橋本欣五郎

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橋本 欣五郎(はしもと きんごろう、1890年2月19日 - 1957年6月29日)は、昭和時代の日本陸軍軍人政治家衆議院議員1期)。右翼活動家。たびたびクーデターを試みたが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で訴追された。通称「ハシキン」。

来歴

岡山県岡山市に生まれ7歳の時福岡県門司市に移る。高等小学校から1904年9月、熊本陸軍地方幼年学校入学。陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(23期)から陸軍大学校(32期)に進学し、トルコ公使館武官。この時、ムスタファ・ケマル・パシャ革命思想に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」となったらしい。

その後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を組織。三月事件十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる。戦後の東京裁判において、A級戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている(木戸幸一も同様の見解を示していた)。

また、1936年2月の二・二六事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で予備役へ回される事となる。

その後、日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集されたが、南京攻略戦の際の1937年12月12日に、イギリス砲艦レディバード号に被害を与え(レディバード号事件)、さらに日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するよう命令し、アメリカの砲艦パナイを撃沈し死傷者を出す(パナイ号事件)という責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。

予備役中の1936年に大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。1942年翼賛選挙衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した。

極東国際軍事裁判A級戦犯として起訴され、終身刑。仮釈放後も、獄中で「思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし」と詠んでいた様に、国家改造を志す野心は変わらず、1956年第4回参議院議員通常選挙全国区に、政党の公認や資金も無い状態で周囲が止めるのも聞かずに無所属で立候補したが、落選している。

1957年6月29日肺癌により死去。享年67。

橋本には、出獄後に結婚した3度目の妻がいたが、橋本の臨終間際に離婚を申し出て去っていった。葬儀は、三月事件以来サポートを受けていた徳川義親が面倒を見た。

人物

生前の彼を知る人物の証言によれば、性格は非常にヒステリックで常軌を逸した行動が多く、現役時代に受けた懲罰は60回以上にも及ぶという。極東国際軍事裁判の公判中においても、ごく些細な事から激昂し、法廷控室において白鳥敏夫の顔面を眼鏡が飛ぶ程殴打した事がある。

また石原広一郎からは、巣鴨プリズンに拘置されたA級戦犯の中で、若いBC級戦犯にとって最も見本にならない利己主義的な不平を口にする小人物として、豊田副武海軍大将佐藤賢了陸軍中将と共に名前を挙げられている。

極東国際軍事裁判の際には、全被告の中で唯一アメリカ人の弁護人がつく事を頑なに拒み続けた。

一方で橋本は、の才能に長けていることでも知られていた。重光葵が認めた手記『巣鴨日記』(「文藝春秋昭和27年8月号掲載)によると、戦時中に、とある朝鮮人男性が東京帝国ホテルに宿泊した際、給仕の日本人女性に一目惚れし、駆け落ち同然で朝鮮半島へ渡った。しかし日本の降伏を迎え、連合国側意向で日本人は朝鮮から追われることとなり、女性はその事を苦に、玄界灘に身を投げて自殺してしまった。後にその男性が訪日して橋本のもとを訪れ、女性の墓を男性の故郷に建てる事となったので、墓に刻む詩を書いてもらいたいと橋本に依頼したというエピソードがあったという。

橋本大佐の手記

十月事件の後、野重砲兵第2連隊長に左遷されていた橋本が、1935年4月末から約40日間かけて書き上げた三月・十月事件、及び満州事変についての記録である。橋本側の視点から、三つの事件の模様が述べられている。1963年に同名の著書を発表した中野雅夫によると、同手記が書籍化された経緯は以下の通りである。

原題は「昭和歴史の源泉」。橋本は五部複写し、それぞれ同志だった長勇少佐・小原重孝大尉・田中弥大尉・天野勇中尉に渡し、残り一部を自ら保存した。しかし、彼らはいずれも後に焼却した。ところが、中野が調査したところ、1961年に歯科医・内田絹子が「手記」の写しを所持していることが判り、5人のうち当時唯一の存命者であった小原によって同一の内容と確認された。橋本は内田宅をアジトとしていた時期があり、彼の頼みで内田が「手記」を一時保管していた際に、自ら筆写し自宅の庭園に埋蔵していた。

年譜

著作

  • 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年。

評伝

参考文献

  • 堀幸雄『最新右翼辞典』柏書房、2006年

外部リンク

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