有馬晴信
テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 武士 有馬 晴信(ありま はるのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られる。肥前日野江藩初代藩主。同じくキリシタン大名の大村純忠は叔父に当たる。また、同じくキリシタン大名の大友義鎮(宗麟)からは偏諱を賜って初めは鎮純(しげずみ)、鎮貴(しげたか)を名乗っていた(のちに久貴(ひさたか)、久賢(ひさかた)、正純(まさずみ)、晴信に改名)[1]。
生涯
元亀2年(1571年)、兄の義純が早世したため家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、天正12年(1584年)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍、渡海し、26歳から32歳までの7年間を朝鮮で過ごしている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。
慶長14年(1609年)2月、幕府の許可を受けて台湾へ出兵するが、明との貿易拠点を築くことは出来なかった。
ところが運命を暗転させる事件が起きる。慶長14年(1609年)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガルのカピタン・モール(総司令官)であるアンドレ・ペソア (Andre Pessoa) がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。
この事件の後、本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。が、これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていた。これが発覚し、家康は激怒。大八は火あぶりになり、晴信もまた贈賄の罪を問われて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった(岡本大八事件)。
キリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせた(この最後の記述はキリスト教徒側の記録から。日本側の記録では切腹して果てたとされている)。
家族
諸史料によってかなり異同があり、またキリシタンがらみの事情で後世の史料から削除されたと思われる事項も多く、正確な家族関係は判明していない。以下は外山幹夫説に基づく物である。
- 父:有馬義貞
- 母:安富入道徳円妹[2]
- 正室:有馬義純の娘(洗礼名「ルチア」、?-文禄2年(『国乗遺文』)或いは慶長3年(『イエズス会日本報告集』)、朝鮮にて没)[3]
- 継室:有馬氏家臣・山田純規の娘(通称「大上」)
- 有馬直純(長男)
- 長女(西郷純経室)
- 継室:中山親綱(中山忠親末裔)の娘で菊亭季持の未亡人だった女性(1577年-?、洗礼名「ジュスタ」)[5]
- 側室:荒木氏[8]
- 有馬純貞(次男)
- 三女(菊亭季持室のち有馬重経室)
- (生母未詳)
- 次女(酒井摂津守某室)
逸話
- 南蛮貿易に熱心であり、朱印船派遣の回数は、大名の中では島津氏・松浦氏と並び、九州大名の中でも最多であった。有馬氏の領内は龍造寺氏の侵攻によって度々戦火に晒され、国人衆らの反乱も相次いだ為、決して肥沃な土地ではなかったが、南蛮貿易により多大な利益を上げており、またそれによって多くの宣教師・キリシタンの協力も得ており、沖田畷の戦いでも大量の鉄砲・兵糧の援助を受けている。
- 宣教師の要求により、領民から少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送ろうとしたという。
- 熱心なキリシタンであった為、秀吉・家康によってキリスト教が禁止・処罰されるようになっても領内に多数のキリシタンを匿った。嫡男の直純が家康の養女(松平信康の孫娘で家康にとって曾孫)を妻としていた為や、南蛮貿易で莫大な利を得て幕府に貢献していた為、有馬領内はそれ程厳しく監察されなかったようで、領内へは多くの隠れキリシタンが集まった。しかし、岡本大八事件で事件の当事者である晴信と大八がキリシタンであった事から、有馬氏は所領代えとなり、旧有馬領内ではキリシタンへの弾圧がはじまり、これが島原の乱の遠因となっていったともされる。
- 若い頃から積極的に数々の戦いにおいて活躍し、島原藩の礎を築いたことで一定の功はあるが、信仰に熱心なあまり、破壊した寺社の資材でキリスト教育施設を領内に作らせるなどの強引な一面を窺わせる逸話も残っている。
関連史跡
- この近くにある栖雲寺には「晴信生前の姿を映した」と伝えられる虚空蔵菩薩画像が現存しているが、仏像であるにもかかわらず、首にロザリオらしき十字架を提げるなど仏画にしては異様で、実際は人物像だった可能性も高いといわれる。[9]
参考文献
- 外山幹夫『肥前・有馬一族』新人物往来社 ISBN 4-404-02502-5
脚注
登場作品
- 映画
- テレビドラマ
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「harunobu
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 有馬氏の正統系図である『藤原有馬世譜』では「安富入道徳円女」とする。
- ↑ 『藤原有馬世譜』に記載無
- ↑ 『イエズス会日本年報』慶長4年にのみ記載あり、日本側の史料には一切該当者が見えない
- ↑ 菊亭晴季の娘という説もあり(『藤原有馬世譜』など)。
- ↑ 6.0 6.1 慶長18年(1613年)イエズス会年報によれば、更に嫌疑が掛かるのを恐れた直純が異母弟2人を殺したという記述があり、またイエズス会関係史料から晴信には「フランシスコ」「マチアス」という息子がいたことが確認できることから、名前の類似した「富蘭(ふらん)」「於松(おまつ)」はこの殺害された男子であると推測される(外山幹夫『肥前・有馬一族』)。
- ↑ 『藤原有馬世譜』にのみ記載あり
- ↑ 元々は直純の乳母だったという(外山幹夫『肥前・有馬一族』)。
- ↑ 外山幹夫『肥前・有馬一族』、当該仏画の写真も所収されている