藤原良継
藤原 良継(ふじわら の よしつぐ、霊亀2年(716年) - 宝亀8年9月18日(777年10月27日))は奈良時代の貴族。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の次男。初名は宿奈麻呂(すくなまろ)。官位は従二位・内大臣、贈正一位・太政大臣。勲四等。平城・嵯峨両天皇の外祖父。
経歴
父・宇合の死後、天平12年(740年)に発生した兄・広嗣の反乱(藤原広嗣の乱)に連座して伊豆へと流罪となる。天平14年(742年)に罪を赦され少判事に任ぜられ、天平18年(746年)正六位下から従五位下に叙せられる。
その後、越前守・上総守・相模守・上野守と地方官や、民部少輔・右中弁・造宮大輔と京官を歴任するが実績を上げることができなかった。加えて、南家・北家に比べると式家の衰退振りは著しく、宿奈麻呂は不遇の日々を送っていた。当時は南家の藤原仲麻呂の絶頂期であり、天平宝字6年(762年)には仲麻呂の3人の息子(真先・訓儒麻呂・朝狩)が参議となる一方、宿奈麻呂は47歳にして未だに従五位上の位階に甘んじていた。そのような状況の中、宿奈麻呂は佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと結託し仲麻呂暗殺計画を企図するも計画は仲麻呂側に漏洩。天平宝字7年(763年)4人は逮捕されるが、宿奈麻呂は単独犯行を主張、八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、姓も剥奪された[1]。
天平宝字8年(764年)9月に仲麻呂が反乱を起こすと(藤原仲麻呂の乱)、宿奈麻呂は詔勅を受け兵数百人を率いてこれを討ち、従五位上から従四位下に昇叙されるとともに勲四等を叙勲され、さらに同年10月には正四位上・大宰帥に叙任された。天平神護2年(766年)には従三位に昇進。参議に任ぜられた石上宅嗣とともに公卿に列す。
神護景雲4年(770年)参議に昇進してまもなく称徳天皇が崩御、皇嗣選定にあたっては藤原北家の永手らとももに白壁王(光仁天皇)の擁立に尽力し、正三位・中納言に叙任された。同年良継に改名。宝亀2年(771年)左大臣・藤原永手が死去すると光仁天皇擁立の功臣として藤原氏一門の中心的存在となり、中納言から一挙に内臣に任ぜられ、右大臣・大中臣清麻呂に次いで、太政官の次席の座を占める。この頃になると権力を一手に握って思いのままに政治を行い、官人の人事も自由にしたという。宝亀8年(777年)内大臣に任ぜられるがまもなく没し、即日従一位の位階を贈られた。
『万葉集』に採られた和歌作品はないが、天平宝字元年 (757年)12月18日、三形王邸の宴で伝誦された妻の歌[2]がある。
系譜
阿倍古美奈との間に生まれた娘・乙牟漏は桓武天皇との間に平城天皇・嵯峨天皇・高志内親王を儲け、平城天皇の即位に伴い、良継は正一位・太政大臣を追贈された。しかしながら、男子には恵まれず越前守などを務めた一人息子の託美が長岡京で賊に襲われて死亡すると家は断絶するに至った。
脚注
参考文献
- 中川収「藤原良継の変」(『奈良朝政治史の研究』、高科書店、1991年)。
- 中川収「藤原良継の境涯」(『北海道私学教育研究協会研究紀要』12号、1967年)。
- 木本好信「石上宅嗣と藤原良継・百川兄弟」(『律令貴族と政争』、塙書房、2001年)。