ジュリアおたあ
ジュリア おたあ(生没年不明)は、安土桃山時代の朝鮮のキリシタン女性。
生涯
出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれるが、生没年や実名、家系などの仔細は不明である。「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は日本名を示す。
文禄の役において、日本軍により平壌近郊で捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。のちに関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、おたあの才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、寵愛を受けた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。
しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、伊豆諸島の八丈島(もしくは新島)、神津島へと相次いで流罪となった。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。また、3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順の求めを断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間と再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。
1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。その後の消息および最期については不明だが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎により、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が出た。以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ、1972年には韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らがおたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。しかしその後、上述の「日本発信」が発見されたため石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管されることになった。
なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。
登場作品
- 小説
- 『サラン 哀しみを越えて』(荒山徹、文藝春秋、単行本版 2005年5月刊 ISBN 4163239405)
- 同社より文庫化の際に『サラン・故郷忘じたく候』と改題。文庫版 2008年6月刊 ISBN 4167717859
- 映画
- 漫画
関連項目
- 原胤信 - 彼女がキリスト教信仰に導いた人物の一人といわれる。