龍造寺家兼
龍造寺 家兼(りゅうぞうじ いえかね)は、戦国時代の武将。肥前の戦国大名。水ヶ江城城主。号は剛忠。子に家純、家門。孫に周家、純家、頼純、家泰、鑑兼、曾孫に隆信、信周、長信など。
略歴
少弐氏の筆頭家臣
肥前の国人龍造寺氏の第13代当主龍造寺康家の5男にあたり、分家である水ヶ江龍造寺家を興していたが、本家である村中龍造寺家が、内部分裂や当主の早逝で力を弱めたため、一門の長老である家兼が本家を補佐することとなった。しかし、家兼は剛腹かつ智勇に優れていたため、たちまち本家に取って代わって実権を掌握するだけではなく、主家に当たる少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めたのである。そして享禄3年(1530年)には大内義隆が家臣の杉興連に1万の大軍を預けて侵攻させてきた時、これに対して家兼は、筑後川の支流で大内軍を見事に撃退した(田手畷の戦い)。
大内氏からの誘い
家兼は、この戦いを機として大内義隆にその実力を認められるようになり、義隆に少弐氏から離反して大内氏に従うように勧められる。外様の家臣であった(龍造寺氏は少弐氏に追われた千葉氏旧臣の家柄)家兼は、大内義隆が主君の少弐資元を攻撃した時積極的に救援をしなかった。結局、資元は自害に追い込まれ、家兼は主君を見捨てた裏切り者という疑惑を受けた。ただ、その後も家兼は資元の子少弐冬尚に仕えており、家兼に実際に謀反の意思があったのかについては疑問も残されている。
龍造寺家の再興
天文14年(1545年)、家兼が少弐資元を救援しなかったことを謀反による主君殺しと見て義憤を感じた、少弐氏の家臣馬場頼周の策謀によって、家兼の2人の息子と4人の孫がことごとく誅殺されてしまう。家兼はかろうじて筑後に逃れ、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けた。家兼は90を超えた高齢であることから厳しい追及を受けずに生き延びた。翌年、蒲池氏の支援を受けた家兼は老躯を押して再起の為に挙兵、鍋島清房らがこれに呼応したため、見事に馬場頼周を討ち龍造寺氏を再興した。そして曾孫の龍造寺胤信を還俗させ、後事を託すと、間もなく波乱に富んだ93年の人生を安らかに終えた。
家兼の代に、龍造寺氏は後の飛躍を遂げる基礎を固めたとも言えよう。