沖田畷の戦い

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 沖田畷の戦い
戦争戦国時代安土桃山時代
年月日天正12年3月24日1584年5月4日
場所:肥前・島原半島
結果:龍造寺軍の壊滅・隆信の討死、有馬・島津連合軍の大勝
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 有馬島津連合軍 龍造寺
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 有馬晴信
島津家久
龍造寺隆信
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 8,000 60,000(諸説あり。連合軍より多勢なのは確実)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | - 隆信以下2000人[1]
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沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本戦国時代天正12年3月24日1584年5月4日)に肥前島原半島長崎県)で勃発した九州戦国大名である龍造寺隆信軍と有馬晴信島津家久連合軍の合戦である。畷とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。

合戦までの経緯

龍造寺氏少弐氏の被官から下克上で戦国大名化し、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。さらに元亀元年(1570年)の今山の戦い大友宗麟軍を破り、その勢いで肥後半国、筑前筑後豊前の一部(長崎県、佐賀県熊本県北部、福岡県)を領していた。

天正6年(1578年)に大友宗麟軍は日向に南征して島津義久軍に耳川の戦いで大敗する。この結果、大友家は多くの有力武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで大きく衰退する。そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川合戦で大勝した島津家とその合戦に乗じて大友領を侵食し勢力を拡大した龍造寺家の二強が争う時代となる。

天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する[2]。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣して島津方の赤星氏を追放して肥後北部の山本郡を制圧した[2]。このため肥後北部の国人等は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で見せしめをかねて筑後柳川の蒲池鎮並一族を同族の田尻鑑種に皆殺しにさせるなどした[2]

隆信の国人に対する統治は余りに過酷であった。敵対する勢力あるいはその疑いが濃厚な勢力は徹底的に滅ぼし、国人からとった人質も普通は寝返っても交渉道具として生かしておくのが常なのだが、隆信は人質を情け容赦なく処刑したりした[3]。これにより自らが思い通りになる直轄領を増やしていったのだが、余りに過酷な国人統制は味方からも猜疑や疑念が生まれ、隆信から離反する国人は後を絶たなかった[3]

前述の田尻鑑種も余りに過酷な処置に耐えかねて隆信から離反し、さらに縁戚(妹が龍造寺政家の正室)の有馬晴信も薩摩島津義久に内通して誼を通じ、隆信から離反した[4]

沖田畷の戦い

両軍の対応

天正12年(1584年)3月18日、有馬晴信の背信を知った隆信は須古隠居城から大軍を率いて自ら有馬征伐に赴いた[4]。3月19日には島原半島北部の神代に上陸したが、この直後に海が荒れた事と隆信が有馬を侮っていたために龍造寺軍が島原に達したのは4日後の3月23日という状態となる[4]。ちなみに神代から戦場まではおよそ5里(約20キロ)しかなく、この鈍重な進軍は島津の援軍が到達するのに十分な時間といえた[4]

有馬晴信は当時八代にいた島津軍に援軍を要請する[5]。当時、島津家は肥後の平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、有馬に対して援軍を送り出した[6]。ただ、島津軍の主力が動けば、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、また肥後南部の有力者だった相良義陽を戦死させた阿蘇惟光甲斐宗運らの動きもあり、島津義久は大軍を島原に送る事はできず、弟の家久や頴娃久虎新納忠元猿渡信光伊集院忠棟川上忠智らを大将にして送り出した[6]。ただ、兵力は島津軍の5000人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日だった事であるが、龍造寺軍を悩ませた海の時化が島津軍の渡海をも遅らせ、またこれにより大軍を送れなかったのである[6]

一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた。信生は長期持久戦に持ち込む事で島津の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していたが、圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。

島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、晴信は島津の大軍の後詰を待つ後詰決戦を主張するが、家久は積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定められた[7]。当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かった[7]。沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であった[7]。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた[7]。これらの防備は3月23日の夜までに完了したが[7]、隆信の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。この時の連合軍の布陣は晴信を総大将に本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1000余、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1000は前山の山裾に伏兵として潜んだ[7]

これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山手を鍋島信生が[7]、浜手を隆信の次男・江上家種と3男・後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を突破し、森岳城を一気に抜く戦術で出た[8]

決戦

3月24日の夜、龍造寺軍の先手が畷の南下を開始する[8]。龍造寺軍は正面の大木戸を守るのは赤星統家軍のわずかな部隊のため、一気に抜けると過信していた。ところがこの狭い畷に大軍が殺到したものだから後続の部隊も入り乱れて人馬があふれ、龍造寺軍はただ前進しかできない軍となってしまう[8]。その上、統家は先年に人質に差し出していた息子を隆信に殺されていたため勇躍し、数では勝負にならないのに畷の利点と想像以上の奮戦で一時は龍造寺軍を大いに押し返した。

