高野新笠

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高野 新笠(たかの の にいがさ、720年頃生 - 延暦8年12月28日790年1月21日))は、桓武天皇の生母。光仁天皇側妾、後に皇太夫人。『続日本紀』によれば、百済から大和朝廷へと送られた人質であった武寧王の10世孫とされ、出身一族は6代前に帰化をし、和姓を下賜されている。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。

略伝

新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、母は土師宿禰(のち大枝朝臣と改姓)真妹である。天智天皇の孫にあたる白壁王の側妾となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生んだ。

しかし白壁王は、天平16年(744年)に聖武天皇の皇女で称徳天皇の異母妹にあたる井上内親王を妃に立てる。そして宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して天武系の皇統が断絶すると、白壁王は62歳にして天皇に擁立され光仁天皇となった。光仁天皇の皇后に井上内親王、皇太子にはその子の他戸親王が立てられたが、これは皇統の継続性と井上内親王の出自から見て当然のことだった。

身分の低い新笠の生んだ皇子たちには、皇位継承の芽はないかに見えた。しかし、宝亀3年(772年)に井上皇后は呪詛による大逆を図ったという罪で突如皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されて都から追放された。その2年後に井上内親王と他戸親王は幽閉先で相次いで死去した[1]。この廃后・廃太子劇は、藤原百川らによる陰謀であったと考えられている。

これらの事件のあとも、身分の低さから新笠自身が皇后に立てられることはなかったが、新笠が生んだ山部親王が立太子し、のちに光仁天皇の跡を継いで桓武天皇となる。また桓武天皇の皇太子には同母弟の早良親王が立てられた。しかし早良親王は延暦4年(785年)に藤原種継事件に連座して淡路へ流されることになり、自ら命を絶った。天皇家周辺に陰謀と暗殺が渦巻いた時代だった。

新笠は桓武天皇即位後は皇太夫人と称せられ、延暦9年(790年)に死去すると皇太后を、さらに延暦25年(806年)には太皇太后を追贈された。墓は京都市西京区の高野新笠大枝陵(宮内庁管理)。

新笠出自と子孫

父の和乙継は百済渡来人の子孫で、(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが、詳細は不明。夫の白壁王(光仁天皇)即位後に高野朝臣と改姓した。

続日本紀延暦8年12月28日条に

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王から出た百済王族であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)百済太子淳陀死去とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうか学術的に少なからず疑義が持たれている[2]

また、淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。 和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は貴族として以後重んじられていった。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。

住宅地

「高野」の字(あざな)は、こんにちの奈良市高の原に比定される。神功陵古墳の裏手にあたり、現在では新興住宅地であるが、『万葉集』では鹿の音もわびしい山野と詠まれ、孝謙・称徳天皇の陵がおかれたばかりであって、その当時は本貫地・居住地としての賑やかさの実体はまったく窺えない。

平野神社と久度神社

現・京都市北区平野宮本町に鎮座する延喜式名神大社平野神社は高野新笠と縁の深い神社である。平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代に田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。

また久度神は竃神とされ、この神を祭るのは現・奈良県北葛城郡王寺町延喜式内社久度神社だけであり、その近くには和乙継の墓もあることから、百済系渡来人和氏が祭祀していた神とされる。とすれば和氏の本拠地はもともとこのあたりと推定される。平野神社の久度神は平城京の内膳司に祭られていたというから、王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移ったと考えられている。

八幡信仰

奈良時代、新羅との関係が緊張すると、宇佐から八幡神が上京し、和気清麻呂の託宣でも知られるように、にわかにその信仰が高まった。八幡神は神功皇后応神天皇を祭ったもので、三韓平定の説話をともなうことから朝敵や「異境の毒気」とされた渡来の悪疫を払うものと考えられた。神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていたならば、この時代に育った桓武天皇らが、新羅調伏のためにあいまいな母方の血筋を強調したのはきわめて当然のことであったといえよう。

孝謙・称徳天皇の時代、有力皇族が次々と失脚、処刑される中、白壁王は難を恐れ、大納言を致仕し郊外の田邑邸で酒色にふける「陽狂」の日々を送っていたという。当時は采女という比較的身分の低い女性(中級・下級貴族層の子女)が女官として高貴な者に奉仕することがふつうだったので、采女である新笠がたまたま白壁王の目に止まり、枕席に侍り情を受けたともみなせる(もっとも新笠が白壁王との間に3人の子等をもうけた時期は主に聖武天皇の時代と重なっている)。いずれにせよ帰化人の血筋の有用性が強調されたのは、井上皇后一派を失脚・排斥したイメージを払拭するために、桓武擁立派によるものと見るのが自然だろう。

脚註

  1. 一説には自殺したとも、藤原一族の手によって毒殺されたとも言われる。
  2. 水野俊平 『韓vs日「偽史ワールド」』 小学館、2007年。

外部リンク