成されている。現在は絶版で古書店にもほとんど出回らず、入手は難しくなっている。
- 社史『毎日放送の40年』1991年発行、『毎日放送50年史』2001年発行(いずれもA4判・非売品)前者は開局40周年、後者は50周年を記念して発行された社史で、全国の都道府県立図書館で閲覧可能。『毎日放送50年史』の付録であるDVD-ROMには、1975年4月6日(第600回)放送分のハイライトシーンが収められている。
- 『放送の世界に生きて』風詠社発行 2009年6月発行、「アップダウンクイズ」を長年担当してきた金子俊彦が、自身と放送とのかかわりを記述した内容で、「アップダウンクイズ」の思い出や構成者堤章三との思い出が書かれている。
関連グッズ
- スクールパンチ『アップダウンクイズゲーム』(タカラ(現在のタカラトミー))1980年 - 1982年頃発売。ボードゲーム。解答者枠が4枠までしかなかった。
- 『アップダウンクイズゲーム』(タカラ(現在のタカラトミー))1980年 - 1982年頃発売。パッケージには松下進のイラストが描かれている。こちらは、解答者枠が6枠まであった。
脚注
関連項目
- クイズ番組
- 世界一周双六ゲーム - 末期の裏番組で、ABCテレビ制作・テレビ朝日系列で放送。
- キン肉マン - 原作第7巻に本作そっくりのクイズ番組が登場、キン肉マンとミートが出場したが10問目で意地悪問題をキン肉マンが誤答。キン骨マンが正解し優勝した。
外部リンク
- TVクイズ大研究-アップダウンクイズ
- TVクイズ丸金必勝マニュアル
- 三精輸送機(「特殊機構」の分野で、ゴンドラ昇降装置の製作を担当した)
- ↑ 市村の降板理由は、後年(1980年)TBS『奥さま8時半です』に小池が出演した時、市村の仕事(俳優)が多忙を極めたためだと、小池の口から語られた。
- なお、この時は市村がゲスト出演し、久し振りに小池と顔を合わせた。
- ↑ 10月2日は本番組が内包された秋の改編期特番『タモリのスター対抗クイズ大集合』が放送された。このときも佐々木が出題者として出演している。
- ↑ ただし、1970年3月から9月に開催された日本万国博覧会に伴う関連番組制作の都合上、同年5月3日から10月18日放送分は東京都港区六本木にあったテレビ朝日(当時の日本教育テレビ(NET)本社と全く同じ場所)での収録となっている。
- ↑ ただし、1985年8月12日の墜落事故で協賛を降板。カウキャッチャーも事故以降は放送されず、時報とともに「♪ロート…」のオープニングキャッチとなった。
- ↑ 「ロート製薬提供、(番組名)」のオープニングコールは、後継番組『クイズ!!ひらめきパスワード』でロート製薬が一社提供を取り止める1991年9月下旬まで使われた。
- ↑ 他にもロート製薬単独提供であるTBS「クイズダービー」等でも言っていた。
- ↑ しかし1986年秋の番組改編でTBS系のゴールデン・プライムタイムに放送されるすべての番組にクロスプログラムが導入されると、「この番組は、ロート製薬の提供でお送りしました。」→チャイム音入りエンドカード→次枠番組の案内から成る3部構成に変更された。
- ↑ このスタッフロールは後番組の「クイズ!!ひらめきパスワード」でも同じ形式だった。
- ↑ ペア大会の時は、中期までは2人一緒にゴンドラに乗っていたが、後に1名が前半・後半(シルエットクイズ以降)に分けて乗る様になった。
- ↑ 1964年4月からの海外旅行自由化を見据えて企画された。
- ↑ 一部のVTR問題では誤答した場合(この時点で「お出」とならない場合)でも問題VTRの続きがあるため、誤答した本人を含め、全員に解答権がある。
- ↑ 勝ち抜きの解答者が2週目、3週目の時は解答者の胸に花が付けられる
- ↑ このルールになってから、勝ち抜きの解答者を「チャレンジ1・2・3」と呼び、1週目の10問正解者をV1と呼び、2週目の10問正解者をV2と呼び、さらに3週連続10問正解してペアでのアメリカ西海岸旅行と賞金30万円獲得者をV3と呼び、なおかつ「V3チャンピオン」と呼んでいた(この辺りから、アップダウンクイズで「チャンピオン」と表現するようになった。それまでは長いこと「チャンピオン」(ただし、20周年記念特集の際に小池が「チャンピオン」と言っていたことがある)や「優勝」とも一切言わず、「10問正解・ハワイ旅行」と表現していただけだった)。
- ↑ ただし、1980年にフジテレビの『クイズグランプリ』が終了、代わりにABCの『パネルクイズ アタック25』(優勝)が加わった。
- ↑ MBSが制作・放送していた番組の多くは、大阪吹田千里局、大阪中央郵便局(『突然ガバチョ!』)、東京芝郵便局(『世界まるごとHOWマッチ』、『世界まるごと2001年』)だった。
- ↑ 新井たかし『クイズで儲けろ』の表紙カバーに当時のゴンドラ写真あり。
- ↑ 『毎日放送の40年』174〜175ページに記載。当時のゴンドラは150kgが限度だった。
