百済王氏

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テンプレート:日本の氏族 (古代氏族) 百済王(くだらのこにきし)氏は、百済最後の王である義慈王の子である善光[1]を始祖とする日本氏族持統朝に百済王の氏姓を賜与された。


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概説

氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が、という特殊なの示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる[2]。また延暦9年(790年菅野朝臣の改姓上表で、当事者である菅野真道だけでなく百済王仁貞らが後見者然と名を連ねている[3]ことより、百済系渡来氏族の宗家的地位にあったことが知られる。

百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[4]、この地に百済王の祀廟と百済寺[5]を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。

歴史

百済最後の国王義慈王倭国と同盟し、その王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に献上した。しかし、660年百済はの進攻によってあっけなく滅び、百済王室は唐の都に連行された。百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。

奈良時代末期には俊哲陸奥鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。

平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇外戚とみなされ[6]厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇嵯峨天皇らの後宮宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。

百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。

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人物

飛鳥時代の人物

飛鳥時代から奈良時代初期の人物

奈良時代の人物

奈良時代末期から平安時代初期の人物

平安時代前期の人物

平安時代中期の人物

系譜

(『続日本紀天平神護2年6月壬子条百済王敬福薨伝による系図)

    義慈王
     ┣━━━━━━┓ 
    善光     扶余豊璋
     ┃
    昌成
     ┃
    朗虞
     ┃
    敬福
  • なお、百済王氏は詳しい系図が伝わっておらず、系譜関係が不明な人物も多い。『続群書類従』系譜部に「百済王氏系図」が収録されていたことが知られるが、現在伝わっていない。また百済王氏の後裔を自称する三松氏の系譜『百済王三松氏系図』[7]が存在するが、その史料価値には疑問を呈する意見[8]があり、『国史大辞典』等主要な辞典類でも採用していないものが多い。


(参考 『百済王三松氏系図』による系図)

                            義慈王(第31代百済王)
                            ┣━━━━━━━┓
                         百済王善光       扶余豊璋
                            ┃
                            昌成
       ┏━━━━━━━━━━━┻━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓
      朗虞                            南典                            遠宝
   ┏━━━┻━━━━━━━┳━━━┓    ┃                           ┃
  孝忠                    全福    敬福     麿                             慈敬
   ┣━━━┳━━━┓    ┃    ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━┓   ┣━━━┳━━━┓
   元忠    三忠    孝法    仁貞    理伯    利善    玄鏡            武鏡    英孫    仙宗    貞孫
   ┃                    ┃     ┣━━━┳━━━┳━━━┓     ┃   ┃
   玄風                    善貞    俊哲    明信    恵信    明本    教仁    淳仁
   ┣━━━┳━━━┓           ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓                      
   勝義    安義    善義            聡哲    教徳    教俊    教法    貴命
           ┃            ┏━━━┳━━━┫    ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓    
           教福            鏡仁    貞香    真徳    豊俊    慶仲    慶世    慶命    永慶

脚注

  1. 旧唐書』列伝34劉仁軌伝に「扶余勇者、扶余隆之弟也、是時走在倭国、以為扶余豊之応、故仁軌表言之」とある扶余勇と推定する説がある。
  2. 「こにきし」という読みの由来については百済#王を参照。
  3. 続日本紀』延暦9年7月17日条
  4. 河内国への移住は百済王敬福陸奥で黄金を発見し河内守に任命されたことが契機になっていると言われるが史料上の根拠はなく、移住時期については異説もある。
  5. 2006年(平成19年)の百済寺跡発掘調査により、これ以前から同所に何らかの建物が存在していたことが明らかとなった。出土遺物等から同所に建物が造営された時期は白鳳文化期と推定されている。(2006年(平成19年)4月11日:読売新聞朝刊 関西発「大阪・百済寺跡 百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土 壊した後に建立」
  6. 「百済王等者朕之外戚也。」『続日本紀』延暦9年2月27日条
  7. 藤本孝一「史料紹介 三松家系図」(『平安博物館研究紀要』第7輯 1982年(昭和58年))を参照。
  8. 上野利三「『百済王三松氏系図』の史料価値について -律令時代帰化人の基礎的研究-」(慶應義塾創立125年記念論文集 慶應法学会政治学関係 1983年(昭和59年))

関連項目

関連文献

  • 大坪秀俊: 「光仁朝における百済王氏」, 龍谷史壇, NO. 113, pp.19-52, 1999.
  • 大坪秀俊: 「桓武朝における百済王氏」, 龍谷史壇, NO. 119/120, pp.118-177, 2003.
  • 間瀬智広: 「「百済王」姓の成立と百済王氏の楽舞奏上」, 歴史研究 51, pp. 89-110, 2005.
  • 田中史生: 「「王」姓賜与と日本古代国家」,日本古代国家の民族支配と渡来人, pp. 40-71, 1997.
  • 田中史生: 「桓武朝の百済王氏」, 日本古代国家の民族支配と渡来人, pp. 72-109, 1997.

関連文献


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