流罪
流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。現在、先進民主主義国において流罪は絶対的不定期刑に該当するとして罪刑法定主義と言う近代刑法原則の派生原理から禁止されている。
目次
日本における流罪
古代においては神の怒りに触れたとされた者や物を島に放逐して朽ち果てるに任せる事が行われていた。古い日本語では「テンプレート:要出典範囲」(当時の「罪」という言葉には、犯罪行為そのもののみならずその結果責任として生じる刑罰をも含めて一つの事象と捉えられていた)。
律令制に於ける流刑
律令における五刑の1つであり、唐においては罪の重さに応じて「二千里」・「二千五百里」・「三千里」の刑(当時の唐の1里は約560m)が課せられていたが、日本の国土は唐の様に広大ではなかった為に畿内からの距離によって「近流(こんる/ごんる)」・「中流(ちゅうる)」・「遠流(おんる)」の3等級が存在した。基準としては近流300里・中流560里・遠流1500里であったと言われている。
受刑者は、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪の服役が課された(遠流対象者で特に悪質なものに対しては3年間の徒役が課された)。また妻妾は連座して強制的に同行させられるが、他の家族は希望者のみが送られた。配所への護送は季節ごとに1回行われた。配所到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田が与えられて、現地の良民として租税を課された。配所到着後は現地の住民とされた為に原則的に恩赦等による帰国もなかった。尤も、後年には流罪も含めた全ての罪人が赦免される「非常赦」がしばしば行われて帰国が許されている事例も多く存在している(『平家物語』における鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼の例など)。また、女性への適用はされずに代わりに杖罪と徒罪の両方を課された。
平安時代
平安時代の嵯峨天皇治世期に死刑が停止されたとも言われ、死刑停止時代の最高刑は流罪が主になっている。中世以後の統一権力の力の弱い分権的な社会では流罪の替わりに追放(自己の地域からの排除)が用いられた。なお、室町時代は権力闘争に敗れた公家や武者などが流刑を受けた際には落ち武者狩りの対象となって命を落とした記録が頻出していて、流刑を事実上の死刑とみなした当時の日記も残っている(「看聞日記」永享六年五月十六日条、ほか多数)。中には、流刑を言い渡した足利将軍の手配の元、護送している人物によって殺害されてしまったケースすらあった。(「喧嘩両成敗の誕生」P.94参照) これらは、没落した人間は庇護する人物がいないために「法の保護」の対象から外れてしまい、略奪の対象となるのがごく当たり前だったという当時の一般常識がその根柢にあると考えられている。(「喧嘩両成敗の誕生」P.97~98参照)
江戸時代
江戸時代には追放よりも重い刑と規定されて「遠島」(えんとう)と称されており、江戸幕府では東日本の天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島に流した(ロシアが蝦夷地への進出を図った19世紀には蝦夷地への流刑先変更が検討されたが、松前藩の反対で中止されている)。また、南西諸島への遠島も行われていた。古くは平家物語に現れる鬼界ヶ島の例であり、江戸時代には薩摩藩が政治犯を支配下に入れた琉球へ盛んに送っている(主に奄美群島、沖縄諸島への例もある)。また少数ではあるが、江戸幕府が町人を沖縄本島へ送っている。
赦免は刑期満了の他に、本国で改めて投獄・処刑する為にもなされる。日本では主に本土周辺の島に送られるが、欧米では植民地にした海外領土(#日本国外)に送られる事もあり、国内流刑と国外流刑は刑として区別される。
明治時代
日本における流罪は、現行刑法が制定された明治41年(1908年)まで存在した。明治時代の流刑地は北海道で、流人は監獄に収監され、強制労働を課せられた。
