片桐且元
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、奉行、大名。賤ヶ岳の七本槍の1人。豊臣家より豊臣姓を許される。父は浅井氏家臣の片桐直貞、母は不詳。弟に小泉藩主となった片桐貞隆。大和竜田藩初代藩主。且元系片桐家初代。関ヶ原の戦い以降、徳川家康に協力的な立場で豊臣秀頼に仕えていた。
目次
諱
天正12年(1584年)における小牧・長久手の戦いの6月5日付けの陣立書まで確認できるように、豊臣秀吉からは長らく助作と呼ばれていた。翌天正13年(1585年)7月1日、従五位下・東市正に任じられた際より、直盛の使用が確認される[1]。且元の使用は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前の頃と考えられている。[2]
この記事においては、且元を使用する。
生涯
出生
近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれる。信濃源氏の名族片桐氏は伊那在郷の鎌倉御家人であったが、本流が片桐郷に残る一方、支流は承久年間以降に美濃・近江に進出、戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは直貞の代からという。須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きであり、同城の支城の一つとして機能するとともに、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落した。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現存している。この事から、17歳の且元も一貫して浅井方として戦い、そして幼き頃の淀殿姉妹や大野治長兄弟らと共に、落城を経験したと考えられる[2]。且元が家督を継いだ時期は定かではない。
豊臣秀吉馬廻衆
浅井氏に変わって長浜城主及び北近江3郡の領主となり、多くの人材を募っていた豊臣秀吉[3]に、天正2年(1574年)以降から天正7年(1579年)までの間には、同じ近江国生まれの石田正澄・三成兄弟と同じように仕官し、毛利輝元に対する中国攻めにも従軍していたと考えられている[2]。
天正11年(1583年)5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられている。天正12年(1584年)6月、小牧・長久手の戦いでは、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として150人を率いて本陣を守っていたと考えられる。天正14年(1586年)、従五位下東市正に任官される。
その後は前線で活躍することはなく、馬廻衆として後方支援などの活動が中心となり、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっている[4]。また、所領のあった摂津国を始め、秀吉の支配領域の拡大に伴い、丹波国[5]、大和国、伊予国など各地で、小堀正次、浅野長政、福島正則などと共に、検地奉行に携わるようになる。
九州征伐では軍船の調達。小田原征伐では、脇坂安治や徳川家臣と共に小田原城の接収に立会い、早川長政と共に鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営手配と所領安堵及び検地。奥州仕置では出羽国秋田での検地の他、浅利事件の調査に関わり、当事者の上洛を差配し、長束正家に裁定を乞う。
秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの一揆衆のなで斬りや街道普請などの指令を取り次ぎ、2度の晋州城の戦いなどに参加。文禄2年(1593年)、講和に向けた休戦により9月から10月に帰国[6]。文禄検地において、摂津国、河内国北部の奉行となる。
文禄4年(1595年)には、播磨国内などに5,800石を加増され、摂津茨木城主1万石となる[4]。文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震以降は、その復興事業に関連した大坂の都市改造計画にかかわっていたと見られる[7]。慶長3年(1598年)には大坂城番となり、城詰めとなる。秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役5人に小出秀政らと共に選ばれた。
徳川家康時代
豊臣家重臣
慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊している。以後、2人は報告・連絡を取りを続けていくことになる,[8]。慶長5年(1600年)長束正家ら奉行衆より、小出秀政と且元は大坂城の所務の監督的な立場に、家康ら大老衆からは石田正澄、石川貞清・頼明兄弟と共に御奥の警護役に任じられている[9]。
