松平忠吉
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テンプレート:基礎情報 武士 松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。
徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。
生涯
遠江国浜松城下(現在の静岡県浜松市)に生まれる。天正9年(1581年)東条松平家の家忠が病死すると、その家督を継いで三河国東条城1万石を領し、名を松平忠康と改める(祖父・広忠と父・家康の一字をもらう)。天正10年(1582年)、駿河国沼津城4万石に転封される。
父・家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵国忍城主となり、元服して忠吉と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。戦後、尾張国および美濃国で清洲52万石を与えられ左近衛中将にも任官した。
慶長12年(1607年)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷[1]がもとで江戸で死去、享年28。法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。忠吉には嗣子がなく[2]、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直)が継いだ。また、同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれている。
人物
正しい器量を備えた美男子で人望も厚く、天下の諸侯が忠吉のためには命も惜しくないとこぞってかしずいたという(『武野燭談』)。
補注
外部リンク
- 松平忠吉・井伊直政陣跡 関ケ原町地域振興課