天然痘
天然痘(てんねんとう)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症。世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある。
その大きな感染力、高い致死率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。
目次
臨床像
天然痘ウイルス (Variola virus) は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。天然痘は独特の症状と経過をたどり、 古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである。
- 飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
- 40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
- 発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
- 7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
- 2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
- 治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。
天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。
歴史
前史
天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた。
イスラム
アル・ラーズィーが著書『天然痘と麻疹の書』(Kitab fi al-jadari wa-al-hasbah) において麻疹と天然痘の違いについて言明した[1]。
ヨーロッパ
紀元前430年の「アテナイの疫病」は「アテナイのペスト」とも呼ばれたが、記録に残された症状から天然痘であったと考えられる(他に、麻疹、発疹チフス、あるいはこれらの同時流行とする説もある)。165年から15年間ローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病(アントニヌスのペスト)」も天然痘とされ、少なくとも350万人が死亡した。その後、12世紀に十字軍の遠征によって持ち込まれて以来、流行を繰り返しながら次第に定着し、ほとんどの人が罹患するようになる。ルネサンス期以降肖像画が盛んに描かれるようになったが、天然痘の瘢痕を描かないのは暗黙の了解事項であった。
アメリカ
コロンブスの上陸以降、白人の植民とともに天然痘もアメリカ州に侵入し、先住民であるインディアンに激甚な被害をもたらした。白人だけでなく、奴隷として移入されたアフリカ黒人も感染源となった。
旧大陸では久しく流行状態が続いており、住民にある程度抵抗力ができて、症状や死亡率は軽減していたが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。他にも麻疹や流行性耳下腺炎(おたふく風邪)などがヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものであり、白人の北アメリカ大陸征服を助ける結果となった。
北アメリカでは白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もある。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争では、イギリス軍が天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとした。19世紀に入ってもなおこの民族浄化の手法は続けられた。モンタナ州のテンプレート:仮リンクなどは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史を伝えている。
東アジア・日本
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。この時の天然痘について『続古事談』などの記述から、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている[2]。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である。
ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る[3]。明治天皇も、幼少時に天然痘にかかっている。
北海道には江戸時代、本州から渡来した船乗りや商人たちによって、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌ民族は次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パコロカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクやとげのあるタラノキの枝をかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔にすすを塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込み、感染の終息を待ちつづける。しかしこのような行為に医学的な効果があるわけでもなく、江戸期を通じて流行は繰り返され、和人商人のアイヌ酷使も相まってアイヌ人口は大いに減少した。幕末にアイヌ対象の大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった。
制圧の記録
種痘
天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかはわからないが、西アジア・インド・中国などでは、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった。
18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする逸話があるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した。
日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前の寛政4年(1792年)に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている。
日本で初めて牛痘法が行われるのは文化7年(1810年)のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、3年後の文化10年(1813年)にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰り、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、まったく信じてもらえなかった。
その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩がワクチンを輸入してからである。緒方洪庵は、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行った。
天然痘の撲滅
1958年に世界保健機関 (WHO) 総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。中でも最も天然痘の害がひどいインドでは、天然痘にかかった人々に幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難とされた。WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1か月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった。
この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った。
1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。現在自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないとされている。天然痘は、人間に感染する感染症で人類が根絶できた唯一の例である(人間以外を含む感染症全般ではウシなどに感染する牛疫が2011年に撲滅宣言されている。)。
