緒方洪庵
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緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し日本の近代医学の祖といわれる。
諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。豊後佐伯氏の佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔とされる。
略年譜
- 文化7年(1810年)、備中国足守藩下級藩士・緒方瀬左衛門の三男として足守(現・岡山県岡山市北区足守)に生まれる。8歳のとき天然痘にかかる。
- 文政8年(1825年)、大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出る。
- 文政9年(1826年)、中天游の私塾「思々斎塾」にて4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
- 天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。
- 天保7年(1836年)、長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から緒方洪庵と名乗った模様。
- 天保9年(1838年)春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
- 弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。
- 嘉永2年11月7日(1849年12月21日)、その6日前に京に赴き佐賀藩が輸入した種痘を得、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。
- 嘉永3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
- 安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
- 文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。
- 文久3年6月11日(1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し窒息により死去。享年54(数え年)。
- 明治42年(1909年)6月8日、贈従四位。
人物
- 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。
- 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。
- 洪庵の功績としてもっとも有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。
- 日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。
- 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことが無かったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している[1]。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒げるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。
- 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それはきわめて厳格で、子の緒方準と緒方孝が、預けられた加賀大聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。
- 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「その緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している[2]。原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせた。
- 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。
- 福澤諭吉が適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。
- 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。
- 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。とくに和歌は彼の最も得意とするもので、古典への造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。」という悲痛な作品を残している。
- 江戸での洪庵は将軍・徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さらには蘭学者としての風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが彼の健康を蝕んでいった。彼の急死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して長時間炎天下にいたことであると述べている。
周囲の人々
- 妻の八重は、夫との間に七男六女(うち四人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。
- 人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり顔が広かった。大阪城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところがあった。
親族
- 次男の[[緒方惟準(これよし)]は、慶応元年(1865年)に幕府からの命令にてオランダに留学。明治元年(1868年)に帰国して、京都の典薬寮の医師となり、明治天皇の侍医となった。明治2年に大坂に設立された浪華仮病院の院長となり、オランダの軍医ボードインらとともに病院の運営した。明治4年から陸軍の軍医となり、明治18年には陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として、脚気の予防策として,麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立し、明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。
- 孫の緒方知三郎と緒方章はそれぞれ病理学者と薬学者である。
- 曾孫の緒方富雄は東京大学で血清学の研究を行い、日本の血清学の基礎を固めた。昭和23年(1948年)3月に財団法人血清学振興会を設立し、血清学領域の基礎研究及び応用研究が行われてきた。その後緒方医学化学研究所に発展し、血清学に留まらず広く医学・歯学分野などの調査研究(学術誌:医学と生物学)を行っている。また、同研究所では緒方洪庵や杉田玄白、石川大浪、小石元瑞などの貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有し公開している。
出典
参考文献
登場作品
- 小説
- 漫画
- テレビドラマ
- 花神(1977年・NHK、演:宇野重吉)
- 幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(1985年・TBS、演:川谷拓三)
- JIN-仁-(2009年・TBS、演:武田鉄矢)
- 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年・NHK、演:窪田正孝)
- 陽だまりの樹(2012年・NHK、演:緒形幹太)