9月の関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方・西軍に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣した[10]が、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走し、逆に家康から播磨国と伊勢国の所領6,000石と引替に大和国竜田藩2万4千石を与えられる[11]。
それ以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地[12]などに協力。また、寺社奉行として、当初は豊臣公儀の政策であった畿内を中心とした多数の寺院復興事業、慶長6年(1601年)完成の近江国浄真寺から始まり、同11年北野天満宮や、同12年大徳寺などにおいて、家康の承認を明らかにしつつ、また、同7年方広寺大仏殿と崇伝住職の同9年南禅寺では、家康からの指示により務める。
慶長9年(1604年)の秀吉7回忌と同15年13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行を務める。また、朝廷との橋渡しを務めた他、慶長14年(1609年)の後陽成天皇の寵姫と公家の醜聞事件である猪熊事件では、京都所司代の板倉勝重に協力した。
慶長10年(1605年)頃からは、家康から豊臣家直轄地である摂津国・河内国・和泉国・小豆島[13]を管轄する、国奉行のような立場に任じられる。同年までを区切りに行われた徳川家の本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成だけではなく、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっている[14]。
慶長16年(1611年)、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛[15]し、要望されていた秀頼との洛内二条城での会見に、且元も随行する[16]。
既に慶長11年(1606年)には、家康らの意向に沿って管轄内にキリスト教禁止令を発布していた[17]が、慶長19年(1614年)には、前年に公布されていた崇伝起草の禁止令に従い、教会を打ち壊して棄教政策を徹底し、53人を肥前国長崎へ送った[18]。
方広寺鐘銘事件
慶長19年(1614年)3月には、豊臣家の威信が賭かった再建開始から14年目の、且元も長らく12年間を総奉行として関わってきた方広寺大仏殿はほぼ完成し、豊臣秀頼の名において全国から鋳物師を集める[19][20]。銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。棟札の書は三井寺長吏の興意法親王による。
5月、家康は且元に対し、方広寺の供養の導師を天台宗仁和寺門跡の覚深法親王にを指名する。7月、後水尾天皇より、大仏開眼法要を真言宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命が下される。家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを豊臣秀吉の命日である8月18日との指示を出す[21]。18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とする[22]。
7月末、勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札[23]、座席などの疑惑によるとする、方広寺鐘銘事件が起こる[21]。崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。8月13日の夜、大坂城下が静まらない中、且元、治長、清韓などが駿府へ派遣される[24]。17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられる[25]。
8月18日に銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山(5つの寺)の7人の僧侶に会議が命じられ 清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いた[26]事は不敬とされ[27][28]、更に林羅山より呪詛など[29]と批難された。
19日の入府より、且元[30]は、崇伝ら相手への弁明に務めたが、家康との会見も無いままだった。しかし、29日に駿府入りしていた大蔵卿局[21][31]は家康とすんなり対談となり、鐘銘の事も話題とならずに丁寧に扱われ、家臣の山本豊久は「騙し合い」と評している[32]。9月8日、崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい。」と伝えられ、9月12日に帰坂する[25]。
徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか[4]、裏で崇伝らに半ば言い含められたものか[33]は不明瞭であるが、戦争を避けるために、「秀頼の駿府と江戸への参勤。」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする。」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る。」の対策の中の1つを早急に選ぶことを提案するが、大野治房、渡辺糺といった豊臣家の人間たちから家康との内通を疑われるようになる[21][34]。9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ[35]屋敷に篭り守りを堅める[36]。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして[32]城を出ることを決め、秀頼側からも「不忠者である」として改易が決められる[37]。蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去する。且元は貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した[38][4][39]。この日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康による、徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある[21]。
大坂の陣
大坂の陣には家康に人質を送って従属し、10月10日には、且元は土佐国へ大坂への米の回送を禁じている。10月12日には家臣の多羅尾半左衛門を300の兵で堺の救援に向かわせたが既に遅く、迎撃されて半左衛門も戦死に至る。自らも本隊を率いて、海路を進むために尼崎の港を目指したが、上手くいかずに逃げ帰る[25]。
家康が二条城に到着した23日には軍議に加わり、先鋒を命じられる。11月1日には小豆島周辺3ヶ国に物資の回送と大坂城の経済封鎖を命じ、3日には絵図の制作にあたり、5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど、徳川方に厚い全面的な協力をした,[40]。
12月、徳川方は真田丸の戦いでの敗戦や兵糧不足の問題などで戦況は思わしくなかった。そこで16日より北側だけでも100門以上の大筒や石火矢での攻撃を開始し、18日には且元も家康の砲術方の数十人を率いて加わり、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃などで、講和に結びつける大きな戦果を上げたとされる[41]。
慶長20年(1615年)1月に隠居を願い出たが許されず、竜田や伏見などに転居の後、4月は駿府に屋敷が与えられた[25]。江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こる[42]と、4月26日の夜半には竜田城の周辺へ放火が行われた[43]。且元は5月6日に道明寺に到着し、夜を徹して久宝寺の将軍徳川秀忠に合流した。岡山口への布陣を命じられたために初陣の嫡男・片桐孝利を家臣の梅戸八右衛門を付けて送っている[44]。大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいる事を、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元に知らせてきたので秀忠に通報し、豊臣氏は助命叶わず滅亡した[32]。
前年より肺病を患い、家康より送られた片山宗哲の診察を受けていた[21]が、大坂夏の陣後から20日ほどして、5月28日に京屋敷にて、突如の60歳での死を遂げている[32]。 殉死したとの説もあるが、定かではない。葬儀は大徳寺で行われた。
死後、嫡男の孝利が跡を継いだが片桐為次の代で無嗣断絶となった。且元の系統は絶えたが、小泉藩主となった弟・貞隆の家は明治まで大名として存続し、片桐の家名を伝えた。その子孫は子爵を受爵した。
逸話・その他
- 兄の賢珍を継いで、天正17年(1589年)に近江国草津の芦浦観音寺の住職と、近江国と大和国で合わせて4万石の蔵入地の代官となる詮舜が、豊臣秀吉に若き日の且元と石田三成の教育を命じられたという逸話がある。[2]
- 『絵本太閤記』に、山崎の戦い決着後の夜に、死体を装って秀吉に不意打ちしようとした明智光秀の側近である明智光近を討ったという且元の活躍の記述がある。
- 丹波国木津村と播磨国清水寺の国境界争論の裁許を行い、清水寺側から御礼を受け取っている。[2]
- 天正14年(1586年)、『多田雪霜談』によると、秀吉により、摂津国の山下城主塩川長満の攻撃を、池田輝政、堀尾吉晴と共に命じられた。山崎の戦いで光秀に味方し逃亡した地黄城の能勢頼次の旧領は長満の領地となっていたが、後に秀吉の命で頼次に戻されており、それを九州征伐で頼次が留守になったところで長満が再領有しよう攻撃したためだとされる。但し、『川西市史』ではこれを別説とし、『高代寺日記』によれば、塩川氏の取り潰しの原因は、お家騒動であるとしている。また、『能勢町史』によると、頼次は島津義弘が能勢郡を在京賄料として拝領していた天正年間に、野間神社の再興願いを聞き遂げられており、秀吉の死後には徳川家康に取り立てられ、関ヶ原の戦いの後に3,000石で再興となる。その後、大阪夏の陣の出陣による留守中に、大坂方となった長満の子の塩川頼面が領内に攻め込み、それを頼次を含めた徳川軍が破り、頼次は5,377石に加増されている。