1978年にイギリスのバーミンガム大学メディカル・センターにおいて、微生物学研究室からウイルスが漏洩し、研究室の上階で働いていたジャネット・パーカーが天然痘を罹患し1か月後に死亡した。彼女は天然痘により死亡した世界最後の患者である。
1984年にWHOでなされた合意に基づいて、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) とテンプレート:仮リンク (VECTOR) のレベル4施設以外の研究所が保有していた株は全て廃棄された。この2施設における天然痘株についても破壊することがWHOの会議で一旦決定されたが、実際の作業は数度に渡り延期され、2001年にアメリカが株の廃棄に反対する姿勢を明確にしたことで中止となった。 しかし近年レベル4施設の設備を備えない不適切な場所においても生きた天然痘ウイルスが発見されており、その管理・取り扱いが非常にずさんであることが発覚している。[4]
千葉県血清研究所[5]が開発し1975年に日本国内で製造承認を受けた天然痘ワクチン「LC16m8」株は、1980年のWHOの撲滅宣言後に冷凍保存された。2001年同時多発テロ後、備蓄が始まり自衛隊に投与されている[6]。
WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種が廃止されたが、アメリカでは2011年現在ワクチンを備蓄し続け、またその製造が可能な状態を維持し続けている[7]。
日本国内における発生は1955年の患者を最後に確認されていない。国外で感染した患者は1970年代に数例報告されている[8]。
現在では天然痘ウイルスのDNA塩基配列も解読されており解析はほぼ終了している。
予防・治療
「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも4日以内であればワクチン接種は有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている。
問題
テロの危険
根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5 - 10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいない。そのため、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されている。ワシントン・ポストは、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク(注:記事はイラク戦争前のもの)、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げている(ただし、イラクとフランスについては可能性はとても高いというわけではないとしている)[9]。
類似ウイルス
天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している[10]。
関連法規
天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた。2009年現在、感染症法で一類感染症に指定されている。
天然痘にかかったとされる有名人
死去
Category:天然痘で死亡した人物も参照のこと。
- 用明天皇
- 舎人親王
- 藤原四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)
- アブー・アル=アッバース
- 藤原義孝
- 藤原道兼
- 藤原威子
- 禎子内親王
- 実仁親王
- 鷹司任子
- トゥパック・ワルパ
- 北条氏直
- 蒲生忠郷
- 池田忠雄:毒殺説もある。
- ウィレム2世
- 後光明天皇
- 順治帝
- メアリー2世
- 東山天皇
- ルイス1世
- マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマ
- ルイ15世
- サミュエル・ウォード
- 孝明天皇:他殺説が優勢な時期もあったが、現在では天然痘による病死が通説。
- 同治帝:梅毒説もある。
- ヴェラ・コミサルジェフスカヤ
- ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァ
- 上杉顕孝:上杉治憲(鷹山)の長男
生存
- 源実朝
- 無関普門:幼少時に感染。発症し山中に捨てられた際の逸話が重森三玲による龍吟庵「不離の庭」の石組みである。
- フランチェスコ・ランディーニ:幼少時に感染し、失明。
- 足利義量
- エリザベス1世
- 妻木煕子:明智光秀継室。光秀との婚約後に感染し、体中に痘痕が残ったが、光秀は彼女を妻に迎えた。
- 伊達政宗:隻眼のため「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名。幼少時に発症し、右目を失明。顔にも痘痕が残った。
- 宋雲院:高橋紹運夫人、立花宗茂母。顔にあばたを残した。
- 春日局:幼少時に感染。そのため、天然痘に免疫があるということもあり家光の乳母に任命された。
- 豊臣秀頼:顔にあばたを残した。
- 徳川家光:春日局が治癒祈願をした。全快後彼女はそのときの約束を守り、家光がすすめても薬を生涯服用しなかった。
- ターロック・オキャロラン:感染により失明。
- 大石良金(大石主税)
- ジョージ・ワシントン
- オノーレ・ミラボー:『革命の獅子』と『疱瘡の虎』という異名を持つフランス革命の革命家。
- 上田秋成:両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。
- マリア・エリーザベト:マリア・テレジアの5女。顔に痘痕が残ったため結婚できずに修道院に入り、後に院長となった。
- ジョゼフ・バンクス
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
- ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル:幼少時に感染し、一時瀕死の状態となる。
- ピョートル3世
- 安井息軒:幼少時に感染。痘痕で片目が潰れた容貌だった。
- 緒方洪庵:幼少期に発症、のちに日本における天然痘対策(ワクチンの普及)に尽力。
- 小林虎三郎:幼少時に感染し、左目を失明。
- 高杉晋作:10歳のときに発症。青木周弼により死は免れた。
- 川路聖謨:顔にあばたを沢山残した。
- 明治天皇:幼少時に発症。
- ヨーゼフ・ラーボア:幼少時に感染し、失明。
- 大谷吉継
- 6代目坂東三津五郎:顔に痘痕が残ったため、「あば三津」とのあだ名で呼ばれた。
- 初代都々逸坊扇歌
- 笑福亭松光:縮れ毛、あばたの馬顔、片目義眼という風貌で「かんやん」とのあだ名で呼ばれた。
- 2代目桂米喬:顔に痘痕が残ったため、「鰐皮」とのあだ名で呼ばれた。
- 初代桂枝雀
- 夏目漱石:幼少時天然痘にかかっていたとされる。
- 若島権四郎
- ヨシフ・スターリン:顔にははっきりと痘痕が残り、醜い容姿であったとされる。影武者には痘痕がない。
- ヘルムート・ヴァルヒャ:幼少時の感染(あるいは種痘の副作用)により失明。
- 中島知子(仮性天然痘)
脚注
関連項目
- 感染症
- 種痘
- 化学及血清療法研究所 - 日本の天然痘ワクチン製造企業
外部リンク
テンプレート:日本の感染症法における感染症テンプレート:Link GA- ↑ A Treatise on the Small-pox and Measles, ウィリアム・アレキサンダー・グリーンヒルによる英訳, 出版者Printed for the Sydenham Society [by C and J. Adlrd], 1848年, pp. 252, URL
- ↑ 笠原永遠男「遣新羅使と疫瘡」 笠原編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年、ISBN 4827312370
- ↑ これについては、孝明天皇の病状の記録が天然痘とするには不審な点があるとして、毒殺説が唱えられていたが、原口清が従来説を否定し、近年では孝明天皇の死因が天然痘である事が通説となっている。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2002年廃止
- ↑ 「ワクチンで防ぐ感染症 第1回 幕末天然痘に対処」読売新聞2012年8月17日朝刊
- ↑ 次世代弱毒痘そう生ワクチンの開発について、米国政府から最大3,400 万ドルの資金提供を受ける契約を獲得(化学及血清療法研究所プレスリリース2011年1月12日)
- ↑ 当時の例(昭和41年・衆議院会議録71回国会逓信委員会) 1973年4月4日
- ↑ 4 Nations Thought To Possess Smallpox, November 5, 2002 ,The Washington Post.
- ↑ テンプレート:Cite web