渡来人

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渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。

渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域 - 山東半島揚子江流域、満洲 - 朝鮮半島など様々である。渡来の規模は過去に議論の対象となったが、近年は人口動態には僅かな影響しか与えていないとする向きが多い[1]

概説

揚子江流域などから伝わった(水稲)作に始まり[2]、後には漢字仏教寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化政権形成に大きな役割を演じたと考えられている[3]

古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約6000年前から存在。)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。

4世紀末 - 6世紀古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者亡命者として中国大陸や朝鮮半島から人々が渡来した。4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王権は属国の百済と連携しつつ朝鮮半島南部の領土支配権維持のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記録されている。大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した[4]者がいた。また、日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあり、後の狗邪韓国任那に該当する地域では紀元前4 - 3世紀になると、それ以前の九州北部との交易から更に進んで朝鮮半島南部への移住・入植とそれに伴う弥生土器の急激な増加が確認されている、また光州木浦近辺などに分布する前方後円墳はヤマト王権に関係する遺跡とされ、現地で製作されたと考えられる円筒埴輪ベンガラ(酸化鉄)を塗った横穴式石室が確認されている(韓国調査報告)。墳墓埋葬された人物の身元については諸説ある。

ヤマト王権に仕えた渡来人としては、秦氏東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ) が代表的であり、他に渡来人系の人物として鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、高向玄理(高向氏)、南淵請安(南淵漢人)、(日文、新漢人)、鑑真などがいる。朝鮮半島ではなく中国大陸にルーツを持つ人物が多い。

2世紀 - 7世紀頃において、日本から主に朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。

また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王王子禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。

「帰化人」と「渡来人」

用語変更の理由と背景

日本史歴史用語としては、「帰化人」という呼び名がかつて学会の主流であったが、1970年代戦前皇国史観への反省と植民地統治の是非をめぐる政治的な論争を背景に、「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むなどとされてから不適切な用語であるとされ、金達寿上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった[5]。 このような、一部の主体を中心に他を扱っていた歴史用語の変更は、「地理上の発見」を大航海時代と変更するなど、国際交流が盛んになった20世紀以降にしばしば起こっている。

用語に関する議論

しかしながら、「帰化人」がはたして「不適切」な語であって、「渡来人」ならば「適切」とすることに関しては多くの議論がある。

歴史家中野高行はこの問題に関して、古代史研究の上では帰化人という用語の使用については価値自由を要求している[6]。さらに朴昔順や田中史生らはやはり厳密に区分されるべきとしている[7]

関晃平野邦雄らは、「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王(大王)に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとして、現在は「帰化人」も一部で使用される[8]

作家で歴史研究家の井沢元彦は著書の中で、帰化の本来の意味は「文明の低い国の人間が高い国を慕って同化する」とした上で、当時の公家たちがそれをわかっていながらあえて「帰化人」と呼んでいたのだから、それを教えるのが本当の歴史教育であると述べている[9]

帰化と渡来の語義

帰はもと歸であり、もといた場所に戻る意味のほかに、従い服従すること、とつぎに行くなどの意。帰化は他国の国籍に入りその臣民となること、臣服すること(魏志鄧艾傳「発使告以利害、呉必歸化可不征而定也」。あるいは教化に服し従うこと(高僧伝「感徳歸化者、十有七八焉」)。一方で渡という用語は(江)やを渡る意義であり、大陸間での移動は移(うつしかえること)をもっぱら用いた。「移住」。また「定居(定住すること)」。「移民」は人の少ない場所に民をうつし住ませること。「遷」は上下関係の中での移動を特にさす。「遷移」「遷都」。現代中国語でも渡来は海などを渡り来ること、舶来の意味であり、西域人や北方人陸地沿いに「渡来」するなどは奇妙な語感となる。域外から来ることは「外来」。

古代における「帰化」の語義

「帰化」という語句の本来の意味は、「君主教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)で、歴史学的な定義としては、以下のものがある[10]

1.化外(けがい)の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附すること
2.その国の王も、一定の政治的意思にもとづいて、これを受け入れ、衣料供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、その国の秩序帰属させる一連の行為ないし現象のこと

史書における用法

平野邦雄によれば、『日本書紀』の用法において、「帰化」「来帰」「投下」「化来」はいずれもオノヅカラモウク、マウクと読み、概念に違いはない[11]。また古事記では三例とも「参渡来」と記し、マイワタリツ、マウクと訓む[12]

これに対して、「貢」「献」「上送」「貢献」「遣」はタテマツル、オクルとメス、モトムと読み、一般に朝鮮三国の王が、倭王に対して、救軍援助などの政治的な理由によって、物品や知識人や職人また他国の俘虜などを「贈与」したという意味で使用されている[13]。つまり、「貢」「献」等の語が、当該王の政治的意思または命令強制によって他律的に贈与される意味であるのに対して、「帰化」は、同族集団の意思または勧誘などによって自律的に渡来(来倭)したことを指す語である。

