藤原隆家

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)

生涯

永祚元年(989年)正月29日、11歳で元服し従五位侍従正暦4年(993年)3月10日右近衛中将、翌5年8月28日、従三位に叙され公卿に列す。父・道隆の死に先立ち、長徳元年(995年)4月6日に権中納言に至る。

翌2年4月24日、花山法皇奉射・東三条院呪詛・大元帥法を行った罪状三ヶ条を以って出雲権守に左遷された(内大臣だった同母兄伊周大宰権帥に左遷)。これを長徳の変という。

翌年4月召還され、長徳4年10月23日兵部卿に任じた後、長保4年(1002年)9月24日、権中納言に復した。寛弘4年(1007年)正月20日従二位、同9年正月27日按察使長和3年(1014年)11月7日任大宰権帥、翌4年4月21日正二位と、徐々に宮廷社会で復帰していったが、官職は中納言に止まった。

三条天皇の代に眼病[1]の治療のため、進んで大宰権帥の任命を望んでかなえられ、大宰府に下った。在任中の寛仁3年(1019年)4月 、当地で刀伊の入寇に応戦した。なお、権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡(今でいう天然痘)が大流行した。刀伊(女真族と考えられている)が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。

寛仁3年12月、大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。治安3年(1023年)12月15日、中納言を辞退し、その代わりに次男経輔右中弁に昇任させた。長暦元年(1037年)8月9日藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられたが、長久3年(1042年)正月29日それを辞した。寛徳元年(1044年)正月1日、正二位・前中納言として死去した。享年66。

人物

天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事[2]や、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬[3]など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。姉が生んだ敦康親王の立太子を拒否した一条天皇を「人非人」と非難したり[2]、権力者の叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子皇后宮大夫を引き受けたり[4]するなど、気骨のある人物として知られた。その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている[2]。「もし敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという[2]

また、父・道隆や兄・伊周に対しては批判的な態度を取り続けていた藤原実資からは可愛がられ、彼の日記である『小右記』には隆家が実資に悩み事を打ち明ける記事(寛弘2年正月5日条・長和2年8月13日条・同年9月8日条)や実資が大役に任じられた隆家の息子を気遣う記事が見られる(寛仁元年9月16日条・同4年10月30日条)。特に長和2年の両記事には実資が隆家に対して眼病の治療と道長からの圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、それを受けた隆家が「深有鎮西之興」を抱いたことが記されている[5]。この大宰権帥の任官に際して、「天気無動、但左府猶有遏絶者」と『小右記』長和3年5月7日条にあるように、道長に強く妨害され決定までに9ヶ月を要したが、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、隆家の希望は聞き届けられた。

後拾遺』(2首)・『新古今』(1首)の勅撰歌人である。漢詩も文人の家系に恥じず、『本朝麗藻』に七言律詩1首を残している。

隆家の子孫

隆家の娘は長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王[6]、もう一人が参議藤原兼経室となっている。

隆家の長男良頼は正三位権中納言に進み、その娘は参議源基平室となり後三条天皇の寵愛をうけた源基子実仁親王輔仁親王の生母)を生んだ。良頼の4代後の子孫に、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したという池禅尼がいる。

隆家の次男経輔1006年-1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる従三位忠隆の息女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆の息女七条院殖子後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清内大臣の位にまで昇った。源義経の母の常盤御前の再婚相手で奥州藤原氏とも関係があった一条長成も経輔の5世孫である。

隆家流は女系を伝って皇室摂家にその血を残し[7]、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬七条町尻桜井山井の五堂上家を出して明治維新に至る。

なお、南北朝時代懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる藤原政則を隆家の子息としていた。

系譜

外部リンク

脚注

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  1. 原因は『御堂関白記』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による外傷のため。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 大鏡』道隆伝
  3. 枕草子』、隆家は「三位中将」または「中納言」の官名でしばしば登場。
  4. 『小右記』長和元年4月27日条
  5. 関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年) ISBN 978-4-7842-1344-3 P23-26・77-79
  6. 『小右記』寛仁4年(1020年)10月23日条・治安元年(1021年)2月1日条によれば、隆家は敦儀親王を婿取ろうとして道長の「気色不快」を招き、その結果翌年に延引した。
  7. 隆家次女(参議兼経室)の4世孫にあたる従三位季行の息女が九条兼実室となり良経を生んでいるため、九条家にもその血は入った。