松平忠直

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代初期の大名越前北ノ庄(福井)藩主。結城秀康の長男で、母は側室の中川氏[1]徳川家光水戸黄門などの従兄。

生涯

文禄4年(1595年)、摂津国東成郡生魂で誕生。慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに将軍・秀忠に初対面、秀忠は大いに気に入り三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長12年(1607年)、父・秀康の死に伴って越前75万石を相続し、慶長16年(1611年)には叔父(秀康の弟)である将軍徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱の授与を受けて忠直と名乗る。

慶長17年冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。家康・秀忠の両御所による直裁にて重臣の今村守次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌年(1612年)6月、家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(「越前騒動」)[2]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・徳川家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入る[3]などの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和7年(1621年)、病を理由に江戸への参勤を怠り[4]、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。

元和9年(1623年)、将軍秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。豊後府内藩(現在の大分市)へ配流の上、謹慎となった(5月12日(旧暦))。初めは竹中重次の領内の豊後国萩原という所で5000石を与えられたが、更に人里離れた津森へ移され、その竹中が別件で誅罰されると日根野吉明の預かり人となったという。1650年に死去、享年56[5]

官職位階の履歴

※日付=旧暦

  • 1605年慶長10年)9月10日、従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
  • 1606年(慶長11年)3月3日、右近衛権少将に転任。三河守如元。
  • 1607年(慶長12年)閏4月27日、家督相続し、藩主となる。
  • 1611年(慶長16年)3月20日、左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元[6]
  • 1615年元和元年)閏6月19日、従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
  • 月日不詳、参議辞職。左近衛権中将・越前守如元。

偏諱を与えた人物

忠直時代

脚注

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参考文献

  1. 中村孝也 『徳川家康の族葉』 講談社 1965年。
  2. 新井白石(原著) 『新編 藩翰譜 第一巻』 人物往来社、1967年。

関連文献

  • 菊池寛 『忠直卿行状記』 ISBN 4003106318
    ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない。
  • 海音寺潮五郎 『悪人列伝』「松平忠直」(文春文庫)
  • 海音寺潮五郎 『列藩騒動録』「越前騒動」(講談社文庫)
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  1. 「松平忠直」、参考文献の1、389頁。
  2. 「越前の国に騒動の事起こりて以ての外に騒動す……」、参考文献の2、14-15頁。
  3. この時、忠直自身も首を一つ取ったという。この時の越前藩兵の勇戦ぶりを「かかれかかれ越前衆、たんだかかれの越前衆 命知らずの嬬黒の旗」と詠んだ歌もある。
  4. ただし、福井地方の郷土資料である『片聾記』には元和6年(1620年)に忠直が発病したという記録があり、元和7年の参勤を行わなかったことは恩賞に対する不満ではない可能性もある。
  5. 配流、参考文献の2、18頁。
  6. この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。参考文献の1、390頁。