龍造寺信周

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龍造寺 信周(りゅうぞうじ のぶちか、天文4年(1535年[1]? - 慶長13年8月15日1608年9月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将龍造寺周家の第二子。通称左馬頭。龍造寺隆信の次弟だが、異母兄弟であったため、隆信と同母弟の長信より地位は低かったらしい。

隆信とともに各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。

元亀元年(1570年)に大友氏龍造寺氏が戦った今山合戦後、局地戦では大勝した龍造寺軍ではあったが、国内情勢は不安定であった為に、大友氏とこのまま抗争状態になるのは不利と判断。大友氏からの要請により、人質として大友氏へ派遣され、和議を成立させている。

天正12年(1584年)に沖田畷の戦いでの兄隆信が戦死した後須古城に移り、豊臣秀吉九州征伐朝鮮出兵などを経て、龍造寺氏から鍋島直茂への権力の移譲が進むと、この流れに従って、鍋島氏の肥前支配体制を認めた。

龍造寺高房の龍造寺氏復権への動きに対し、幕府が事情聴取のために、信周と弟龍造寺長信(一説には子の多久安順)、龍造寺家晴の3人を江戸に招聘した。この時、3人は鍋島氏の肥前支配を認めたこともあり、鍋島氏の肥前支配は決定的となった。

なお、信周の子孫は須古鍋島氏(龍造寺四家の一つ)として、佐嘉鍋島家の重臣として明治維新を迎えた。

慶長13年(1608年)死去。跡を二男の龍造寺信昭が継ぐ。

脚注

  1. 天文元年(1532年)10月18日の説もある。
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