なお、古代朝鮮の史書『三国史記』における用法では、「来投」「亡人」が多く、「投亡」「流入」「亡人」「走人」などと記されている[14]。これらは戦乱または飢饉などによって緊急避難的な人々の流出、つまり他律的な移動を指す。

朝鮮半島における流入民

朝鮮においては、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」と記されるように、多様な経路からの移住民が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡植民地漢四郡が置かれ、の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、北部から中部にかけてを高句麗人が数世紀に渡って支配、流入した時期もある、東北部は渤海人女真人等のツングース民族の流入が相次ぐなど、古代より中国をはじめ、東北アジア諸地域等より、多様な経路から移住民が多い(朝鮮の歴史参照)。

高麗時代前時期における、流入した異民族の数は23万8000人余りに達する[15]。定住した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。流入した渤海人契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身流入人である[15]。また流入した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい[15]

京仁教育大学校の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら流入者の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙し、女真族との友好的な内容は教科書で探せない、と女真族を朝鮮民族を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している[15]

事例

孫氏:『朝鮮氏族統譜』によると約1000年前に中国の宋から戦乱を避け高麗に流入した荀凝が、高麗顕宗時代(1009年-1031年)に、顕宗の諱「詢」と同音になるのを避け「孫」姓を賜り改姓した「孫凝」を始祖とし、「一直孫氏安東孫氏)」と呼ばれたという一族がある。孫凝からは高麗朝の将軍である「孫幹」や一直君に封ぜられた「孫元裕」が出て繁栄し、後裔の「孫処訥」は秀吉の朝鮮出兵の時に義兵将となり日本軍との戦いに功があったという。また丁卯胡乱の際に義兵将となって活躍した「孫遴」や同知中樞府事となった「孫必億」、「孫正義」(ソフトバンク社長)[16]などがいる。

脚注

  1. 弥生時代以降の渡来人は現代日本人遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないとした研究結果があり、逆に弥生時代以降の渡来人が縄文人遺伝子プールに大きな影響を与え、後の日本人が形成されたとする説もある。考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、移住した範囲は狭く、渡来系弥生人の人数を極少数と見積もる研究者が多い。人類学者による研究でも同様に見積もる研究者が多く、根井正利(ペンシルベニア州立大学教授)は「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて、日本人は約3万年前より北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないとする研究結果を提示している。また、松本秀雄も血液型遺伝子(Gm遺伝子)の研究から、日本人はアイヌを含めて等質性が高く、弥生以降の渡来人との混血は少ない、という根井の研究結果と似た結論を提示している(『日本人は何処から来たか 血液型遺伝子から解く』 日本放送出版協会 1992年)。逆に、大量の渡来があったとする説もあり、人類学者の中橋孝博は人口シミュレーションにより、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高く、渡来が少数でも数百年で圧倒的な数になるとしているが(篠田謙一『日本人になった祖先たち』 日本放送出版協会 2007年)、農学者の佐藤洋一郎は稲のDNA分析結果から弥生時代に伝来した稲の量は極めて少量であり、縄文時代から農耕は営まれていたとしている(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』)
  2. 水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。国立歴史民族博物館研究プロジェクトによると弥生時代の開始年代は紀元前10世紀であり、日本における水稲稲作の開始時期は朝鮮半島に先行する。
  3. この時代の日本は、『漢書』には倭人が季節ごとに楽浪郡使者を遣わしてくるとあり(『漢書』地理志 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」)、『後漢書』には倭国帥升が107年の入貢の際に160人もの人(生口奴隷のこと)を送ったと記録されている(『後漢書』 安帝紀 永初元年(107年)「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。また卑弥呼台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも人を送っていたことが見受けられる。また、『三国史記新羅本紀新羅の4代王「脱解尼師今(だっかい・にしきん、生没年不詳)」は倭人である(「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里。」)と伝えている。
  4. 5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『日本書紀』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は百済から献上された人々である(雄略天皇七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。
  5. 森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.312
  6. 森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.313
  7. 森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.313
  8. 上田正昭1965年に出版した『帰化人』中公新書は、「帰化人」という語の意味についての当時の議論を受けて、表題に関して議論が高まったことで絶版になり、またそれに先立つ関晃の『帰化人』も長らく絶版であったが、関の本は2009年講談社学術文庫で復刊された。
  9. 神霊の国日本pp.54
  10. 平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、2007年、pp.1-10
  11. 平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、2007年、p.2
  12. 平野前掲書、p.2
  13. 平野前掲書、p.2
  14. 平野前掲書、p.4
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 初等教科書、高麗の時「23万流入」言及もしない京郷新聞』2007年8月21日
  16. 孫正義のTwitterでの発言より [1]。約1000年前に中国南朝のから戦乱を避け高麗へ流入した一族の末裔とのことである。

関連項目