長和

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長和(ちょうわ)は、日本元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇三条天皇後一条天皇

改元

出典

礼記』(冠義)の「君臣正、父子親、而后礼義立」より。

菅原宣義と大江通直が勘申した候補には、他に「太初」(中国の年号をそのまま使用。漢の武帝時代)、「政和」(出典は『礼記』)と長和の三つがあったが、和字が不快だが長和がよいのでは、と陣定で決まった(ここでは不快だと評されているが、「○和」という元号は日本では承和から昭和まで18回採用されている)。

前回の改元の際には大江匡衡が勘申した「寛仁」と「寛弘」から、寛仁がよいのだが一条天皇の諱(懐仁)と音が重なるため寛弘が選ばれたという経緯があり、それなのに今回の勘文では寛仁の出典が見つけられずに候補に上がっていないということで道長がぼやいている(匡衡はこの年の7月に死んでいる)。陣定の場でも「寛仁は吉年号なんだがなあ」と未練がましいことを言っているが、候補に上がっていない以上は選ぶわけにはいかない(道長というとワンマンという印象を持たれている側面があるが、その彼であっても、規則に横車を押すようなことはしていないのである)。なお道長はよほど寛仁に愛着があったと見え、後一条天皇即位の後に元号として採用している[1]。道長はよほど「寛」の字を好んだらしく、娘の一人に寛子と名付けており、父の影響かは不明だが息子の頼通もやはり娘の一人に寛子と名付けている。

長和期におきた出来事

西暦との対照表

※は小の月を示す。

長和元年(壬子 一月 二月※ 三月 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 閏十月※ 十一月 十二月※
ユリウス暦 1012/1/26 2/25 3/25 4/24 5/24 6/22 7/22 8/20 9/19 10/18 11/17 12/16 1013/1/15
長和二年(癸丑 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1013/2/13 3/15 4/13 5/13 6/11 7/11 8/10 9/8 10/8 11/6 12/6 1014/1/4
長和三年(甲寅 一月※ 二月※ 三月 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月※
ユリウス暦 1014/2/3 3/4 4/2 5/2 6/1 6/30 7/30 8/28 9/27 10/27 11/25 12/25
長和四年(乙卯 一月 二月※ 三月※ 四月 五月※ 六月 閏六月※ 七月 八月 九月 十月※ 十一月 十二月※
ユリウス暦 1015/1/23 2/22 3/23 4/21 5/21 6/19 7/19 8/17 9/16 10/16 11/15 12/14 1016/1/13
長和五年(丙辰 一月 二月※ 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1016/2/11 3/12 4/10 5/9 6/8 7/7 8/6 9/4 10/4 11/3 12/2 1017/1/1
長和六年(丁巳 一月※ 二月 三月※ 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1017/1/31 3/1 3/31 4/29 5/28 6/27 7/26 8/24 9/23 10/23 11/21 12/21

脚注

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関連項目

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  1. 大津透 『日本の歴史06 道長と宮廷社会』 講談社学術文庫 ISBN 978-4062919067、80-81p。これに続けて「寛○」という元号は日本では多く用いられたが、中国では使用例がないと述べられている。元号一覧_(中国)元号一覧_(朝鮮)元号一覧_(ベトナム)で「寛」を検索されたい。それ以外にはわずかに寛明があるのみだが、これも一次史料では確認されていないものである。