この間に、家久軍は密かに鉄砲隊を大木戸の背後に移動させており、大木戸に迫った龍造寺軍に対して一斉射撃を開始した[8]。大木戸を突破しようとしていた龍造寺軍は移動の邪魔になる楯や竹束を捨てており無防備の状態だった[9]。そこに一斉に撃ち込まれたものだから龍造寺軍は大混乱となり、多くの死傷者が出て龍造寺軍の先手は統制を失ってたちまち壊滅・敗走した[9]。しかし撤退しようとしても龍造寺軍は大軍であり、後続部隊が事情がわからぬままに次々と押し寄せるものだから撤退できずに嫌でも前進して鉄砲の餌食になり、そのまま押し出してきた後続部隊も同じ運命を辿るだけになった[9]。ようやく前線の事情を悟った後続の一部が左右に迂回しようとしたが、泥田であるから足を取られて機動力を失い、たちまち連合軍の別軍に襲われるか、立ち往生するだけだった[8]

家久は連合軍の優勢を見て大木戸から出撃する。既に軍の統率を無くしていた龍造寺軍はほとんど対応できず、一方的に殺戮されるだけとなった[10]

一方、山手では鍋島信生と新納忠元が激突しており、鍋島信生の名采配で新納隊はむしろ押され気味であったが、これにより鍋島隊は崩壊する他の味方を助けに行く事もできなかった[10]。浜手では森岳の本陣にいた有馬軍が出撃して伊集院忠棟隊と合流して江上・後藤隊を粉砕し、その勢いのまま隆信本隊に向かって押し出した[10]。その頃、隆信本隊は家久軍の猛攻と逃げてきた先手により大混乱しており、敗走する部隊は次々と畷のために散り散りとなり、既に軍の体を成していなかった[10]。そこに家久・晴信・忠棟らが押し寄せたものだからたまらない。あれだけ優位に合戦を進めていた鍋島隊も敗走する味方のために統率が乱れていた[10]。隆信本陣は軍奉行として旗本衆を統率していた成松信勝が死を賭して隆信を逃がすために時間稼ぎし奮戦したが、成松隊は壊滅して信勝は討死する[10]。隆信はその間に逃げ延びようとしたが、深田に踏み入れて逃げ損なった、農家の庭先に乗り入れた、あるいは隆信は肥満体で馬に乗れず輿で逃げていたが、輿の為に余りに目立って島津方の川上忠堅に見つかってしまい、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされた[1]。こうして、沖田畷の合戦は寡兵の連合軍の圧勝に終わった。

戦後

龍造寺家

龍造寺家はこの合戦で総大将の隆信や信勝の他、鍋島信生の実弟・龍造寺康房小河信俊をはじめ、重臣の江里口信常百武賢兼円城寺信胤木下昌直らも討ち死した。

総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は本拠地の佐賀城に向けて撤退した。浜側を攻めていた江上家種は配下の執行種兼らを退却中に失ったがなんとか戦場を脱出した。鍋島信生は本隊が総崩れとなって退却を余儀なくされた。この退却の際、信生は7騎余りの絶体絶命の危機に陥るが、敵方の有馬勢を脅して海路で筑後柳川へ逃れた。

隆信の嫡子・政家は島津家に降伏する[1]。以後、龍造寺家では当主の器に乏しく病弱だった政家に代わり、鍋島信生が家宰として国政の実権を握り、龍造寺家は有名無実化していく。

島津家

龍造寺家に大勝して政家が屈服した事により、龍造寺家の傘下にあった国人らは一気に島津家に寝返り、島津家の勢力は一気に筑前・筑後まで拡大する[1]。以後、九州は島津が最強の勢力として君臨し、九州制覇を推し進めていく事になる。

両軍の兵力に関して

連合軍の兵力に関してであるが、有馬家は5000未満、島津軍も3000から多くても5000だったと思われる。これは前述のように肥後の主力を動かせなかったためと思われるが、島津軍の参戦した武将は家久と忠智以外の武将は義久直属の家臣で、忠智は島津義弘の内衆と編成が異常であった[6]。このため、義久は機を見てさらに大軍を島原に送り出す用意があったのではないかと思われる[6]

龍造寺軍の兵力は史書により一致しない[5]。6万という例もあるが、これは余りに誇張すぎる[5]。当時、龍造寺家は島津家だけでなく大友家とも敵対しており、また秋月文種などの不穏な勢力の存在もあって動員できたのは肥前と筑後西部だけだったと推測され、かなり無理な動員をかけても2万かそれを少し超えるくらいが妥当な線であり、幾らなんでも6万はあり得ない。

参戦武将

島津・有馬 連合軍

島津軍


有馬軍

龍造寺軍


関連作品

ボードゲーム
  • 「Okitanawate」(『RAN』収録)GMT Games、2007年、英語。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.106
  • 2.0 2.1 2.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.97
  • 3.0 3.1 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.96
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.98
  • 5.0 5.1 5.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.99
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.100
  • 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.101
  • 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.102
  • 9.0 9.1 9.2 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.104
  • 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.105