大野治長

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テンプレート:基礎情報 武士

大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将豊臣氏の家臣。父は大野定長。兄弟に、治房治胤治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位従四位下修理大夫知行15,000石。

生涯

永禄12年(1569年)、京都に生まれる。豊臣秀吉の側室・淀殿乳母である大蔵卿局の子にあたる関係から、秀吉に約3,000石の馬廻衆として取り立てられた。天正17年(1589年)には和泉国佐野と丹後国大野で併せて1万石の大名となっている。文禄3年(1594年)の伏見城の普請に携わっている。

秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えたが、慶長4年(1599年)の徳川家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として罪を問われ、下総国流罪とされる。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に参戦し武功を上げた事で罪を許され、戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残った。

慶長19年(1614年)、豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至るが、消極的和平を主張した治長は真田信繁など主戦派と反目するテンプレート:要出典。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍徳川秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。享年47。

人物

淀殿との密通

当時より、治長は淀殿と密通していたとの噂があった。 テンプレート:Cquote3 同様の記述は『多聞院日記』や姜沆による『看羊録』にもあり、このため江戸時代の『明良洪範』では秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとしている。

演じた俳優

映画

TVドラマ

関連項目