左遷との関係
律令制においては、罪を犯した官人を左遷する事が行われる。有名な例としては右大臣から大宰権帥に左遷された菅原道真や、藤原道長との権力争い(長徳の変)で敗れた藤原伊周(内大臣→大宰権帥)・藤原隆家(中納言→出雲権守)兄弟等が挙げられる。こうした例に対しても一般には「流された/流罪にされた」という表現をされる事が多いが、実際には幽閉状態とはいえ、左遷の場合には俸禄が与えられ恩赦による帰還もあり得る為に実態は流罪でも法的にはあくまでも左遷であって流罪ではない。なお、伊周・隆家は後に赦免されている(隆家は後年、病を得て大宰権帥となり刀伊の入寇を撃退している)。
流罪と文化
流罪にされる場合、暴力犯より政治犯が往々にして遠くに飛ばされる。政治犯は多くの場合文化人であり、特に古い時代は貴族等位の高い者が多かった。したがって、その様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられ、栄える例が多い。日本では佐渡島等がその例に挙げられる。琉球王朝の場合、これに当たるのが八重山であり、特に波照間島が有名である。なお、室町時代中期から末期(戦国時代)における流罪は、幕府の秩序が京都近辺にしか及んでいないことから、流刑地にたどり着くまでに落人狩りによって命を落とすケースが多く、実質的な死刑として機能していた時期があった。(「喧嘩両成敗の誕生」参照)
用語
- 流人(るにん)
- 流刑を受ける罪人。
- 島流し、遠島
- 流刑のうち、流刑地が離島の場合をいう。
- 島破り、島抜け
- 島から脱走すること。
- 赦免(しゃめん)
- 刑期を終えたこと等により流刑としての罪状が解かれる(離島への流刑であれば、本土への帰還が許される)こと。「ご赦免」とも言う。
- 赦免状
- 本土から流刑地を治める代官に届く書状で、特定の流人に対する赦免を許す旨が記された物。
- 赦免花
- 八丈島におけるソテツの花を指す。これを見つけた流人の多くに不思議と赦免の知らせが届いたとされることからこの名がある。
中国における流刑
舜による追放伝説
『尚書』舜典およびその孔伝(孔安国のものとされる注釈)には舜が共工・驩兜・三苗・鯀を辺境に追放したという伝説が載せられている。これを史実とはみなせないものの、古代中国社会に共同体からの追放刑があったことを示すとともに、後世においてこのことが流刑(日本における流罪)の根拠となる先例として用いられた事実(『魏書』源賀伝および唐律名例律4条疏)は注目される。とはいえ、古代中国社会にあった追放刑は小規模な国家群に分立して他国への逃亡がしやすくなった春秋戦国時代にはほとんど行われなくなったとみられ、後世の流刑との直接的なつながりは存在しないとされている。
流刑成立以前
秦漢以後に「遷刑」と呼ばれる刑が登場する。この刑はしばしば流刑と混同されることが多いが、実際のこの刑は社会からの隔離を意図したものであって、必ずしも遠方・辺境への移動を意味するものではなく、癩病のような伝染病の感染や親不孝などを理由として行われる場合もあった(睡虎地秦簡「法律問答」「封診式」)。また、当時は肉刑・城旦刑などが死刑の次に重い刑とされ、遷刑はそれよりも軽い刑と考えられていた。秦や漢では政治犯や廃された諸王が蜀の地に移される事例がみられるが、これも蜀が辺境だからではなく、周囲を山で囲まれた隔離された土地であったからとみられている。前漢に入ると肉刑が廃止されたことにより、死刑と労役刑の中間にあたる刑が存在しないことになってしまった。そこで死一等を減ずる刑として登場したのが辺境に罪人を移す「徒遷刑」と呼ばれる刑である。ただし、これも辺境に隔離して労役刑に服させることを目的としており、後世の流刑とは異なるニュアンスを含んでいた。また、徒遷刑は(死刑の)代替刑としての立場を崩すことなく、後世の流罪のように主刑と成り得なかった。
北魏による「流刑」の導入
