大村純忠
テンプレート:基礎情報 武士 大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第12代当主[1]。
永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり[2]、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。
生涯
養嗣子になり家督相続
有馬晴純の次男[1]。母が大村純伊の娘であったために天文7年(1538年)に大村純前の養嗣子となり[1]、天文19年(1550年)に家督を継いだ。純前には実子・又八郎がおり(庶子、後の後藤貴明)、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出された。このような経緯から貴明は純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「実子をおしのけて家督を継いだ」というプレッシャーを一生感じ続けることになった。また当時の大村領は、肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。
キリシタン大名へ
永禄4年(1561年)、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、永禄5年(1562年)、純忠は自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出た。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会士に対して住居の提供など便宜をはかった。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。
永禄6年(1563年)、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係を持たず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行っている。しかし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになる。
内訌
純忠に恨みを持つ貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払ったが、元亀元年(1570年)に純忠はポルトガル人のために長崎を提供した。同地は当時寒村にすぎなかったが、以降良港として大発展していく。元亀3年(1572年)には松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500に居城である三城城を急襲され、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。天正6年(1578年)に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。その後、天正8年(1580年)に、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した[3]。
天正遣欧少年使節と晩年
巡察のため、日本を訪問したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、天正10年(1582年)に天正遣欧少年使節の派遣を決めている。純忠の名代は甥にあたる千々石ミゲルであった。
純忠にはそれぞれ洗礼名を持つ4人の息子、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)がいた。が、天正4年(1576年) - 天正5年(1577年)頃には龍造寺隆信の圧迫を受け、喜前を除く3人を人質に取られるなど、ほぼ従属状態にあり、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにも龍造寺方として従軍している。しかし、親族である有馬勢との戦いには消極的で空鉄砲を撃っていたといわれる。このため、隆信の戦死後も、大村勢は島津氏の追撃も受けずに開放されたという。
最期
天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵された。ただし55歳の純忠は既に咽頭癌並びに肺結核に侵されて重病の床にあり、19歳の嫡子・喜前が代理として出陣している。病で衰えた純忠は神父を呼んで来世の事をたびたび話して欲しいと願い、それを聞きながら大いに満足して涙を流した。純忠は死を悟り、領内に拘束していた捕虜200名を釈放し、死去の前日には可愛がっていた1匹の小鳥を籠から出して空に放たせた。この時、純忠には既に病のために小鳥を放つ体力さえなく、侍女にそれを頼んだのだが、侍女は小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにした[2]。しかし怒る事は神の意思に反するとして純忠は侍女に立派な帯を与えて、「小鳥はゼウス様が作られたものであるから、予はそれを可愛がっている。それゆえ今後とも愛情をもって扱ってほしい」と述べたと伝わる[註 1]。
1587年6月23日(天正15年5月18日)、坂口の居館において死去。バテレン追放令の出る前の死であった。
人物
フロイス日本史に伝わる小鳥の話にもあるように、敬虔なキリシタンとして侍女に小さな命にも愛情を持つ人間であってほしいとの祈りがあったという[1]。一方でキリシタンになった理由は弱小である自国を安定させるため、ポルトガルに頼って富や武器を手に入れるという打算的な目的があったとも伝わるが、次第に純粋な信仰に目覚めて側室とは離縁し、正室のおえんとキリスト教に基づく結婚式をやり直して一夫一婦制を守り続け、大村領民6万人をキリシタンに改宗させるなどしている[1]。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料
- 『フロイス日本史』
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