石川忠総
テンプレート:基礎情報 武士 石川 忠総(いしかわ ただふさ)は、江戸時代前期の大名。大久保忠隣の次男で、徳川秀忠より名前の一字を拝領し忠総を名乗り、外祖父である石川家成の家を継ぎ、家成流石川家3代として美濃大垣藩石川家第3代藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩藩主を務めた。忠総の子孫は伊勢亀山藩主、常陸下館藩主、旗本3家が明治維新まで存続した。なお、『石川忠総留書』の著者でもある。
生涯
慶長3年(1598年)から徳川家康の小姓頭となって仕えた。慶長5年(1600年)会津征伐のため下野小山に在陣した折り、堀尾忠氏より家康に対し異心無い証として家康近臣に妹を嫁がせたい旨の申出があり、家康の命により忠総が忠氏妹との婚を約した。関ヶ原の戦いの後同年冬、家康の命により外祖父である石川家成の養子となり、慶長8年(1603年)には従五位下主殿頭に叙任し5千石を賜った。なお、石川家成の母芳春人妙西尼は家康の母於大の方の姉妹で家成は家康の母方の従兄にあたる。慶長12年(1607年)、家成の嗣子であった石川康通が家成より先に死去した。康通には子に忠義がいたが、幼少のために家成がやむなく家督を再び継ぎ、その家成も慶長14年(1609年)に死去し、未だ忠義は幼少であったことから家康の命で忠総が石川家の家督(美濃大垣5万石)を継いだ。
慶長19年(1614年)、大久保長安事件で実父忠隣が改易されると、連座により忠総も駿河で蟄居を命じられた。しかし大坂冬の陣が起こると「忠総は石川の家督相続人で忠隣の縁座に掛からない」とすぐその罪を許されて従軍し、功を挙げた。翌年の大坂夏の陣においても戦功を挙げている。元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で豊後日田へ移封された。元和6年(1620年)の大坂城修築でも功を挙げ、そして肥後熊本藩の加藤忠広が改易されると、その後の処理を取り仕切っている。
寛永10年(1633年)6月7日、下総佐倉7万石へ加増移封。翌年には近江膳所へ移封され従四位下に叙爵、徳川家光上洛時には参内の供奉に列した。慶安3年12月24日(1651年2月14日)、69歳で死去。嫡男の廉勝が早世していたため、廉勝の長男で嫡孫の憲之が膳所藩石川家第2代藩主となり後を継いだ。翌慶安4年遺領の内より次男総長に1万石、4男貞當に4千石、7男総氏に3千石が分与された。家成の外孫で忠隣の子ということもあるが、自身も才能に優れ、功績も多かったため、家康や秀忠から大いに信任を受けた。家康は病床にある時、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。
慶長17年(1612年)忠総の依頼によって作られた『源氏物語手鑑』(土佐光吉筆、斡旋した中院通村ら公家18人が詞書和泉市久保惣記念美術館蔵、重要文化財)が完成する。詞書を記した一人山科言緒の日記『言緒卿記』によって制作経緯も辿れ、依頼者、斡旋者、絵師、制作年代が詳しく分かる貴重な作品である。また、膳所藩主時代には、特産品として遠州七窯の一つとして評判を上げた膳所焼隆盛にも力を注いだ。