杉興連
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杉 興連(すぎ おきつら、永正3年(1506年) - 天文20年(1551年))は、戦国時代の武将。周防国・長門国を本拠とする大内氏の家臣。杉興長(おきなが)の子。別名に興運(おきかず/おきゆき)とも。「興」の字は父同様、大内義興から偏諱を賜ったものである。弾正忠、豊後守、太宰少弐。
生涯
周防国の大名・大内義隆(義興の子)に仕えて、筑前の守護代を務めた。享禄3年(1530年)には義隆の命を受けて大内軍を率いて少弐資元を攻めるが(田手畷の戦い)、資元の家臣であった龍造寺家兼の機略の前に一敗地にまみれた。その後も大友氏などと交戦し、北九州の大内軍を任されていたと言う。
1551年、陶隆房(のちの晴賢)が謀反を起こした際には大内義隆に従ったが、義隆が大寧寺で自害した後、自身も九州にて義隆に殉じて自害したという記録(大内義隆記)と、陶軍と戦い討ち死にした記録(陰徳太平記)義隆と同行し共に切腹した記録(中国治乱記)があり定かではない。[1]
脚注
テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub- ↑ 『広報すえ』162号 1980年10月(福岡県糟屋郡須恵町役場HP)