龍造寺隆信

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テンプレート:基礎情報 武士 龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前戦国大名

“五州太守”の称号を好んで用い、肥前の熊ともいわれた。仏門にいた時期は中納言円月坊還俗後初めは胤信(たねのぶ)を名乗る。本姓藤原氏を称した。大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した。

生涯

家督相続

享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家(肥前佐嘉水ヶ江城主)の長男として生まれる。幼少期は宝琳寺の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。

天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて筑後蒲池氏の下へ脱出した。翌天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その直後に家兼は高齢と病のために死去した。このとき、家兼は隆信の器量をすでに見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残している。

こうして隆信(還俗後のこの時期は胤信と名乗っていた)は水ヶ江龍造寺氏の家督を継いだ。その後は龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。

天文17年(1548年)、龍造寺胤栄が亡くなったため、隆信はその未亡人を娶り、本家の家督も継承することとなる。しかし隆信の家督継承に不満を持つ家臣たちも少なくなく、隆信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、またその偏諱(「隆」の1字)を受けて隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣たちの不満を抑え込む。

肥前統一

天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣の土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。

天文22年(1553年)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順、栄益は捕えられて処刑、鑑兼は幼少であった為に許されている。

その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559年)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や神代氏などの肥前の諸豪族を次々と降し、永禄3年(1560年)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立した。

このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563年)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉氏と同盟を結んでこの連合軍を破った。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年(1569年)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、毛利元就豊前に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した。

その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570年)に弟の大友親貞を総大将として6万と号する大軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生による奇襲策によって撃退し(今山の戦い)、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功した。隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、その後も大友氏に従属していた。今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送っており、また息子の政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺豪族を滅ぼす、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。

元亀3年(1572年)、少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573年)には西肥前を平定し、天正3年(1575年)には北肥前を平定する。天正4年(1576年)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577年)までに大村純忠を降し、天正6年(1578年)には有馬晴信を降して肥前の統一を完成した。これを機に家督を嫡男の政家に譲って、自らは須古城隠居する(隠居した年は天正9年(1581年)説もある)。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。

勢力拡大

天正6年(1578年)、大友宗麟が耳川の戦い島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の勢力圏の奪取に努め、天正8年(1580年)までに筑前筑後肥後、豊前などを勢力下に置くことに成功した。

しかし天正8年(1580年)、筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、さらに人質として預かっていた赤星統家の息子を殺すなど、次第に内部の粛清を頻繁に行うようになる。天正9年(1581年)には相良氏を従属させた島津氏の北上が始まったため、隆信はこれに対抗するために天正11年(1583年)、政家を肥後に侵攻させ、島津軍を圧倒する兵力にて高瀬川(現・菊池川)を挟んで対峙するも、このときは田尻鑑種ら筑後の国人が次々と背いていた最中でもあり、秋月種実の仲裁により、高瀬川より(東南)を島津領、(北西)を龍造寺領と定めて和睦するに至った。

最期

天正12年(1584年)3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。これを機に島原半島における龍造寺方の諸豪族が動揺し始めたため、隆信は自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。このとき龍造寺軍は6万(諸説あり)という大軍であり、島津軍はわずか5000と圧倒的な兵力差であったが、地形や戦術を巧みに使用した島津義久の弟島津家久の前に大敗北を喫し多くの将兵を失い、隆信自身も島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまった(沖田畷の戦い)。享年56。この大敗は龍造寺氏の没落を決定づけ、重臣の鍋島直茂は主君である隆信の遺骸を放置したまま、かろうじて佐賀へ逃げ帰る有様だったとされる。

現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり(人物・逸話も参照)、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。

