高橋圭三

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テンプレート:基礎情報 アナウンサーテンプレート:政治家 高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本フリーアナウンサー参議院議員。元NHKアナウンサー

略歴

NHKアナウンサー

  • アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけ。1942年10月に入局(同期に宮田輝)。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。
  • 1948年1月19日に長女:光が誕生。
  • 1950年1月 - 1954年9月は慶応病院で療養。
  • 地元のラジオ岩手の初期のアナウンサー養成も担当。
  • 1953年 - 1961年まで『NHK紅白歌合戦』の白組司会を9年連続で担当、これは後輩の山川静夫に並び連続白組司会の最長記録となっている。
  • 1960年2月、紺綬褒章を受章。

日本初のフリーアナウンサーへ

国会議員以降

  • 1977年、ライバル・宮田輝と同じく、第11回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で出馬し当選。当選後は自由民主党に所属し、1期務めた。翌1978年、数人の有志とともに社団法人「虹の会」を設立し理事長に就任[1]、最晩年まで老人ホームへの巡回・講演活動を行うなど福祉活動にも積極的に参加した。
  • 1983年、比例代表名簿導入後初の選挙となった第13回参議院議員通常選挙に2期目を目指して立候補したが落選。以降、年に数回の頻度のテレビ出演となる。また、アナウンス塾を開講し後進の指導を続けた。
  • 1988年、長年の放送業界に対する貢献により、勲三等旭日中綬章を受章。
  • 1994年、岩手県人連合会の会長に就任、『花巻まつり』に毎年顔を出すなど、郷土の発展にも尽力。
  • 2000年、この年の『花巻まつり』に参加。しかし帰郷した直後から体調を崩し入院、以後回復することなく、2002年4月11日、腎不全のため死去。享年83。

エピソード

NHKアナウンサー時代

  • 様々な場面で多様な意味で使われる「どうも」が広まった説として、高橋が『私の秘密』で使っていた「どうも、どうも」という言葉や、認知度が高まり多くの人に声を掛けられる事が増えたものの、知人であっても名前が思い出せない、そもそも会ったのかさえ覚えていないという事が増え、相手を不快にさせないため「どうも、どうも」と言ってごまかしたという説がある[2]

フリーランス以降

  • 1962年のNHK専属契約解除後、“日本初のテレビ情報誌”として、アメリカの「TV Guide」誌に範をとって創刊された「週刊TVガイド」の創刊号の表紙を飾っている。
  • 日本初のワイドショー番組モーニングショー』(NET)は、当初、高橋をメインホストとすることで企画が進んでいたが、高橋は当時多忙を極めており、また、NHK時代に肺結核を患い長期療養を強いられた過去があり、自身の健康面に不安があったことを理由にこの話を辞退している。そして代わって抜擢されたのは同じNHK出身の後輩・木島則夫だった。
  • ピンク・レディーがレコード大賞を受賞した際の受賞曲披露の前に以下のコメントを述べて、ミーケイは感激の余り号泣した。

テンプレート:Quotation

主な司会担当番組

担当番組

NHK
日本テレビ
TBS
フジテレビ
テレビ朝日
  • ゴールデン・アロー賞(1980年代中期まで)
    日本雑誌協会主催。授賞式特番が開始される1981年(1980年度)以前から司会を担当。高橋が亡くなった2002年度には同賞やテレビ・雑誌(先述「TVガイド」創刊号表紙)での貢献度を考えると、高橋に「特別賞」(1990年代以降、その年度に他界した芸能人の受賞が多かった)が贈られてもおかしくなかったところだが、同年度の特別賞は該当者なしだった。
東京12チャンネル
  • 心で歌う50年(1974.4-1977.3)
  • くらぶ圭三(1967.10-1969.9)
  • 圭三・歌うロマンスタジオ(1969.10-1972.9)
  • スター思い出のスタジオ(「歌うロマンスタジオ」の前座番組として放送、1971.4-1972.9)

その他

関連項目・人物

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:NHK紅白歌合戦 白組司会

テンプレート:日本レコード大賞 歴代司会者
  1. テンプレート:Cite web
  2. どうも!にほんご講座です。 - 2011年4月2日放送、第1課