蘭渓道隆
蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。
諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(現:中国四川省)の人。諡号は大覚禅師。
人物・略歴
13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。
1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった[1]。
1253年(建長5年)、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった[1]。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた[2]。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している[注釈 1]。
蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。
のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年(弘安元年)同寺で没した。
蘭渓道隆の後継として、無学祖元が来日した。
図像
頂相「蘭渓道隆像」絹本著色の上段に記された蘭渓道隆の自賛によると、文永8年(1271年)朗然居士(北条時宗の居士名か?)のために描かれた。なお、同じく蘭渓道隆賛の「達磨図」(向嶽寺蔵)も朗然居士に与えられている。
建長寺には他に、「蘭渓道隆経行図」(重文)がある。経行とは座禅中に足の疲れと睡魔を払うため、静かに歩いて精神を調える所作のこと。
蘭渓道隆の孫弟子にあたる太虚元寿(約翁徳倹の弟子)が霊石如芝より書いてもらった1329年の賛がある「蘭渓道隆像」(重文、絹本著色[3])、「蘭渓道隆坐像」(木像漆塗玉眼、13世紀)らの頂相を所蔵している[4](国宝、建長寺蔵)。
墨跡
蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として日本書道史上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される。
墨跡として、法語・規則(ほうご・きそく)が建長寺に所蔵されている。国宝。指定名称は大覚禅師墨蹟(法語規則)。
『法語・規則』は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』の対幅になっている[5][7]。
『法語』は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、『規則』は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すもの。いずれも『大覚拾遺録』に収められている。
書式文章ともに謹厳で、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢がある[5][7]。書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。[5][7][8]。
寸法
- 85.1cm×41.5cm(『法語』)
- 84.8cm×40.9cm(『規則』)
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
- ↑ 1.0 1.1 村井(2004)pp.67-89
- ↑ 村井(2004)p.74
- ↑ 村井(2004)p.79
- ↑ 『建長寺創建750年記念 鎌倉 禅の起源』展図録 36,196,221頁、東京国立博物館、2003年。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 中田勇次郎「日本7 鎌倉II」(『書道全集 第19巻』平凡社、新版1971年(初版1966年)pp..153-154
- ↑ 中西慶爾編『中国書道辞典』(木耳社、初版1981年)
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 新川晴風 飯島春敬編『書道辞典』(東京堂出版、初版1975年)
- ↑ 峯岸佳葉「墨跡について」(角井博監修『決定版 中国書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-165-2
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