龍造寺政家
テンプレート:基礎情報 武士 龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、肥前国の戦国大名。龍造寺隆信の嫡男。
生涯
弘治2年(1556年)、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の嫡男として誕生。初めは、近隣の強大勢力・大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜って鎮賢(しげとも)と名乗り、のちに久家(ひさいえ)、政家と改名した。
天正6年(1578年)に父から家督を譲られるが、形式的な家督相続であり、政治・軍事の実権は隆信が握り続けたままであった。天正12年(1584年)に有馬晴信が龍造寺氏から離反すると、父から有馬氏討伐を命じられた。しかし、妻が有馬氏の出でこれに消極的であったため、隆信自ら有馬討伐に向かい、政家は留守を守った。この有馬攻めの最中、隆信は沖田畷の戦いで戦死する。
父の死後、名実共に龍造寺氏の跡を継ぐことになったが、元々病弱で戦国大名としての才に欠けていたため、国政の実権は義理の叔父である重臣の鍋島直茂に握られることになる。また、隆信の死で勢いづいた島津氏の侵攻は如何ともしがたく、政家は島津氏に降った。
天正15年(1587年)、交誼のあった豊臣秀吉の九州平定により、肥前7郡32万石を安堵された。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。
しかし、天正15年(1590年)3月、秀吉の命で嫡男の高房に家督を譲って隠居させられ、国政の実権は鍋島直茂に正式に移譲された。
慶長12年(1607年)に子の高房は乱心して自害未遂を起こしこれが元で死去。同年に政家も後を追うように死去したため、これにより大名としての龍造寺宗家は断絶した。
人物像
政家は病弱なだけでなく実際に武将としての器量も才能も欠けていたとされ、それを示す逸話も多い。九州平定後に肥後で一揆が起こり秀吉から鎮定を命じられた際、政家は「祈祷師が出陣すると危ないと言った。神社の楠の大木が倒れた」という釈明をして、さすがの秀吉も怒るより呆れ果てたという[1]。ただこの時は重臣の鍋島直茂が政家を強制的に出陣させて秀吉に必死に弁明したため、事なきを得た[1]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料