人物・逸話

  • 母親に頭が上がらず、今山の戦いの奇襲は母親の叱咤で決めたとも言われる。
  • 曽祖父の家兼は隆信の才能を見抜き、「長法師丸は大器である」と評したとされる。
  • 若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。また、普段から家臣に冷たく接していたため、沖田畷の戦いで敗色濃厚となったとき、隆信の輿を担ぐことに嫌気の差した側近たちは輿を放り捨てて逃げ、そのため隆信は逃げ遅れて討ち取られたという逸話がある。
  • 一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。[1]
  • 筑後の蒲池鎮漣(鎮並)は、当初は岳父になる隆信(鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にしていた)の筑後侵攻にも協力している。隆信にとっては鎮漣は娘婿であり筑後における強力な与力でもあった。しかし、隆信は九州中央への進出のため筑後を領有化せんとして鎮漣と対立し(蒲池氏と島津氏の接近も原因とされている)、口実を設けて天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城に手こずり、とりあえず鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた田尻鑑種の仲介で和睦する。その後、天正9年(1581年)に鍋島直茂などと謀り、隆信は和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした(柳川の戦い)。その冷酷さは龍造寺四天王の一人・百武賢兼などの腹心からも疑問を持たれ、賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったほどであった。また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに隆信から離反している。この蒲池鎮漣の謀殺と一族の殺戮は、黒木家永蒲池益種(黒木益種)、田尻鑑種など、筑後の国人の相次ぐ離反や蜂起を招き、結果的に隆信は筑後経営に手こずることとなり、没落の遠因の一つともなった。
  • 若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。
  • 相当に肥満した人物で、馬に乗ることができなかったという(異説あり)。沖田畷でも逃走する時に輿を使わざるを得なかったとされているが、そのために敵の武将・川上忠堅に場所を知られることになったとされる。
  • 沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにも関わらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自棄になって敗れたという説もある。『北肥戦誌』では、軍勢が進まないため隆信に様子を見てくるよう遣わされた吉田清内が、「二陣・三陣がつかえて旗本勢が進めない。命を惜しまず攻めかかれとの下知である」と独断で告げたためであるとし、敗戦後に逐電していた清内は、見付けだされて処されたとしている。
  • 島津軍に討ち取られた隆信の首級は後に龍造寺家へ返還されることになったが、鍋島直茂に返還を拒否されたといわれている。ただし、これは島津が首級を返還しに来ると同時に、龍造寺家中の様子を探るつもりだと読んだ直茂が付け入る隙を与えないために拒否したものといわれる。島津側に持ち帰られた首は隆信に因縁のあった赤星親家の未亡人に引き渡されてなぶり物にされたとも、島津家久によって願行寺玉名市)に葬られたとも、島原の川に流されたとも言われる。
  • 隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。
  • 宣教師ルイス・フロイスが残した記録では、沖田畷の戦いに於ける隆信の軍備に対し、「細心の注意と配慮・決断は、カエサルの迅速さと知恵でも企てられないように思えた[2]」と評している。カエサルも軍事に関しては速断の人であり、フロイスは隆信をそれ以上と評している。一方でカエサルは敵対した相手を許す場合が多く、当時のヨーロッパでは鷹揚な人物として有名で[3]、上述の隆信の人物評とは正反対である。なお、隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男の後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事もあるという(フロイス日本史)。
  • 辞世は「紅炉上、一点の雪」である[4]

家臣 および 偏諱を与えた人物

(*太字の「信」を含む人物が隆信より偏諱を賜った人物である。)

脚注

  1. 「その急激な成長の裏には、隆信の狡猾かつ残忍な政略が隠されて」おり、「仏門に身を置いた者とも思えぬ、相手を偽り、策を用いてこれを陥れる非情さが、彼の急成長の大きなバネであった」(外山幹夫『中世の九州』)
  2. 『完訳 フロイス日本史 10』中公文庫 ISBN 4-12-203589-9
  3. マキャヴェリ政略論で鷹揚な人物の代表として持ち出されているのがその一例である。
  4. 『肥陽軍記』には記述があるが、『龍造寺記』・『北肥戦誌』などには見られない。

テンプレート:龍造寺氏歴代当主