- 小田原征伐の陣立書から、この時点での本来の兵役義務で負う動員数を逆算すると、福島正則が5,700人、石田三成が3,000人、且元が600人となる。[45]
- 高野山の石高の脱申告が発覚した際には、早川長政と共に派遣され、木食応其などから調査を行なっている。[46]
- 浅利事件の際には、浅利頼平を擁護する前田利家、浅野長政、佐々正孝ら大老側ではなく、秋田実季を擁護する、長束正家、木村重茲ら奉行側の立場に立ち、大老側に手を引かせた。[47]
- 文禄の役の際、宮城豊盛と共に先発して街道の整備を行ったが、備前国より軍勢の延滞を引き起こしたために、海路用の船の調達を指示されている。[4]
- 1595年(文禄4年)8月17日に1万石の大名となった時点で、福島正則尾張国24万石、加藤清正肥後国25万石、加藤嘉明伊予国10万6,000石、脇坂安治淡路国3万石、糟屋武則播磨国1万石、平野長泰大和国5,000石である。
- 慶長3年3月15日(1598年4月20日)、『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』によると、醍醐の花見に置いて、三の丸殿の警護役、「御こしぞえがしら(御輿添頭)」に当っている。
- 慶長11年(1606年)、江戸城普請において、京都所司代の板倉勝重らによる畿内の職人の派遣に協力している。
- 慶長13年(1608年)、河内国狭山藩の所領にまたがる狭山池の治水事業に当たっている。[48]
- 慶長16年(1611年)、家康からの豊臣秀頼への二条城の会見要請において、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示すが[49]が、且元が「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得をしたという。その際、クジで大凶を引くと、吉に書き直させたという。[50]。
- 慶長19年(1614年)2月には、6月、『東武談叢』などによると、この頃には豊臣家と徳川家の関係は緊張が高まっていた。徳川家康より且元と大野治長は、豊臣家が浪人を召し抱えて調練に励んでいるという風評への憂慮を告げられ、その一方でそれぞれ5,000石の加増を受けたとしている。ただし、『梵舜日記』によると、加増を受けて挨拶に出向いたのは弟の貞隆であり、且元は京都にいる。
- 慶長19年(1614年)2月17日には家康はイギリス商人のウィリアム・アダムスより大砲、弾薬、鉛600キログラムを購入している。『東武談叢』などによると、前田利長は、豊臣家の織田長益と大野治長から、調練の依頼及び軍資金と兵糧の準備完了を報告する密書が送られる。利長は家康へ転送する。6月22日、徳川家康より且元と大野治長は、豊臣家が浪人を召し抱えて調練に励んでいるという風評への憂慮を告げられ、その一方でそれぞれ5,000石の加増を受けたとしている。ただし、『梵舜日記』によると、加増を受けて挨拶に出向いたのは弟の貞隆であり、且元は京都にいる。28日には梵鐘を架けての撞き初めの式を行う。
- 9月、釈明から帰坂する前、「文学に明るくないので罪には問わない。徳川家と豊臣家の関係修復をお願いしたい。」と伝えられたとする[4]。
- 秀頼を裏切り家康に味方した且元に対して、当時の記録は批判的な批評がなされている。
- 辻善之助の『片桐且元論』によると、秀頼に参勤交代をさせるなどの3案は、家康が死去するまでの時間稼ぎ策だったとする『難波戦記』などの逸話は、『山本日記私記』には早くも見られるが、『山本日記』自体には無いもので,後年の編者などに書き加えられたものとしている。且元の人格については、平凡であったと評している。
- 年代は不明だが、豊臣姓を下賜されている。
脚注
参考文献
関連作品
江戸時代の読本。
小説としては以下の作品が挙げられる。
- 鈴木輝一郎『片桐且元』(小学館文庫、2004年)
- 徳永真一郎「片桐東市正且元」 - 収録:『賤ヶ岳七本槍 秀吉を支えた勇将たちの生涯』(PHP研究所、1992年)
- 井沢元彦「抜け穴」 - 収録:『暗鬼』(新潮文庫、1989年)
- 桑田忠親「片桐且元」 - 収録:『新編日本武将列伝』(秋田書店、1989年)
歌舞伎としては以下の作品が挙げられる。
- 坪内逍遥『桐一葉』(1904年3月東京座初演) - 最善を希望しながらも最悪の結果を目の当たりにして苦悩する且元に近代人を見出し、『桐一葉』(1894年、初演1904年)の中心人物に選んだ。これをもとにした新歌舞伎は、大当たりをとり、「片桐且元」の名は一躍有名となった。
関連項目
外部リンク
テンプレート:竜田藩主- ↑ 天正18年(1590年)の小田原征伐では直倫が使用されている