北魏の太和16年(492年)、孝文帝の下で新たな律が定められ、ここで初めて後世知られるような主刑としての「流刑」が登場する。新しい律はこの年の4月に制定されたが、翌月になって孝文帝が詔によって自ら追加したのが流罪の規定であったという(『魏書』巻7下、高祖紀)。北魏では前代以来の徒遷刑が文成帝の時代に終身刑の要素を加えた代替刑「徒辺」として実施されていた[1]が、ここにおいて主刑としての流刑が登場して死刑の次に重い刑として位置づけられたのである。
その後、北魏は分裂して北斉と北周となるが、北斉では労役として配流先での戌辺(兵役)と組み合わされ、北周では罪の重さによって流される距離に差異を置く規定(北周では5段階)が加えられた。両国に代わって北朝を再統一した隋が流罪を1つの体系の元に整理し、更に南朝を征服してその支配地域にも流罪を適用していくことになる。隋の制度では北斉・北周の制度を受け継ぎつつも、いくつかの手直しも図られた。まず、罪によって配流する距離を3段階(千里・千五百里・二千里)に整理して、また配流先での居作(兵役を含めた労役)も最高3年(徒刑における最高刑と等しい)を併せて課した。その上で一度配所に到着した流人は恩赦があっても特別なこと(流人の帰還が明記されているなど)がない限りは郷里への帰還が許されなかった。また、事情によっては居作は課すものの、配流を行わずに罪に応じた杖刑によって代替されるケースもあった(隋独自の規定である。以上、『隋書』刑法志)。北魏から隋にかけて、戸籍などが整備されて民を特定の居住地に拘束して他の地域への自由な移動が禁止される(役人や商人などにならない限りは一生故郷で過ごす)ようになった状況下で、見たことも無い他の土地へ強制的に移されることは威嚇効果としては相当のものがあった。また、本来死刑と徒刑などの労役刑との中間の刑罰にあたる肉刑の復活が困難な状況において、儒教の経典である『尚書』の故事を根拠として用いることが可能な(儒教道徳的見地から批判される可能性が低い)流刑を新たに導入することで死刑と労役刑の間の大きすぎる格差の解消をもたらす意味もあった。
唐代の流刑
続く唐代の流刑は日本の流罪にも大きな影響を与えたが、その特徴として以下の原則があったことが知られている。
- 罪の重さによって二千里・二千五百里・三千里の距離に分けられる(当時の唐の1里は約560m)。その基準に関しては、元の居住地とする説と都(長安)であるとする説がある[2]。
- 配所にて、首枷を付けられた上で「居作」と呼ばれる強制的な労役を1年間科された。なお、三千里の配流に処せられた者のうち、特に罪が重い者は「居作」は3年間とされた。これを加流刑と称する。
- 流人の妻妾は必ず配所に同行しなければならない。ただし、父祖・子孫は希望によった。
- 居作の終了によって流刑は終了するが、そのまま現地の戸籍に附されてそこの民として残る人生を送ることになり、二度と元の居住地(大抵は故郷にあたる)に戻ることは許されなかった。
- 反逆罪やそれに連座した者(死刑から死一等を減ぜられて流刑になった者を含む)を除いては、配所到着から6載後(6回目の新年を迎えた後、6年後ではないことに注意)を経た者は仕官を許される(ただし、法によらず皇帝の意向で流刑にされた場合は3載後に短縮される)。
- 流内官品を持つ官人は「五流」と称される5つの罪(加流刑に相当する罪、反逆への連座、過失によって父祖を死傷させる罪、十悪の1つである不孝の罪、恩赦にあっても猶流刑に相当する罪)に該当しない限りは実際に流罪にはならない。流罪の場合は除名となり、官爵は剥奪されるが、居作は免除される。
- 以上の規定にも関わらず、皇帝の判断によって流罪に相当しない者の刑が重くなって流刑にされたり、新たに法令として格に追加されたりした。その場合、五流に相当しない官人でも除名・官爵剥奪の上で配流されることがある。また、刺史や上佐(別駕・長史・司馬などの地方における上級の補佐官)に貶官(左遷)させる処分が流刑の代替として行われることもあった。
