近衛信尹

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テンプレート:出典の明記 近衛 信尹(このえ のぶただ、旧字:近衞信尹、永禄8年11月1日1565年11月23日) - 慶長19年11月25日1614年12月25日))は、安土桃山時代公家近衛前久の子。母は波多野惣七の娘。初名、信基、信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。

天正5年(1577年)に元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。関白の位をめぐり二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに、内心、穏やかではなく、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞した。

生涯

幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという[1]。秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、文禄元年(1592年)12月に自身も朝鮮に渡海するため肥前名護屋に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言[2]したため、文禄3年(1594年)4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。

信尹は薩摩坊津に3年間配流となり[3]、その間の事情を日記「三藐院記」に詳述した。京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定[4])、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられる。またこの時期書道に開眼したとされる[5]。配流中の世話役であった御仮屋守宮田但馬守宗義宮田家は現存しており、「信」を代々の通字としている。現在、近衛屋敷跡は近衛公園となり、近衛文麿に依る碑も建立、手植えの藤は季節に花を咲かせる。遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年いたい旨書状に残すほどであった[6]

慶長元年(1596年)9月勅許が下り京都に戻る。慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また島津義弘譜代の家臣・押川強兵衛も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。

信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家徳川家との交渉を仲介し[7]、家康から所領安堵確約を取り付けた。慶長6年(1601年)、左大臣に復職。慶長10年(1605年)には念願の関白となる。慶長19年11月25日1614年12月25日)、薨去。享年50。山城国京都東福寺に葬られる。信尹には庶子しかいなかった[8]ので、後陽成天皇第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせた。

信尹は、先祖である藤原道長が記した『御堂関白記寛弘5年12月20日1009年1月18日)条の裏に、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)を抜書し、自筆本のうちの5巻分を折状の状態にしている。この抜書を発見し、表紙の外題に、「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたのは、嗣子の近衛信尋であったという[9]

書、和歌連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。本阿弥光悦松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。

脚注

  1. 天正18年(1590年)に書かれた菊亭晴季あての手紙。
  2. 前述の手紙には「関白が豊臣氏世襲になるならばせめて内覧任命を希望したい」という文言が入っていたことが問題になったと言われている。
  3. 坊津は近衛家荘園の要港で、坊津に出入りする船舶から取り立てた唐物税は近衛家の財源になっていた。
  4. 平成13年(2001年1月29日指定。
  5. 古筆学者の鑑定による。配流を境に豪快な作風の書となっている。
  6. 信尹は都にすぐ戻っても対面を保てるだけの経済が成り立たないとの理由を付して、今しばらく薩摩にとどまっても良いとする手紙を書いている。
  7. 近衛家は中世より領主として島津荘を伝来した関係で代々島津氏と親しかった。また前久は家康に徳川の姓を斡旋し、天正10年(1582年)には家康を頼って遠江に下向するなど徳川氏との関係も深かった。
  8. 生後すぐの死去も含めて、複数の子がいた。中でも、書道に優れた太郎姫を可愛がり、手紙を残している。
  9. 倉本一宏「史料紹介・『御堂関白記』自筆本の裏に写された『後深心院関白記』」『日本研究』44号掲載・445~462頁・平成23年(2011年

関連項目

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