今山の戦い

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戦争戦国時代
年月日元亀元年8月20日1570年9月19日
場所佐賀県佐賀市今山
結果:龍造寺軍の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 大友15px 龍造寺
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 大友宗麟大友親貞戸次鑑連吉弘鑑理臼杵鑑速 龍造寺隆信鍋島直茂
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 6万から8万 5,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 2,000以上 不明
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今山の戦い(いまやまのたたかい)は、元亀元年(1570年)4月から始まった豊後戦国大名大友宗麟軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦闘を指して「今山合戦」とする場合もある。

合戦までの経緯

元亀元年(1570年)3月、北九州に勢威を誇った大友宗麟は肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、6万の大軍を率いて龍造寺領に攻め込んだ[1]。対する龍造寺側が動員できる兵力は5000人にすぎず、ただちに佐嘉城(のちの佐賀城)に軍を集めて篭城を開始する。このときの大友軍の威容を、『肥陽軍記』では「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」と記している。

今山合戦

大友宗麟は高良山に陣取り諸将に攻略を命じたが、龍造寺軍の士気も高く容易に敵を寄せ付けなかったため、戦況は小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移した。とは言え、龍造寺側には長期の篭城戦に必須である援軍の見込みが無く、このままいけば落城は必至の状況であった。

大友宗麟は8月になっても勝報が届かないことに業を煮やし、城攻めの大将とし弟の大友親貞を3000の兵で前線に送り出し親貞に総攻撃命令を下した。17日には親貞は佐嘉城の北に位置する今山に布陣した、北側に布陣する大友の兵は3万に達していたが親貞は占いの凶兆を気にし直ちに総攻撃には踏み切らず、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定する。ところが総攻撃の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。この動きを間者から入手した佐嘉城の鍋島信生(のちの鍋島直茂)は、今山の敵本陣への夜襲を進言する。篭城での徹底抗戦論や降伏論が飛び交っていた龍造寺陣営は初め無謀だとして否定的だったが、隆信の生母・慶誾尼が檄を飛ばしたことで奇襲策が容れられ、直生以下500余の奇襲部隊が編成された。8月19日夜から20日の未明、信生の奇襲部隊は城を抜け出し、包囲の間を縫って今山の敵本陣の背後に兵を伏せた。未明、直生は敵陣に鉄砲を撃ちかけ「寝返った者が出た」と虚報を流して大友軍を大混乱に陥れると、同士討ちを始めた軍中で手薄になった親貞の本陣に突入し、大友親貞を討ち取って退却する[1]。総大将を失った大友軍も散り散りになって退却し、奇襲は大成功に終わった。このときの大友軍の犠牲は2000以上に及んだという。

この勝利を祝して鍋島信生は鍋島家の家紋を四つ目結から大友家の杏葉へとした。

戦後

この戦い自体は局地戦であったため、大友本軍にはさほど大きな痛手にならなかったものの、勝機を逃した大友軍は半年に及ぶ包囲を続けたが佐嘉城攻略の糸口を掴めず、9月末には龍造寺側から和睦提案があり隆信の弟・龍造寺信周を人質に差出すことで大友側は講和を受諾した。講和は10月1日に成立し、大友宗麟は豊後に帰国の途についた[1]

龍造寺家は大友軍撤退後も表面上は大友氏への従属の姿勢を取り続ける。しかしこの戦いがもたらした戦略的影響は大きく、大友氏は龍造寺氏の勢力拡大に対して事実上の黙認という形を取らざるを得なくなった。龍造寺隆信は大友軍の侵攻に際して叛旗を翻した近隣の豪族を次々に討伐・服従させ、やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ九州三強に数えられるまでに成長していく。

参考文献

書籍
史料
  • 『肥陽軍記』

脚注

註釈

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出典

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  1. 1.0 1.1 1.2 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.199