宇都宮国綱
略歴
天正4年8月7日(1576年8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏や皆川氏などの国内の反対勢力が活発化した事もあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには豊臣秀吉と手を結んで対抗する。
しかし、小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された。その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。文禄3年(1594年)、豊臣姓を下賜された。
しかし慶長2年10月13日(1597年11月22日)、突如として秀吉の命により改易され、娘婿の宇喜多秀家預かりとなった。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の3男長重[1]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。他に、太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上であった、という石高詐称によるもの[2]という説もある。
その後、国綱は宇都宮を追放されて備前の宇喜多秀家の下に預けられた。秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣し、順天城の戦いで武功を立てた[3]。しかし、秀吉の死により再興はかなわなかった[4]。
その後、諸国を流浪し、慶長12年(1607年)に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死したと言われている。享年40。
作品
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