とはいえ、流刑自体が儒教経典を根拠とする刑罰であり、その規定は社会の実情どころか、律令の他の規定とも整合性に欠ける場合があったために、唐における流刑の諸原則が確定した貞観11年(637年)制定の貞観律の制定からわずか3年後には実際の配所は特定の辺境の州に限定されることになり、距離別の規定が空文化した(罪が重ければ、より辺境に流されることにはなっていたが)。また、流刑に対する恩赦は配所到着前でなければ有効とされていなかったが、皇帝が恩赦の際に流人に対する恩赦の文言を加えることで有効とされ、実際に皇帝の恩恵を示すために流人の放還(元の居住地への帰還)や量移(都に近い場所への変更)が行われていた。更に配流された官人が6載後に再度仕官が許されると言う原則は実は流刑の本質と矛盾するものであった。すなわち、役人は自由な移動を禁じた律令の規定の対象外であり、再度仕官となれば配所から離れることが可能であったからである。更に理論上では庶民も商人などのように官の特別な許可があれば移動が可能であったから、配所における居作を終えて現地の戸籍に登録された元流人がその規定を利用して配所を出る可能性もあった。こうした矛盾を解消するために元和8年(813年)に6年過ぎた流人の放還が認められ、開成4年(839年)に制定された開成詳定格によって法令として正式に規定された。もっとも、この時期になると地方政治の混乱によって配所の地方官が流人の管理を行わずに、勝手に配所を抜け出して故郷に舞い戻ったり他所に放浪したりすることが行われ、終身にわたって配所に置いておくこと自体が困難になってきたことが背景としてあった。そして、黄巣の乱以後の一層の社会的混乱によって罪人の管理が困難になると、徒刑や流刑のような執行完了までに時間がかかる刑罰が敬遠され、杖刑や死刑による対応へと移ることになった。
宋代の配流と配軍
宋代になると律令が再び整備されたものの、唐末以来の過酷な規定が残されたままであり、多くの死刑囚を生み出していた。それを緩和するために出されたのが、折杖法である。折杖法によって本来流刑にされる者は脊杖(背中打ちの刑)+在所での配役(強制労働)1年(加流刑の場合は3年、女性の場合は淳化4年(993年)以降は免除)によって代替されることになり、実際に配流されることはなくなった。代わって、従来死刑に処せられることになっていた者(通常は律本来の規定にはなく、特別法である格や勅による規定で死刑にあたる者)が皇帝の特恩によって、反対に皇帝によって配流相当とされた政治犯などがその特旨によって配流されるようになった。
宋代における配流およびその関連用語を一括する言葉として、編配と配隷という語がある(どちらも単独の刑罰を指す言葉ではないことに注意)。編配は「配流・配軍・編管」、配隷は「配流・配軍・配役」をまとめた総称にあたる。
このうち、配流が本来宋代における流刑に相当するものである。配流に先立ってまず死刑判決が出され、脊杖20回と刺面(顔に入れ墨を施す)を行なった後に皇帝に死刑判決の確認を求める奏裁を行うために、都(開封、後に臨安)に赴闕(都への護送)が行なわれる。そこで罪人は皇帝に謁見して皇帝より「罪一等減じる」との勅が授けられ、枢密院によって具体的な配流先が決められ(ただし、ここまでの手続は形式として整ったものであり、景徳3年(1006年)以後は冤罪を訴える者など実際に再審理の必要性があるものを除いて皇帝への謁見は省かれた)、唐代と同様に官の監視の下に首枷をはめられて労役に従事した。配流先としてもっとも代表的であったのは、沙門島である。この島は現在の山東省長島県にある長山列島の1つ廟島のこととされている。宋の建国当初は北方には契丹の勢力があり、南方には南唐・呉越などが依然として存在していたためにそうした国境近くの辺境への配流は好まれず、一部で西北辺境などへの配流も行なわれていたものの、主としてこの島への配流が中心となった。宋の天下平定後は南方などの辺境への配流も行なわれることとなるが、依然として沙門島への配流がもっとも重いものとして扱われており、実際にその過酷な環境(自然環境・食糧不足・守衛の官吏や兵士からの虐待など)から命を落とすものは珍しくなく(『続資治通鑑長編』巻119・景祐3年7月辛巳条)、恩赦が出たとしても量移の対象にしかなり得なかった。なお、官人が政治的な理由で配流とされた場合には脊杖・刺面は行われず、沙門島へ送られた場合でも官による一定の保護が存在していた(数が少ないものの、配軍にされた官人に対しても脊杖・刺面は免除された)。その後、配流とされた者でも咸平元年(998年)沙門島に流す程でもないとされた雑犯者は各地の軍隊の下に送られて労役に従事し、景祐3年(1036年)には沙門島への配流者を広南路の遠悪州軍(辺境の環境の悪い地域の軍)に振り替えて沙門島へ流す人数を減らした。
