大野治胤

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テンプレート:基礎情報 武士 大野 治胤(おおの はるたね)は、江戸時代前期の武将豊臣氏の家臣。道犬斎ので知られる。

生涯

父・大野佐渡守、母・大蔵卿局の子として誕生。兄に大野治長大野治房、弟に大野治純がいる。

豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では兵5000を率いた。豊臣家の水軍を率いて船倉を守備するが、天候が不良であった事に油断し、野田・福島の戦い徳川水軍に大敗。自軍の水軍を壊滅させたため、「橙武者(見かけだおしで役立だず、という意味)」と嘲られた。なお、橙武者として有名なのは薄田兼相だが、もともとは薄田と治胤の両名を指した言葉である。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、手勢を率いてを焼き討ちした。夏の陣後、大坂城から脱出を図ったが、徳川方に捕らえられた。彼に焼き討ちされた堺衆は、南都焼き討ちを行った平重衡がその報復を求める南都衆に引き渡された前例を挙げて治胤を引き渡すことを板倉勝重に求めたため、彼らに引き渡された。治胤は堺で磔にかけ火あぶりにされ刑死した。勝重はこのやり方に不満を持ち、堺衆に「南都の者たちは重衡を磔にかけたであろうか」と問うたという。墓は堺市堺区の月蔵寺にある。

なお、『葉隠』では、名称は大野道賢とされ、火あぶりにされ全身焼かれて炭になったはずの治胤が、いきなり起き上がり周囲の徳川方武士に脇差で斬りかかり一太刀浴びせた後そのまま灰となって崩れ落ちた、という逸話が残っている。