伊勢亀山藩
伊勢亀山藩(いせかめやまはん)は、伊勢国に存在した藩の一つ。藩庁は伊勢亀山城(三重県亀山市)[1]。
目次
藩史
伊勢亀山は戦国時代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた関盛信が領していた。盛信の子・関一政は美濃多良に移封され、代わって豊臣氏の家臣・岡本良勝が2万2000石で入る。良勝は、亀山城を築き、城下を発展させて検地を行なったことから確立しているといってよい。しかし慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された。
代わって、東軍に与した関一政が関ヶ原における功績で旧領復帰を許されて3万石で入る。一政は、亀山宿の整備や城郭の修築などに尽力した。しかし慶長15年(1610年)7月19日、伯耆黒坂藩へ移封され、8日後の7月27日に三河国作手藩より松平忠明が5万石で入る。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぼされると、直後の6月10日に忠明は摂津大坂藩に移封され、亀山藩は廃藩となり、その領地は四日市代官の水谷光勝や津藩領として支配された。
元和5年(1619年)9月29日、三河挙母藩より三宅康信が1万石で入る。康信は元和6年(1620年)8月に2000石の加増を受けて1万2000石の藩主となったが、第2代藩主・三宅康盛時代の寛永13年(1636年)5月18日、旧領へ戻された。
約1ヵ月後の6月23日、三河西尾藩より本多俊次が5万石で入る。俊次は、寛永14年(1637年)に領内のほぼ全域で検地を行ない、翌年の寛永15年(1638年)には代官・大庄屋制度を確立し、亀山城の修築を行なっている。しかし、慶安4年(1651年)4月4日に近江膳所藩へ移封となる。入れ替わりで石川憲之が5万石で入るが、寛文9年(1669年)2月25日に山城淀藩へ移封となる。
代わって下総関宿より板倉重常が5万石で入るが、第3代藩主・板倉重治時代の宝永7年(1710年)1月26日に志摩鳥羽藩へ移封される。入れ替わりで松平乗邑が6万石で入るが、享保2年(1717年)11月1日に山城淀藩へ移封となる。
再び板倉重治が戻ってきて、第2代藩主・板倉勝澄時代に板倉氏は石川総慶と交代する形で延享元年(1744年)3月1日、備中松山藩へ移封と、藩主家の交替が激しい土地であり、藩主の長期間における支配が定着しなかったが、石川総慶が6万石で入ってようやく藩主家の支配が定着した。ちなみに、この石川氏は徳川家康に仕えたことで有名な石川数正系統の石川氏ではなく、数正の叔父・石川家成系統の石川氏である。
第4代藩主・石川総純は米の専売や荒地における検地を行なって藩財政再建を目指したが、これに反対する百姓一揆が明和5年(1768年)に起こって改革は失敗した。第5代藩主・石川総博は寛政2年(1790年)に藩校・明倫堂を創設した。第10代藩主・石川総禄は洋式軍備の導入や茶の栽培奨励などを行なっている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主・石川成之は藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で伊勢亀山藩は廃藩となり、亀山県、安濃津県を経て三重県に編入された。
歴代藩主
関(せき)家
3万石(外様)
松平(奥平)(まつだいら(おくだいら))家
5万石(譜代)
天領
三宅(みやけ)家
1万石→2万石(譜代)
本多(酒井)(ほんだ(さかい))家
5万石(譜代)
- 本多俊次(としつぐ)従五位下。下総守。
石川(いしかわ)家
5万石(譜代)
- 石川憲之(のりゆき)従五位下。主殿頭。
板倉(いたくら)家
5万石(譜代)
松平(大給)(まつだいら(おぎゅう))家
6万石(譜代)
板倉(いたくら)家
5万石(譜代)
- 板倉重治(しげはる)(再封)
- 板倉勝澄(かつずみ)従五位下。周防守。
石川(いしかわ)家
6万石(譜代)
- 石川総慶(ふさよし)従五位下。主殿頭。
- 石川総尭(ふさたか)従五位下。主殿頭。
- 石川総純(ふさずみ)従五位下。日向守。
- 石川総博(ふさひろ)従五位下。日向守。
- 石川総師(ふさのり)従五位下。主殿頭。
- 石川総佐(ふさすけ)従五位下。主殿頭。
- 石川総安(ふさやす)従五位下。主殿頭。
- 石川総紀(ふさのり)従五位下。日向守。
- 石川総禄(ふさよし)従五位下。主殿頭。
- 石川総脩(ふさのぶ)なし。
- 石川成之(なりゆき)従五位下。日向守。
幕末の領地
脚注
関連項目
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テンプレート:江戸時代の藩- ↑ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(373ページ)