一方、配軍は赴闕の後に各地の軍隊に配属され生涯にわたって兵役に就く刑罰である。必ずしも辺境に送られるものではなく、初期の頃は居住する州にある廂軍などの雑用を行う部隊に配置されることが多かった。(なお、当時は一般の兵士でも刺面して一般人との区別を行なう習慣があり、そうした意味でも軍隊は労役を行なわせる場所に相応しかった)。配軍の原型は配流者の増加の対策の一環として太平興国9年(雍熙元年:984年)に窃盗で死刑に相当する者に無期限の労役としたのが起源である。それが雍熙2年(985年)になって本城軍(居住州の軍隊)での労役、すなわち配軍に変更されたのである。その後、咸平4年(1001年)になって福建・広南・江浙・荊湖の強盗・持仗(劫盗)は都から遠隔であることを理由に赴闕を行なわずに五百里以上離れた軍への配軍が行なわれるようになった。更に天聖8年(1030年)には二千里以上離れた軍への配軍が実施される例も現れる。こうした措置の背景には凶悪犯の中には居住地の軍隊に配軍した場合、現地に住む被害者や告発者およびその関係者に被害が加えられる可能性があることを危惧したとされている。このように、11世紀前半になると配流の対象として軍隊が加えられ、配軍の対象が遠隔地に移動が加えられたことで、本来別の内容であった配流と配軍の区別がほとんど失われ、死と隣り合わせであった沙門島への配流を頂点とする序列が形成されることになった(ただし、沙門島自体が後に金に奪われており、配流先からは消えることになる)。
流刑とは異なるものの、共通する部分を有する刑として配流・配軍と一括にされたものとして編管と配役がある。編管は罪を犯した者が、居住州から隣接する州、または五百里・千里などの距離が離れた州に移されて簿籍に附けて官吏の監視下に置かれる措置である。唐以前の流刑と似たような側面を有しているものの、宋の配流・配軍のような終身の労役は課されず、免除されるか有期の配役であり、当初は無期の編管や期間終了後の現地の戸籍への強制的な編入もあったものの、北宋末期には恩赦がなくても6年後には放還される(事実上刑期を6年とする)ことが制度化されていた。これは、編管の主たる目的な罪人を居住地から切り離して監視下におくことであり、遠隔地への追放や労役を目的とした流刑とは異なる要素を持った刑であったことによる。配役は前述のように軍隊を含めた役所での有期の強制労働であり、本来の流刑に対する折杖法に基づいた代替刑の1つとしても行われていた。
西洋における流罪
主な流刑地
日本
律令体制下の日本では、流には3つの分類があった。
アジア
ヨーロッパ
主な流人
日本
以下、時代に関わらず流罪になった著名人を列挙する。江戸時代の大藩には藩内に流刑地を持つ所もあった(例:仙台藩の田代島・網地島・江島、加賀藩の越中五箇山、土佐藩の白滝、薩摩藩の沖永良部島)。
- 蝦夷地:花山院忠長
- 陸奥国:隆寛、河野通信、円観
- 出羽国:沢庵宗彭、本多正純
- 越後国:源成雅、明遍、親鸞、坊門忠信、菊亭晴季
- 佐渡国:安宿王、伴国道、藤原致忠、源頼治、源義綱、源明国、藤原盛憲、源成雅、文覚、順徳上皇、日蓮、京極為兼、日野資朝、世阿弥、小倉実起
- 常陸国:麻績王、藤原季仲、藤原教長、行命、阿野全成、万里小路藤房、土方雄久
- 上総国:平時実
- 下総国:北条顕時、花山院師賢、大野治長
- 安房国:紀豊城、範長、難波頼経、比企能本
- 上野国:緒方惟栄
- 下野国:源師仲、藤原成憲、澄憲、万里小路季房
- 相模国:藤原高衡