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 曽根勇二『片桐且元』 引用エラー: 無効な
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タグ; name "sone"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 当時羽柴姓
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 譜牒余録
- ↑ 嵐瑞澂『兵庫史学24号』「丹波の太閤検地について」
- ↑ 『片桐文書』
- ↑ 近衛信尹に出された、栗東寺の移転が免れた事での御礼の書状。『鹿苑日録』
- ↑ 『片桐家朱印状』
- ↑ 桑田忠親『豊臣秀吉研究』
- ↑ 『大津城攻防戦闘要図』、『筑紫古文書』
- ↑ 『慶元記』には豊臣家の家老に昇進したとある
- ↑ 中村孝也『徳川家康家康在所文書の研究』
- ↑ 『菅家文書』
- ↑ 『大日本史料』「伏見御城番御所之覚」
- ↑ 3月27日の後陽成天皇の譲位、4月12日の後水尾天皇への即位の儀式に立ち会うため。
- ↑ 前日に出立し、会見当日に入洛した秀頼は、且元の京都三条屋敷で衣装を整え、隊列を組み直して二条城へ向かい、朝8時頃に到着した。
- ↑ 『イエズス会報告集』
- ↑ 『パゼー日本耶蘇教史』『本光国師日記』
- ↑ 『梵舜日記』
- ↑ 青銅17,000貫(63.75トン)に対し、鋳物師100人とその棟梁14人、外鋳師3,000人。
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 『駿府記』
- ↑ 呪願(祈願者)は三宝院門跡の義演、證誠(証人)は照高院門跡の道澄、天台宗僧500人の引頭は竹内門跡の良尚法親王、真言宗500人の引頭は、随心院門跡の増孝。
- ↑ 京都大工頭の従四位下・中井正清により、記名されていない事に対する不服申し立てが、奈良興福寺などの写しを添えて行われた。
- ↑ 『義演准后日記』
- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 本光国師日記
- ↑ 『摂戦実録』
- ↑ 東福寺の聖澄が「家」「康」の間に文字を入れたこと、建仁寺の慈稽、南禅寺の景洪、天竜寺の令彰4人が、大御所の諱を用いたことを不敬とした。また、聖澄、慈稽は、前文の「外施仁政」は、後水尾天皇の諱の「政仁」に障りがあるとした。東福寺の守藤は、天皇の諱は避けるべきだが、前将軍(大御所)の諱を避けるべきかどうかは判らないとした。
- ↑ 五山の僧侶たちは、清韓が故意に不祥な語句を作ったと回答したが、五山外の妙心寺の海山のみ、「清韓の文章は世に知られ、至らない者に判決は難しい。凶詞書く人物でもなく、天下泰平を祝し、功徳を著したものに違いない。」などと擁護した。『武徳編年集成』
- ↑ 右大臣の唐名を用いた「右僕射源朝臣家康」は「源氏の長者である家康を射る」、「君臣豊楽 子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫までの繁栄を祈る下心」とした。『摂戦実録』
- ↑ 大野治長は大坂へ報告に戻る
- ↑ 8月下旬に大坂より、大野治長兄弟の母で淀殿の乳母である大蔵卿局が派遣された。正栄尼が随行していた。『本光国師日記』
- ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 『山本日記』
- ↑ 『北側遺書記』『伊達政宗記録事跡』。辻善之助は『片桐且元論』で、こちらの説を採っている。
- ↑ 『寛政重修諸家譜』によると、京都の勝重に対面した且元より1日早く帰坂していた大蔵卿局が、家康の不機嫌を重く見積もっていなかったための見解の齟齬から、疑惑を生じさせた。
- ↑ 信雄は27日に城を退去
- ↑ 淀殿よりの呼び出しとされたが、月代を剃り風邪を引いたとして登城を拒否。『伊達政宗記録事跡』
- ↑ 領地召し上げを知らせる使者が駿府・江戸へ送られる。
- ↑ 徳川方の宣戦布告を知らされた後は、徳川軍の使用のために茨木城を明け渡すべきかなどの問い合わせを行なっている。『本光国師日記』
- ↑ 且元は乗り物に乗り、抜き身の刀や弓、火縄のかかった銃を持った侍50名ほどに周りを固められていたとされる。『大坂御陣山口休庵咄』
- ↑ 『吉川文書』
- ↑ 『大三川志』では、18日の秀吉の月命日に秀頼が城内の豊国社に参拝することを予想して砲撃し、淀殿の侍女2人を即死させたとしている。
- ↑ 武蔵国多摩川沿岸の六郷で秀忠に謁見。
- ↑ これにより法隆寺が放火されたとの噂が各地に流れている。『言緒卿記』『孝亮宿弥日次記』『東大寺雑事記』
- ↑ 前田利常隊と松平忠直隊の間に布陣。豊臣方が崩れた後は城内に突入している。『山本日記』
- ↑ 『伊達家文書』
- ↑ 申告は3,000石で実高は50,000石であった。『高野山文書』
- ↑ 『秋田家文書』
- ↑ 『狭山町史』
- ↑ 『大坂御陣覚書』
- ↑ 『東武談叢』