徳川頼宣

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テンプレート:基礎情報 武士 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める[1]。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。

生涯

1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。

1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸20万石を与えられる。結局、江戸定府のまま水戸には入らず終いであった。1606年慶長11年)、家康に従い京都に上り元服する。同年、駿府50万石に転封され、駿府城に入り、同城で名目上の隠居となっていた父家康の許で育てられた。

1609年(慶長14年)、家康と親豊臣的な大名であった加藤清正との合意により、清正の五女・八十姫と婚約。翌年9月徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春(生母の兄)が清正の領国肥後国に下って納幣。

1611年(慶長16年)、家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見を行った際は義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた。のち、兄の義直と共に返礼名代として大坂城の秀頼を訪問。

1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。

1617年2月27日元和3年正月22日)、家康も清正ももはや鬼籍ではあったが、かねてよりの約束により前述の加藤清正の五女・八十姫(瑤林院)を正室とする。

1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。さらに、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。

1651年慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため、幕閣(特に松平信綱中根正盛ら)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。

同時期、の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。また、甥の将軍家光・兄の尾張義直が死去し、格上の将軍家綱がしかし幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格からも幕政を司る幕閣には煙たい存在となった。その後、疑いは晴れて無事帰国したが、いまだ拡張整備中だった和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)。

1667年寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り、隠居した。

覇気に富む人柄であったと伝えられている。

紀州藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、紀州帰国18回、紀州在国の通算は21年10か月であった。更に隠居期間が3年7か月あり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回であった[2]

逸話

  • 父である老家康が最後まで手元に置き、自ら薫陶を与えて育てた。まだ幼いにも関わらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落馬して入水しても家康は放置した、と伝わる。
  • 大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行う、特別な扱いを受けた。
  • 夏の陣に際して先陣を希望するが、却下された。これを涙を流して悔しがったため、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたが、頼宣は「14歳が 2度あるのか」と怒った。これを聞いた父の家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って頼宣を褒め、諸大名も感嘆した、と伝わる。
  • 家康没後に駿河から紀州に転封となったがこれは、二代将軍の秀忠が父の家康の遺風に対抗し、自身の権威を見せつけるため「家康の子、すなわち自分の兄弟である」「家康が直々に配した」「父が自分の所縁の地を与えた」頼宣ですらも、自分は転封させることができる、すなわちそれ以下の格の諸大名は親藩譜代外様を問わず、全ては我が権威の下である、ということを天下に示すためであった、とも言われている。駿府は一旦天領を経て、秀忠の次男である徳川忠長をもって駿河藩55万石となったがこれも、父と同様に自分も御三家相当の家を設立することができる、そして御三家から駿府を奪い、我が子に与えることで、家康の権威より自分のほうが格上であるとする意思表示であったとする説がある。
  • 西国転封の際、頼宣は再建成った大阪城を領することを願ったが、かなえられなかったと伝わる。
  • 由比正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があれば直ちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした[3]。外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該の大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけないだろう?という意味である。
  • 鄭成功に関する援軍要請の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であったとも、「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる。

官職位階履歴

※日付は明治5年12月2日までは旧暦

  • 1603年慶長8年)11月7日 - 常陸国水戸藩主として常陸の大部分(20万石)を知行。
  • 1604年(慶長9年)9月 - 5万石を加増。
  • 1606年(慶長11年)8月11日 - 元服し、頼将を名乗る。従四位下常陸介[4]に叙任、常陸国主となる。
  • 1609年(慶長14年)12月12日 - 駿河・遠江両国50万石に転封。居城は駿河国駿府城
  • 1611年(慶長16年)3月20日 - 従三位参議左近衛権中将に昇叙転任。その後、年月日不詳にて参議辞職。
  • 1617年元和3年)
    • 7月19日 - 権中納言に転任。
    • 7月21日 - 権中納言辞任。
  • 1619年(元和5年)7月19日 - 紀伊国55万石余の藩主として転封。
  • 1626年寛永3年)8月19日 - 従二位権大納言に昇叙転任。
  • 1667年寛文7年)5月22日 - 隠居。
  • 1671年(寛文11年)1月10日 - 薨去。 墓所は和歌山県海南市の慶徳山長保寺
  • 1915年大正4年)11月10日 - 贈正二位。

家系

関連項目

小説

映画

テレビドラマ

脚注

  1. の一文字目については徳川家源氏の末裔であることを示すために、その通字の一つである「」の字を用いたものとみられる。
  2. 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
  3. 小山誉城「徳川頼宣の晩年」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)
  4. 常陸国は天長3年(826年)以降、親王任国とされ「常陸守」は武家官位として名乗らない。

外部リンク

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