- 伊豆国:藤原良継、氷上川継、長野女王、橘逸勢、文室宮田麻呂、伴善男、源光清、藤原実政、仁寛、藤原隆長、源頼朝、源通家、山木兼隆、文覚、忠快、高階泰経、難波頼経、日蓮、役小角、源惟清、源為朝、鹿野武左衛門、宇喜多秀家、永見長良、竹内敬持、近藤富蔵、大岡忠品、佐原喜三郎、英一蝶、生島新五郎、相馬主計、ジュリアおたあ、佐々木卯之助
- 信濃国:伊賀光宗、絵島、吉良義周
- 甲斐国:源義清、源清光、蘭渓道隆、有馬晴信、良純入道親王
- 能登国:平時忠
- 越前国:中臣宅守、源顕清、一条実雅、上杉重能、畠山直宗
- 尾張国:藤原師高、藤原師長[3]
- 伊勢国:松平忠輝
- 近江国:大久保忠隣
- 紀伊国:真田昌幸、真田信繁
- 丹波国:静賢
- 但馬国:雅成親王、藤原隆家[4]
- 播磨国:山鹿素行
- 伯耆国:長谷部信連、里見忠義
- 美作国:松倉勝家
- 備前国:藤原成親、松殿基房、頼仁親王、宇都宮国綱
- 備中国:能円
- 備後国:和気広虫、平信範、平信基、松平綱国
- 出雲国:藤原兼長、平時忠、藤原尹明
- 石見国:小野寺義道
- 安芸国:源国直、源行綱、全真
- 隠岐国:藤原田麻呂、藤原刷雄、藤原雄依、小野篁、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源頼房、源義親、藤原経憲、板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇
- 周防国:源仲宗、藤原季仲、藤原範忠、宇都宮朝業
- 長門国:藤原惟方
- 淡路国:淳仁天皇、不破内親王、早良親王
- 讃岐国:崇徳上皇、法然、三好吉房
- 阿波国:源仲清、藤原成隆、藤原俊憲、藤原経宗、良弘、土御門上皇、堀田正信
- 伊予国:木梨軽皇子、藤原雄友、安倍宗任、覚憲、松平光長
- 土佐国:蘇我赤兄、石上乙麻呂、大伴古慈斐、池田王、氷上志計志麻呂、弓削浄人、讃岐永直、紀夏井、菅原高視、源則理、源頼親、源頼資、源光信、源盛行、藤原実清、藤原師長、源希義、源隆保、法然、宇都宮朝綱、土御門上皇、京極為兼、尊良親王
- 筑前国:安倍良照、安倍宗任
- 対馬国:日奥
- 壱岐国:船王、幸西
- 肥前国:源頼房
- 豊後国:宇都宮頼綱、松平忠直
- 大隅国:和気清麻呂
- 薩摩国、源光保、佐々木定綱、近衛信尹、俊寛、平康頼、藤原成経、文観、高倉永藤、大炊御門頼国
以下は琉球
その他
- 会社組織において地方、特に重要ではない部署に異動させられる事を左遷と言うが、その中で特に重要性の低い部署や遠方の支店等へ異動させられた場合「島流し」と喩える事がある。
参考文献
- 辻正博『唐宋時代刑罰制度の変遷』(京都大学学術出版会、2010年) ISBN 978-4-87698-532-6
関連項目
脚注
- ↑ この刑を導入することを主張した源賀がその根拠として用いたのが『尚書』舜典であり、儒教思想的な要素が加えられることで徒遷刑の性格を大きく変えるとともに引き続き正刑である流刑の根拠としても用いられ、更に「流刑(流罪)」の名称の由来になったとも考えられている(辻、2010、P26-31)。
- ↑ 類似の措置として加害者を強制的に移住させて被害者や告発者およびその家族と接触させない「移郷」と呼ばれる措置があることから流刑の距離も居住地からの距離とする説が通説とされている。一方で、恩赦として都に近い場所に移す措置が行われる場合があり、(居住地と都が三千里以上離れているケースなど)居住地によっては更に遠方に送られてしまう可能性を指摘してあくまでも皇帝のいる都から遠隔地への放逐が流刑の目的であり、距離の基準は都であるとする異説もある。なお、この議論は畿内を基準とした日本の流罪の距離が中国と異なる仕組を導入したのか、中国の仕組を日本に当てはめたものかという問題にもつながることになる(辻、2010年、P78-88・97)。
- ↑ 始め保元の乱に連座して土佐へ流され、帰京後太政大臣に登ったが、治承三年の政変によって再度尾張へ流された。
- ↑ 始め長徳の変で出雲へ流されたが、のち優詔によって但馬に留め置かれた。