- ↑ 正面部分のみ。側面はブロンズのような色であった。
- ↑ 両者の相違点はゴンドラが上下する際の音が、小池時代のワイヤーロープ式は動く時に“ゴン”と強く響くのに対し、西郷時代のチェーン式は“カチャ”っと弱い音が動く時と動きが止まるときに発するのが特徴
- ↑ この時はスタッフがはしごによじ登ってザルに入れていた紙吹雪を撒いて行っていた。
- ↑ 訃報:小池清さん80歳=元毎日放送アナウンサー(2012年4月30日<同日閲覧> 毎日新聞)の写真後方のゴンドラ回答席の頭上に、6人分の造花で覆われたくす玉が吊るされてあるのが掲載されているが、解答者の位置によって吊るす高さが一定ではなく、異なっていた。
- ↑ 後に1967年8月6日の「200回記念・夏休み中学生特集」ではシルエットゲストを務めている。
- ↑ 最終回の問題で「次のうち、有名人で初めて10問正解したのは誰でしょう? 野球の王貞治・映画監督の大島渚・作家の野坂昭如」と出題されていた。
- ↑ 過去にも出場していたが、このときは9問目で誤答、0に転落した。
- ↑ 現在、ロート製薬が提供しているMBS制作のネット番組。
- ↑ 1982年5月23日放送回でも、シルエットクイズ(ゲストは小松左京)の第1ヒントで正解し、一気に10問正解を達成している。
- ↑ このときは通常問題終了後、ゴンドラをすべて降ろしてから出場者が解答席を離れ、プレーオフに進む出場者のみ中央寄り(3・4番)の解答席に座る形となっていた。ただし正解してもゴンドラは上げない。10問正解者がプレーオフに進出した場合は、ハワイ旅行獲得記念のフラワーレイをかけたまま回答していた。
- ↑ なお、ゴールデンカップの贈呈は西郷時代の後期(3週勝ち抜き制)に復活し、3週連続10問正解・アメリカ西海岸旅行・賞金30万円の達成時に贈呈された。
- ↑ その際、この時に限って『アップダウンクイズ』の看板のタイトルロゴが丸みを帯びていたが、結局は元のロゴが継続使用された。『毎日放送の40年』にもこのシーンの写真が掲載されている。
- ↑ 事故の翌週から3週間はプロ野球中継に差し替えられ、再開後も断りのテロップ表示(前述)や客室乗務員登場シーンの割愛が行われた。
- ↑ この大会では、ファイティング原田、マッハ文朱など、シルエットゲスト経験者がペアでクイズに臨んだ。だが、10問正解ペアは1チームも出ずに終わった。フィナーレでは出場チーム全員が西郷・佐々木・アシスタントと共にゴンドラ前に並び、西郷が終了に当たって「小池清さんに敬意を表します」というメッセージを述べていた。
- ↑ 2007年10月10日にソニーミュージックから発売されたコンピレーションアルバム「日曜夜のテレビは哀愁」の6曲目に収録されている。
- ↑ CD「ブロードキャスト・トラックス 毎日放送編」ではこのオープニング(小池の番組冒頭のあいさつ部分を含む )とハワイ行き決定のBGMが収録されている。
- ↑ 1983年から最終回まで担当。
- ↑ 金子は後継番組『クイズ!!ひらめきパスワード』の構成、柳川は同番組のプロデューサーを1989年頃まで担当。
- ↑ 36.0 36.1 36.2 九州朝日放送では1964年10月にテレビ西日本が日本テレビ系列からフジテレビ系列にネットチェンジしたのに伴い、それまで関門2県のネット局だった山口放送(関門局)の番組が徳山局(現・周南局)と同一の編成になったため当番組のネットを開始。そのため、山口放送では1年で番組が打ち切られた。ちなみに山口県での当番組の放送は1975年4月に当番組がTBS系列番組に変更されたと同時にテレビ山口で放送を再開し、山口放送関門局エリアでは10年半ぶりにネットが復活した他、山口放送周南局エリアでは初放送となった。
- ↑ ただし、腸捻転解消直前に終了となり、MBS・吉本興業制作の番販番組『日曜りくえすと寄席』を同枠で放送していた。
- ↑ NET系時代、当該系列局の北海道テレビはフルネット局でありながらネット対象から外れたため、当初は札幌テレビの編成から外れたフジテレビ系の遅れネット番組等で穴埋めしていたが、北海道文化放送の開局後は、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の番組や自社制作ドキュメンタリー番組等で穴埋めしていた。
- ↑ 福島テレビは1983年4月にフジテレビ系列(FNN系列)にネットチェンジ後も、視聴者保護等の関係で1983年9月まで同局で放送されていた。同年10月から11月までは福島県内では放送されなかった。テンプレート:独自研究範囲。
- ↑ ただし、香川県では相互乗り入れ以前から山陽放送(RSK)やMBSを通じて視聴可能であった。
- ↑ NET系時代、当該系列局の広島ホームテレビはフルネット局でありながらネット対象から外れたため、NET系(『もーれつア太郎(第1作)』『ジャンボ尾崎のチャレンジゴルフ』等)または広島テレビの編成から外れたフジテレビ系の遅れネット番組等で穴埋めしていた。