大久保忠隣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士

ファイル:Site Where Ōkubo Tadachika Confined.jpg
滋賀県彦根市龍潭寺境内の大久保忠隣幽居之跡

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将譜代大名相模小田原藩の初代藩主。父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。講談で有名な旗本大久保忠教の甥にあたる。小田原藩大久保家初代。

生涯

天文22年(1553年)、松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世の長男として三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)で生まれる。

永禄6年(1563年)から徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)に遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。これを皮切りに、家康の家臣として三河一向一揆元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、家康の傍を離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した[1]

天正10年(1582年)の本能寺の変に際して家康の伊賀越えに同行、甲斐信濃平定事業においても切り取った領国の経営に尽力した。この時大久保長安も抜擢され、長安は忠隣の元で辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられた。

天正14年(1586年)の家康上洛のときに従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を下賜された[2]

家康の関東入国の折、武蔵国羽生2万石を拝領し、文禄2年(1593年)には家康の三男・徳川秀忠付の家老となる。文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原6万5,000石の領主(後に初代藩主)となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。

慶長6年(1601年)、高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の中、家康重臣である本多正信・正純父子と対立する。その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、忠隣は武功派に強い求心力を持っていた。本多父子が家康の後継者に次男・結城秀康を推奨していたこともあり、側近として秀忠を後援する忠隣には看過しがたいものがあった。

両者の対立は次第に顕在化の様相を呈し、慶長17年(1612年)の岡本大八事件を経て一気に沸騰する。さらに慶長19年(1614年)に起こった大久保長安事件に連座し、これに便乗する形で浪人馬場八左衛門が忠隣が大坂の豊臣秀頼に内通していると誣告したため、家康の不興を買った。忠隣はキリシタンの鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いたところ、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身となった。この時、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられている。

その後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日に死去した。享年75。将軍家の許しが下ることはついになかった。

改易の主要な理由については、表向きには馬場の訴状で指摘された豊臣との内通、長安事件の連座の他、忠隣の養女と山口重信との無断婚姻などが提示されているが、本多父子が長安事件を口実に利用し、政敵である忠隣を追い落とすための策謀を巡らせたとする見解も強い。正純は岡本大八事件に部下が関与したことで政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったものと思われる。『徳川実紀』も本多父子による陰謀説を支持している[3]

また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説[4]などもあるが、明確な理由は不明である。

忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され(嫡男の忠常は早世)、その養子で忠職の従弟・忠朝の時に小田原藩主として復帰を果たした。また、連座で謹慎していた次男の石川忠総は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げたことから最終的に近江国膳所藩主となり、子孫は伊勢国亀山藩主となった。

人物・逸話

  • 改易を言い渡されたのは慶長19年1月19日で、忠隣はこの時、京都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。そこに前触れも無く、家康の上使として京都所司代板倉勝重が現れたのを聞いて全てを悟り、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、勝重はそれを承知したという。また、忠隣の改易を知るや、京都の市民が大慌てし、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」と「藩翰譜」にある。
  • 井伊直孝が、家康の死後に大久保忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされる。
  • 関ヶ原の戦いの後に、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をした時に、秀忠の兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がる中、忠隣が秀忠を推薦したエピソードも知られる(『台徳院殿御実記』)。
  • 秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策した。しかし忠隣は秀次が送ってきた2度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れたという(藩翰譜)。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

演じた俳優

関連項目

テンプレート:小田原藩主
  1. 寛政重修諸家譜』によると、奉行職とは後の老中のような役職であり、若年の頃から徳川家中で枢要な地位にあったことを示唆している。徳川政権の黎明期、まだ老中制度は確立されていなかったが、忠隣は政敵本多正信と共に、事実上の『初代老中』とも言うべき立場にあった(山本博文『お殿様たちの出世』p54-55)。
  2. 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号p113-114。
  3. 藤野保『徳川幕閣』p97-98。
  4. 三津木國輝『小田原藩主 大久保忠世・忠隣』